第6話.SIDE:エルヴィス
オレは、今日という日を心から楽しみにしていた。
なぜなら、念願だった人格反転の魔法薬の材料が揃ったからだ。材料はどれも珍しいものばかりで、国内で栽培の成功例がない薬草も含まれている。多額の費用をかけて取り寄せるのにも数年かかっていた。
その日の授業はほとんど耳に入らなかった。昼休み、クラスメイトのアンリエッタが階段から落ちたところに通りかかり、医務室に運んだりはしたが……記憶に残っている出来事はそれくらいだ。
アンリエッタと深い関わりはなくとも、同じクラスにいるだけで気性が激しい女なのは分かる。わざとらしく褒めそやされるたびに怒鳴り声で言い返していた。
悪意を受け流す術すら知らない少女は哀れだったが、手を差しだしてやるほどお人好しでもない。
だが昼休みのこと。放課後に思いを馳せて廊下を歩いていると、階上から金切り声が聞こえた。
「今のは誰が言ったのよ!」
何事かと胡乱に見上げれば、宙を舞う銀髪が目に入って――オレはとっさにアンリエッタの名を呼び、駆け寄っていた。
すんでのところで間に合わず、彼女は頭を打って気を失っていた。どうやら足を踏み外して階段を落ちたらしい。しかし責任を負うのを免れるためか、それまでアンリエッタを囲んでいたらしい生徒たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去ったので、オレは仕方なく医務室に運んでやることにしたのだ。
横抱きにしたアンリエッタの身体は驚くほど軽かった。静かに呼吸はしているものの、生気も感じられない。普段からほとんど食事をしていないのかもしれない、と思った。
「命に別状はないけど、頭を打っているからね。意識が回復するまではベッドで休ませておくよ」
フェオネンは素っ気ない口調でそう言った。女好きで知られる若い校医は、男子生徒には分かりやすくずさんな対応をする。聞いていた通りだと思いながら、医務室を辞した。
オレは普段、クラスではあまり目立たないようにしている。自分が整った容姿であるのは自覚しているので、反感を買わない程度の愛想は身につけた。そのおかげで、他人からは遠慮がちで思慮深いと評されるようになり、目が合うだけで令嬢たちには頬を染められるようになった。まったく、見る目のない連中だらけで助かる。
そのせいで親しい友人のひとりもできなかったが、あまり気にならなかった。人付き合いに時間を割くよりも、野原で薬草を摘むほうがよっぽど楽しい。
待ちに待った放課後が訪れれば、オレは懇意にしている教師に一声かけて鍵を借り、颯爽と薬学室へと向かった。事前に話は通してあるので、今日は部屋を独占することができる。他の派手な学問と異なり、生徒からの薬学人気はそう高くないのだが。
ドアには【実験中につき立ち入り禁止】のプレートを下げ、煙出しの窓以外はすべて閉めきっておく。これで、誰にも邪魔されずに調合に臨むことができる。
調合の準備を済ませて、保管していた材料を目の前に並べるだけでわくわくした。
調合台の前に立ったオレはすっかり記憶しているレシピを手元に置き、秤に乗せて重さをチェックした材料を鍋に入れては注意深く魔力を流していく。金色の鍋を満たしているのは純度の高い聖水だ。これもなかなか値の張るものである。
「よし、いい感じだな……」
にじんできた汗を服の袖で拭う。すべての材料の投入を終え、液体は粘り気を増してきた。
いよいよ調合は最終段階に突入した。あとは鍋の中に魔力を注ぎ込み続ければ――。
しかしそのとき。
背後で、がらりと勢いよくドアが開く音がする。
「エルヴィス様ぁ~!」
「うわッ」
反射的に悲鳴を上げた一秒後、マジか、と頭を抱えたくなった。
この魔法薬の調合中は、一瞬たりとも気を緩めることができない。それほど繊細な魔力操作が必要なのだ。
見れば瑞々しい青緑色に輝いていた鍋の中の液体は、どす黒い色に変色している。
調合に失敗したのは明らかだが、気落ちしている場合ではない。天井付近まで立ち上っている黒煙をどうにかしなければ、毒素が発生してしまう。
「【コール・アニマ】――払え!」
少し煙を吸ってしまったオレは、詠唱のあとに軽く咳き込む。
調合が失敗したのは、オレの未熟さゆえだ。ドアに鍵をし忘れたのも、大声によって集中力を切らしたのも、オレ自身である。
「おいおい。こっちは実験中だったつーのに、おかげで手元がくるっちまったじゃねェか。間違いなく調合失敗したぞ」
それでもやはり、闖入者に一言くらいは文句を言っておきたい。そんな思いでいやみを言うと、声の主はすぐに謝ってきた。
「ご、ごめんなさい! 人違いで声をかけてしまっ、」
だが、変なところで言葉が止まる。
何事かと、煙が晴れた向こう側に目をやる。ドアの近くに立っていたのは、誰かと思えば伯爵家の令嬢であるアンリエッタだった。
「なんだ。お前かよ」
なんでこいつが薬学室に……と眉を寄せたところで思いだした。そうだった。オレ、さっきこの女を助けたんだったな。
お礼でも言いにきたのかと思いきや、アンリエッタは飛び掛かるような勢いでオレの胸ぐらを掴んできた。
「私の知ってるエルヴィス様じゃない! 私のエルヴィス様を返せ~!」
……何言ってんだ、こいつ?
