06.
無様に慟哭し、泣いて、泣いて、声が涸れるまで泣き続けた。
リデルの遺体を前にしても、葬儀で別れを告げた時も、涙など出なかったはずなのに。
弱い身体にどれほどの負担をかけ、どれほどの長い時間をかけて、彼女はこの剣帯を作ってくれたのだろう。
きっと完成した物を渡された時、オスカーがどんな反応をするのか楽しみにしながら。
だからこそ剣帯を衣装部屋の奥へしまい込んだ時、どんな思いでいただろう。
イーサンとの関係を詰り強引に身体を重ねた時も、胎に新しい命が宿ったときも、エミリアが生まれた時も、その後も、ずっとずっと。
リデルはどんな目で、オスカーを見ていただろう。
どんな思いで、自身の許に訪れる夫を出迎えていたのだろう。
想像するだけで、自分を殺したくなった。
――ああ、そうか。
どうしてもっと早く、思いつかなかったのだろう。
死ねばよかったのだ。リデルがいなくなった時、自分も一緒に。
ふらふらと、オスカーはリデルの部屋を出て自室へ向かった。
扉を開けてまっすぐ飾り棚へ向かえば、そこにはリデルが自ら喉を掻き切った、あの短剣が置いてある。
鞣し革の鞘から短剣を抜き、剥き身の刀身を躊躇いなく喉に当てた。
元より、リデルと同じ場所に行けるとは思っていない。
もし本当に神が存在するのならば、清らかな彼女はきっと、女神の導きによって天の園へ迎えられるはずだ。
そしてオスカーは死後の審判において、未来永劫冥府の鎖に繋がれ、終わりない責め苦に苛まれるだろう。
けれど彼女のいない世界で恥を晒して生きるよりは、そのほうがマシだ。
――これで、少しでも彼女への償いになるだろうか。
答えのない愚かな自問に、オスカーは薄らと笑った。
そして押し当てた刃をすっと横に引こうとした、その時だった。
大きな泣き声が、聞こえた。
「エミ、リア……?」
火が付いたかのように激しく泣く、娘の声。
その気配が徐々に近づき、そして、何の前触れもなく扉が開け放たれる。
「オスカーッ!」
急いでやってきたのだろう。抱き布に包んだエミリアを抱えた異父姉が――シャーロットが肩で息をしながら、飛び込んできた。
咄嗟のことで、短剣を隠す暇もなかった。
喉に押し当てられたそれを見れば、オスカーが今から何をしようとしていたかなど、一目瞭然だっただろう。
シャーロットは大きく目を見開き、息を呑んだ。
しかし凍りついたのは一瞬のこと。彼女は大股でオスカーに近づき、振り上げた手で容赦なく頬を打擲する。
パン、と強烈な破裂音と共に頬に鋭い熱が走り、よろめいたはずみに短剣を取り落としてしまう。
「何を……、何をしているのっ!」
普段穏やかな姉の、迸るような怒気。
その剣幕に気圧され、オスカーは頬を押さえたままただ黙り込むことしかできない。
瞬きを繰り返す弟をきっと睨み付けると、彼女は相変わらず泣き続けるエミリアを、抱き布の外に出す。
そしてその柔らかな身体をオスカーの腕に押しつけ、強引に抱かせた。
「シャー……」
「馬鹿なことはやめなさい!」
エミリアの泣き声にも負けないほど大きな声で、シャーロットは叫んだ。
「エミリアが急に泣き出したから、嫌な予感がして駆けつけてみれば――。あなたが死んで、一体どうなるの!?」
「だが、シャーロット。俺は間違えたんだ。何もかも、どう償えばいいかもわからないほどに……。リデルを傷つけ、不幸なまま死なせてしまった俺には、もうこれしか……」
「死ぬことはなんの償いにもならない!」
頭を抱えるオスカーを、逃げることは許さないとばかりに、シャーロットが突き放す。
「それはあなたの自己満足よ! どうしてわからないの、オスカー!? あなたにはリデルさまの遺した娘を、エミリアを、立派に育てる義務がある。エミリアの笑顔を、泣き顔を、成長を、リデルさまの見られなかったその全てを見届ける使命が。どんなに苦しくても、辛くても、生きてさえいればあなたはエミリアの一番側にいられるの! それはリデルさまが一番やりたかった、けれど叶えられなかった望みではないの!?」
顔を真っ赤にしながら声を張り上げるシャーロットの目には、涙が浮かんでいた。
彼女の母は――オスカーの乳母だった女性は、どんなに望んでも娘の成長を自身の目で見ることができなかった。
リデルも同じだ。これからエミリアがすくすくと育ち、初めて自分の足で立ち、初めて言葉を発したとしても、彼女がそれを知ることはできない。
エミリアの成長を、どんなに楽しみに待ち望んでいたことだろう。
――愛しているわ。
そう言ってエミリアの白い頬に口づけをしたリデルの姿が、今頃になって鮮明に思い出される。
「あなたの言うとおりよ、オスカー。あなたは間違えた……。間違えたの」
シャーロットが声を落とし、オスカーの頭にそっと手をやった。
緑色の瞳で穏やかに見つめられると、まだ幼かった頃、ナーシーに悪戯を諭された時のことを思い出す。
「どんなに後悔しても、時は戻せない。やり直しなんてできない。だからわたしたちは、前に進むしかないの。もうこれ以上後悔しないように、大切な人と過ごせる幸せを噛み締めながら、日々を懸命に生きるしかないのよ」
「シャーロット……」
「エミリアを見て。この子は、生きている。リデルさまが亡くなっても、あなたが立ち止まり過去に囚われようとも、この子は今この瞬間を、未来に向かって生きているの」
ゆっくりと、腕の中のエミリアに目を落とす。
まだ頼りない、小さな手足をばたつかせ、「あーあー」と意味のない言葉を発する、小さな娘。
潤んだ目でじっとオスカーを見つめ、涙にまみれてぐちゃぐちゃになった顔に、不思議そうな表情を浮かべている。
オスカーはふくふくとした頬を指先で撫でるように、そっと触れた。
柔らかなぬくもりと弾力。そしてぱっと花開くような、笑顔。
父に撫でられ、エミリアは先ほどの大泣きが嘘のように、きゃっきゃと声を上げて笑っていた。
それを見た瞬間、目と鼻の奥がつんと痛み、また涙が溢れてくる。
「すまない……、すまない、エミリア……シャーロット……」
どうしてこの小さな命をひとり残し、死のうなどと思ったのだろう。
どうして王家に預ければ安心だなどと、一時でも思ったのだろう。
母を亡くしたばかりの彼女を一番に守るべきは、オスカーだったというのに。
本当に、自分はなんと愚かなのだろう。
シャーロットに言われなければ、またしても大きな間違いを犯すところだった。
子供のようにみっともなく泣き続け、腕の中の我が子へ何度も何度も謝り続けるオスカーを、シャーロットは笑わなかった。
無言のまま、いつまでも優しく頭を撫で続けていた。かつてナーシーがそうしてくれたように。
『夫』として間違った過去は変えられなくとも、『父』としては後悔も間違うこともない人生を送ろう。
この時、オスカーはそう決意したのだった。





