第50話.天使のアドバイス
「はあぁ…………」
思わず、深いため息が漏れてしまう。ノアにも脅されていたけど、想像していた以上に私が置かれている状況は深刻だ。
「というか、この状況って……むしろチュートリアル以上に難易度高くなってる?」
恐ろしさのあまり、私はぶるりと震える。
花乙女を騙った大罪人の末路は、前述の通り悲惨なものだ。誰もが納得するような立派な従魔と契約できなかったときは、容赦なく牢に入れられてしまうのかもしれない。
震える足でどうにか教室に戻ろうとしたところで、先ほどから何度も記憶を探っていたおかげか、ふとゲームの記憶が甦った。
そういえば学園長室からの帰り道、隠し攻略対象にカレンが呼びかけるイベントがあったのだ。
本来は、チュートリアルで魔に堕ちたアンリエッタと戦う際に「一緒に戦う相手は……?」という選択肢が出てきて、選んだ攻略対象とのルートが始まるようになる。
でも、四人の攻略対象――エルヴィス、ノア、ラインハルト、フェオネン――のルートをクリアしたあとだと、この場面で「ひとりで戦う」という選択肢が新たに追加される。これを選ぶと、花乙女を暗殺せんとする刺客である五人目の攻略対象のルートに入ることができるのだ。
魔力感知に優れているカレンは隠れ潜む暗殺者の気配に気づき、「私を見ているのはどなたですか?」と何もないところに向かって話しかける。
返事がないので「気のせいだったのかな?」と去っていくんだけど、そのあとに「???」という人物が「ふぅん。退屈な任務だと思ってたけど……少しは楽しめそう」と呟く演出が入る。これが五人目の攻略対象の初登場(声だけだけど)になるというわけだ。
そんなことを思い返した私は、こほん、と小さく咳払いをする。
――せっかくだし、あれ、試しにやってみようかな?
廊下は静まり返っていて、まったく人の気配なんて感じないけど、別に減るものじゃないしね。たまには乙女ゲーマーらしく知識を生かして楽しんだって、バチは当たらないだろう。うんうん。
そう自分に言い聞かせた私は、軽く息を吸ってから呼びかけた。
「私を見ているのはどなたですか?」
しーん………………。
まぁ、沈黙が返ってくるのはゲームと一緒なわけだけど……よくよく考えると、本当に誰もいない可能性あるよね。そもそもヒロインじゃない私は、暗殺者になんて狙われないだろうし。
うう、だんだん恥ずかしくなってきた。私は火照る頬を手で扇ぎながら周囲を見回す。
授業中なのもあって、広い廊下には暗殺者どころかひとっこひとり見当たらない。私の恥ずかしい呟きを耳にした人は、誰もいなさそうだ。
「き、気のせいだったのかな?」
これなら黒歴史をなかったことにできる。とりあえずカレンと同じ言葉を呟いて、慌ててその場を離れる。
だからそのあと、無人の廊下に美声が響いたことなんて――もちろん私は知る由もなかった。
「ふぅん。退屈な任務だと思ってたけど……少しは楽しめそう」
◇◇◇
私が学園長室に呼びだされた出来事については、さっそく学園中に広まっていた。醜態を晒した件は噂になっていないものの、みんな耳が早い。もはやネット社会より早い。
今日はいつになく授業が長く感じられる。時計塔からカーン、カーンと昼休みの始まりを告げる鐘の音が響いてくるのが、救いに思えたくらいだった。
「アンリエッタ嬢。食事をご一緒しませんか?」
教科書を片づけていると、とある人物が近づいてきた。誰かと思えば、エルヴィス様モードのエルヴィスである。
エルヴィスの意図はよく分からないが、教室をひとりでとぼとぼ出て行くよりはマシな気がする。私は作り笑いを応じた。
「喜んで」
「わあ、良かったです」
しかし天使かと見紛うような純粋な笑顔を前にすれば、あまりの愛らしさに胸の中心がずきゅんと穿たれる。
何も言えずに胸元を押さえていると、エルヴィスは心配そうに愁眉を寄せてみせる。
「どうしたんですか、アンリエッタ嬢。どこか痛いんですか?」
あれ、目の錯覚かな。なんか、どんどん演技に磨きがかかってきているような……。
個人的に喜んでしまいそうになるけど、エルヴィスの本性を知っているだけに素直に喜んでもいられない。実際のエルヴィスはヤカラ喋りが標準装備のチンピラみたいなものだからだ。
「いえ、なんでも。行きましょうか」
私たちは連れ立って教室を出た。エルヴィスと一緒にいるだけで刺々しい視線が飛んでくるのが常だが、今日の注目の的は私のようだ。
疲労が表情に出ていたのか。ふと顔を近づけてきたエルヴィスが、そっと囁いてくる。
「大丈夫ですよ、アンリエッタ嬢」
どういう意味かと問う前に、そっと手を引かれたかと思うと、自然と腕を取らされていた。
えっ、と私は声を上擦らせる。
「エ、エルヴィス……?」
焦りながら見上げても、悠然とした横顔が目に入るだけだ。
私の視線に気がつくと、エルヴィスは触り心地の良さそうな茶髪を揺らして悪戯っぽく笑う。
「なんでもない、って顔をしておけばいいんです。そうすれば、注目なんてすぐに逸れますよ」
「……!」
ハッとしたのは、その通りだと思ったからだ。
弱気な顔を見せていれば、好き勝手な噂話の餌食にされてしまう。
感情を表に出すのは二流三流の貴族だとされる。でも今の私は、アンリエッタ・リージャス――伯爵家の一員なのだ。
ゆっくりと息を吐き、表情を引き締める。背を伸ばしてしっかりと前を向く。それだけでさっきよりも、呼吸するのがずっと楽に感じられた。
「……ありがとうございます、エルヴィス様」
「いいえ。大したことじゃありませんから」
私たちは食堂でサンドイッチと飲み物をテイクアウトすると、校舎を出て中庭に向かう。
途中で、エルヴィスの腕は私から離れていたけど……あの突然の接触は、いったん私の頭を真っ白にするためだったんだろうな。
人気のない中庭には、木陰中心にテーブルが設置されている。対面する形で椅子に腰かけると、エルヴィスがおもむろに横髪を耳にかけた。そして――。
「で、アンリエッタ。やっぱりお前、花乙女だったのか?」
こうして人工天使と過ごすひとときは儚く散った。








