011話 *リディア王女視点
こんなはずでは、なかった。
私は机に積み上げられた治療申請書の山を見つめながら、こめかみを押さえる。山は日ごとに高くなり、いまや私の肩を越えて天井に届く勢いだった。
怪我人の処理は遅れ、病人は列をなす。
街は不満の声で満ち溢れ、ついには父王のもとに「王室は聖女をぞんざいに扱っている」という嘆願書まで届く始末だ。
「全部……セラのせいだわ」
追放したはずの聖女の名前を思い出すたび、胸がざわつく。
だけど認めたくない焦りが、胸の奥でじくじくとうずくのも事実だった。
——セラを追放したその日までは、私は確信していた。
彼女は無能。聖女としては半端者。
なぜなら、彼女は一日に四十人ほどしか癒せなかったから。
百人を癒すのが普通の聖女。
だから、四十人しか癒せないセラは明らかに劣っている。
……そう、ずっと、そう信じていた。
ところが。
「お、王女殿下! こ、これは……!」
慌てた様子でブルーノが執務室に飛び込んできた。
いつも落ち着き払っている彼が、顔を真っ赤にして震えている。
「騒々しいわよ。今は緊急の申請が山ほどあるの。報告なら後にしなさい」
「い、いえ、それが……っ。聖女について記された王家所蔵の古文書……あれの解読に、ついに成功しまして……!」
「まあ、それはご苦労さま。で? 何が書いてあったの?」
私は軽く椅子にもたれかかり、紅茶を口に運ぶ。
だがブルーノの口から飛び出した言葉に、私は盛大にむせた。
「普通の聖女が一日に癒せる人数は……十人だったのです!!」
「……は?」
「一日に十人。十、でございます。十。百ではなく!」
……十。
じゅう。
十人。
「は、はぁぁああ!? そんなわけないでしょう! 古文書には『百人』と……!」
「殿下。それが、わたくしたちが桁を誤読しておりました」
ブルーノは震える指で古文書を広げ、丁寧に説明した。
古い数字表記は、桁を示す印の書き方が現在と異なる。
十の印が、劣化してほぼ判別不可能な状態で残っていた結果、後世の学者がそれを百と誤読してしまったのだという。
「だから、普通の聖女は一日に十人。優秀な聖女で二十人。それ以上は歴史上にも極めて稀……。つまり……」
ブルーノの視線が、ゆっくりと私に向けられる。
「セラ殿は、一日に四十人も癒していたのです。これは……史上最高の魔力です」
「…………!!」
言葉が出なかった。
机に積まれた申請書の山が、ぐらぐらと揺れて見えた。
四十人。
私はその数字を、ずっと無能の証だと笑っていた。
だが実際は、その四十という数字こそが——
「セラが……とんでもない天才だったっていうの……?」
「はい。あの子がいたから王都の医療は成り立っていたのです。追放前の業務記録を確認いたしましたが……彼女がいなくなってから、治癒の効率は三分の一以下に落ち込んでおります」
「な、なによそれ……!」
頭を抱えた。
いや、抱えざるを得なかった。
セラは見た目も能力もぱっとしない、無能な聖女だと思ってた。その上燃え尽きて魔法を使えなくなったのだから、口止めに追放しても何の問題もないのだと。
「で、でもそうよ。あの子はもう、魔法を使えないじゃないの。そりゃあちょっとは才能があったかもしれないけど、何もかも過去の話よ!」
「……なんとか、セラ君を連れ戻す方法はないものでしょうか」
「はあ⁉︎ あなたさっきから何を言ってるの⁉︎」
もしもアレが帰ってきたら、私達の関係を言いふらすかもしれないじゃない!
