第三話……モリガン、牙を剥く
「おいおい、領主坊ちゃんを脅して、姐さんも落ちぶれたもんだな」
誰かが酔いに任せて口走った瞬間――。
隣の席から立ち上がった巨影が、音もなくそいつの襟首を掴み上げた。
身長は2m50cmを超える筋肉だるま。その赤毛の巨漢が低く唸る。
「……姐さんの言葉に文句あるか?」
顔を真っ青にした酔っ払いが首を振ると、巨漢は無造作に床へ放り捨てた。
酒場中が静まり返る。
「副長のレッドベアだ……!」
「やべぇ……」
誰かの震える声が広がり、空気が一変した。
ツーシームは煙草をくゆらせながら肩をすくめた。
「まったく、トムは物騒だねぇ」
赤毛の巨漢――《レッドベア》は答えず、ただ鼻を鳴らす。
場の空気を凍らせたまま、彼は振り返り、ユリウスたちを顎でしゃくった。
「……来い」
低く短い声。
その巨体が動くたび、床板がきしみ、周囲の海賊たちが無言で道を開けた。
グレゴールは警戒を隠さず、だが少年の肩を押して、その背に従ったのだった。
◇◇◇◇◇
酒場の裏口を抜けると、暗い通路が岩盤の奥へと続いていた。
先頭を歩くのは、巨躯の副長――《レッドベア》と呼ばれる男。
無言のまま、低い足音だけが響く。
ユリウスと老家臣グレゴールは互いに目を合わせた。
戻る道はない。この巨漢の背に従うしか生き残る術はなかった。
やがて通路は広間に開けた。
そこは崩れた採掘場の跡地を改造した、秘密のドックだった。
赤茶けた岩壁に隠されるように、黒光りする艦影が横たわっている。
装甲板は煤と傷で覆われ、ところどころ継ぎ接ぎの補強痕。
だがその姿には、幾多の戦いを潜り抜けてきた殊勲艦のような迫力があった。
「……あれが、海賊船……」
ユリウスは息を呑む。
ツーシームの宇宙海賊船の船腹には、《モリガン》と大きく描かれていた。
帝国の宇宙巡洋艦艦より一回り小さいが、艦首には大型の収束砲を備え、船体側面には突撃艇のハッチが並んでいる。
黒く塗りつぶされた船体には、かすかに白で描かれた飛竜の紋章。
艦内からは整備兵の怒号と、エンジンの低い唸りが響き出ていた。
「乗れ」
レッドベアが短く言った。
ハッチが開き、金属のタラップが伸びる。
グレゴールは一瞬ためらったが、ユリウスの肩を抱き、二人でその影に足を踏み入れる。
重厚な扉が閉じた瞬間、少年は背筋に冷たいものを感じた。
――もう、帝国の世界には戻れない。
暗がりの艦内。
通路の奥から、煙草の香りと共にあの女の声が響いた。
「ようこそ、モリガンへ。生き残りたきゃ、ここからが本当の賭けだよ、坊ちゃん」
二人は女の手下の指示に従い、硬いシートに座り、安全ベルトを締めたのであった。
◇◇◇◇◇
「追手が来てやすぜ、姐さん」
「ここでは船長と呼べ!」
ツーシームの声が艦橋に響いた。
ユリウスが乗り込むや否や、モリガン全体が低く唸りを上げる。
どうやらクロイツ準男爵の差し向けた追手が、小惑星帯の外縁まで迫っているらしい。
「出航だ!」
「了解!」
副長レッドベアの巨体が操舵席の後方で動き、重厚なレバーを押し込んだ。
艦内には簡易重力装置が働き、少年はシートに体を押しつけられる。
Gが全身の骨に響く――だが、不思議と誰も慌てていない。
極周波レーダーのスクリーンには、点滅する四つの光点。
敵艦――銀色の帝国標準型巡視艦。全長百八十メートル、横陣を組み、網をかけるように小惑星帯を捜索中だった。
「敵、回頭。こちらを捕捉しました」
「おう」
ツーシームは煙草を咥え直し、灰を落とす。
巡視艦の艦首主砲が冷たく光り、停戦信号もなしに照準を合わせてきた。
この宙域で海賊と見なされれば、撃沈は当然というわけだ。
「敵、ビーム砲来ます!」
レーダー員の叫びと同時に、ユリウスは目を見開いた。
――モリガンが、空間ごと滑ったのだ。
艦体が右舷へと跳ねるように移動し、慣性を無視する動きで敵艦列の死角へ滑り込む。
外の星々が線になって流れ、視界が歪む。
「なんだ……これは……!」
「撃て!!」
ツーシームの号令。
まるでその一瞬を読んでいたかのように、艦首の収束狙撃砲が閃光を放った。
光の槍が敵陣を貫き、四隻の巡視艦を、斜め後方から一直線に串刺しにする。
当たった瞬間、超高温により動力区画が蒼白に発光し、機関設備や装甲鋼材が同時に気化する。
敵艦4隻は跡形もなく蒸散し、静寂だけが残った。
レーダーに映るは微小な残留粒子の散布のみ。
「……敵、全艦蒸発確認!」
「うむ」
短く答えるツーシーム。
安煙草をくゆらせながら、彼女は操縦席の背もたれに体を預けた。
謎の機動の衝撃で、船体がわずかにきしむ。
ユリウスは呆然とモニターを見つめた。
今の動き――どうやって回避し、どうやって撃ったのか。
理屈では説明がつかない。
ただ、あの女が舵を握った瞬間、この船が“生き物のように”宙を駆けたのだけは確かだった。