きょとんとするオレに構わず、アンリエッタは泣きながら一生懸命に意味不明のことを口走る。
エルヴィス様は純粋ぽやぽやでまるで天使のようだの、私が他の男子と話しているときの嫉妬丸出しがおいしいだの、キャラソンでの甘噛みが堪らないだの、休日デートのときは私服のセンスがちょっとダサいところも愛おしいだの。
聞けば聞くほどに、オレの混乱は深まっていく。私の知ってるエルヴィス様も何も、オレもそんなオレは知らん。私服を見せたこととかたぶん一度もないし。別にダサくないし。
もしかしてこいつ、頭を打っておかしくなっちまったのか?
少なからず責任を感じてしまい、いやいやと胸中で否定する。この女がおかしくなったところで、オレには関係ない。むしろ医務室まで労力を割いて運んでやったのだから、感謝されたいくらいだ。
そもそも、こんなにぺらぺらと表情を変えてはきはき喋るやつだっただろうか。クラスメイトに絡まれて逆上するところしか見たことがないので、妙に新鮮な気持ちだった。
満足がいくまで語り尽くしたのか、それとも少しは冷静になったのか。アンリエッタはぜえぜえと荒く呼吸して、華奢な肩を震わせている。
そんなクラスメイトを見下ろしながら、オレはふいに思いつく。
こいつの言うエルヴィス様、とやらを演じてみてはどうだろうか――と。
「すみません。驚かせてしまいましたね、アンリエッタ嬢」
単なる冗談のつもりだった。
それなのに反応は劇的なものだった。アンリエッタはオレの服を掴んでいた手を離し、食い入るようにしてオレのことを見つめてきたのだ。
作り笑いで見返してみれば、一度は乾いたはずの青い目が、再び込み上げてきたいっぱいの涙で潤んでいく。それが先ほどまでとは異なる歓喜の涙であることは、紅潮した頬や、花のように綻んだ唇を見れば明らかだった。
溶けそうだ、と思う。オレがこのままエルヴィス様とやらの演技を続ければ、こいつの大きな両目は溶けてなくなってしまいそうだ、と。
その実感になぜか小さな苛立ちを覚えて、オレはすぐに演技するのをやめた。
人格反転の魔法薬について説明すれば、アンリエッタは大きな衝撃を受けたようだった。
オレはそんなアンリエッタを問い詰めることにした。よくよく考えれば、こいつが頬に朱を注いで語ってのけたのは、人格反転したあとのオレのことではないかと思えたからだ。
だが、オレは今日の実験について教師にしか話していないし、アンリエッタも魔法薬については知らないようだった。
様々な違和感を覚えながらも、オレは疑いを口にする。
「花乙女は未来を予知することができる、だったか。なァ――暫定・花乙女さんよ」
容赦なく問い詰めれば、壁に頭を押し当てたアンリエッタは、目を細めてにっこりと笑ってみせた。なんとも高位貴族の令嬢らしい、上品で淑やかな笑みだった。
「……それが、私には妄想癖がありまして」
しかし、そこから彼女が語ってみせたのは荒唐無稽な話である。
嘘だな、とすぐに看破した。普段から嘘をつき慣れているオレには分かる。
だが、悪意があっての嘘ではないとも思った。というか悪意がある人間なら、もっとまともで説得力のある嘘を考えつくだろう。間違っても、妄想癖があるとかアホみたいなことを言いだしたりはしない。本気で言っているなら酔狂の域だ。
だからオレは、その嘘を否定しなかった。代わりに乗っかることにした。そうすれば、きっと次から次へとボロを出すことだろうと直感したのだ。
そんなオレの態度に、アンリエッタは目に見えてホッとしていた。本当に分かりやすすぎる。普段の態度から感情的だとは思っていたが、それとはまた違っていて……なんというか、からかいたくなるような隙が多いというか。
気がつけばオレは、こそこそ逃げようとしているアンリエッタ相手に口を開いていた。
「オレで妄想して、自分を慰めてたんだろ? 実力もないくせにお高く止まった女だと思ってたが、少しはかわいいところがあるじゃねェか」
わざと下品な物言いをしてみれば、茹で蛸の色になりながら怒鳴り返してくる。オレは途中から頬が緩むのを押さえられなくなった。
エルヴィス様とやらではなく、オレ自身の言葉がこいつを翻弄しているなら、存外悪くはない。
そのあともアンリエッタは、また魔法薬を作ってほしい、材料は手に入れてみせるからと、好き勝手なことを宣って薬学室を出ていった。
その勢いに圧倒されたオレだったが、アンリエッタの気配が遠ざかってから小声で呟く。
「しばらく監視してみるか、あいつのこと」
本当にアンリエッタが花乙女だ、などと思ってはいない。魔力自体は高くとも、アンリエッタの魔法の実力はクラスでも下から数えたほうが早いくらいだ。そんな人間が、百年に一度だけ選ばれるとされる花乙女に相応しいとは思えない。あれを花乙女に選ぶなら、女神エンルーナとやらは眼力がなさすぎる。
それに一応口止めはしたものの、オレの本性について、アンリエッタがクラスメイトにバラさないとも限らない。
「……つか結局、何しにここまで来たんだよ」
実験を失敗に追い込み、騒ぐだけ騒いだ挙げ句、大慌てで出ていった少女。
そんな彼女の一挙一動を思いだせば、オレはひとりで肩を揺らして笑ってしまったのだった。