私の反論に、ブルーノは悲しげに目を伏せる。
「セラ君の残した結界が、もうすぐ消えようとしているのです」
「……どういうこと?」
「このままでは王都に魔物が続々と押し寄せ、大惨事になるかと……」」
「……セラが……結界……?」
「はい。あれほど大規模な浄化結界を維持できるのは、セラ様君以外にいません。王都は、彼女の魔力で守られていたのです……」
待って。
私はそんなこと、一度も聞いていない。
「セラが……そんな……? あの、薄汚れた聖女が?」
「どうやら我々は、彼女に守られていたようだ……」
胸がざわめき、呼吸が浅くなる。
だって、そんな話——聞いていない。聞いていたら、絶対に追放なんてしなかった
「……殿下。残念ですが、こちらを」
ブルーノが差し出した羊皮紙には、王都全域の魔力測定図が描かれていた。
淡い青色で満たされていた部分が、ところどころ白く抜け落ち、ひび割れるように黒い筋が走っている。
「結界が……崩壊を始めています。あと二週間……いえ、持って十日でしょう」
「十日……?」
「そ、そんな……っ。何とかならないの、これ!」
「……残念ながら、結界を貼ることができるのは聖女のみ……」
「魔法使いならそれくらいできるんじゃないの!」
「不可能でございます」
「それなら新しい聖女を見つければいいじゃない!」
ブルーノは気まずそうに答える。
「十日以内に、ですか」
「そうよ!」
「殿下……聖女の適性調査には、最低でも数週間は必要です。それに——」
ブルーノは言いにくそうに口をつぐむ。
「なによ。言いなさいよ」
「……ここ十年、新たな素質者は見つかっておりません」
頭を殴られたような衝撃だった。
「じゃ、じゃあどうすればいいのよ……っ。結界がなくなったら、王都は魔物の巣になるってことでしょ……?」
「その通りでございます」
信じられなかった。
こんな理不尽があってたまるものか。
「そもそも……そもそもおかしいじゃない! 聖女がそんなに貴重な存在なら、どうしてセラはあんな扱いだったのよ!」
「……殿下が、あのようにお命じになったからでは……」
「っ……!」
胸の奥が、焼けるように熱くなった。
責められているわけではない。
ただ事実を突きつけられただけなのに、やけに息が詰まる。
——全部、私が無能だと思い込んでいたせい?
そんなはず、ない。
私が間違っているはずがない。
だって、私は王女で。国を導く立場で——
「……くっ」
歯を食いしばった瞬間、外からけたたましい鐘の音が響いた。
ガンッ、ガンッ、ガンッ!!
「な、なによ今の……!」
「南門方面の警鐘です! 魔物の群れが出現した際に鳴らされる——」
「も、もう来たっていうの……?」
ブルーノは青ざめ、急いで窓際へ駆け寄る。
私も思わず後に続く。
王城の高窓の向こう。
南の街区に黒い煙のような魔力の渦が立ちのぼり、人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた。
「違います……これは、魔物ではありません。結界の外壁が、ひび割れて……魔力が逆流している……!」
「ひび……? え、えぇとつまり……」
「結界の崩壊が、予想よりも早い可能性があります」
足元がぐらりと揺れるような錯覚を覚えた。
十日。
持って十日だと言ったではないか。
「ど、どうするのよ! このままじゃ——」
「……こうなったらもう、セラ君を呼び戻すしかないかもしれない」
「それはダメよ!」
私の叫びが、部屋中に鋭く響いた。
ブルーノがびくりと肩を震わせる。
「も、もし戻ってきたら……私たちのしたことを言いふらすかもしれないじゃない……っ。私が……私が聖女を追い詰めたなんて、知られたら……っ」
震えが全身をかけめぐる。
だがブルーノは、静かに私の名を呼んだ。
「……リディア殿下」
「な、何よ……」
「このままでは、王都は滅びます」
落ち着き払った、しかし決して逃げ道を残さない声音。
まるで、壁際に追い詰められたような息苦しさを覚えた。
「民衆が真実を知れば、王室は非難されるでしょう。ですが……王都が魔物に踏み荒らされれば、非難どころでは済みません」
「…………」
「王族としての誇りを守りたいのであれば、なおさら——今、なすべきことはひとつです」
「……セラに……頭を下げろって言うの」
「はい」
喉がひりついた。
屈辱でも怒りでもない。
もっと、現実的で、逃げがたい何かだった。
「で、でも……あの子は、もう魔法が使えないんじゃ……」
「それは恐らく、燃え尽きによる一時的な魔力枯渇です。あれほどの素質を持つ聖女が、完全に力を失うとは考えられません。適切に休息を取れば、回復する可能性は十分にございます」
「…………!」
そんな……。
そんな理屈を言われたら……。
認めざるを得ないじゃない。
「……セラが……戻ってきてくれたら……」
私は唇を噛みしめながら、小さく呟いた。
「王都は、救われます」
ブルーノの言葉は決定的だった。
救われる。
たった一人の聖女に。
私が追放した、その聖女に。
「……ユリウス伯爵の元に……使者を送りなさい」
かすれた声だった。
誇りも、プライドも、みっともなく削られていくような感覚。
それでも言うしかなかった。
「はっ。直ちに」




