第48話.お色気垂れ流し校医の本気
「はぁ……」
昨日の出来事に思いを馳せながら、教室の隅で私は小さく息を吐く。
考え事をしている間も、周囲に見られているのを感じる。そのほとんどは私への懐疑の視線だ。
花舞いの儀のときは、その場の空気というかノリのようなものも働いて、みんな新たな花乙女の誕生を喜んでいたように見えたが、あんなのは一過性の盛り上がりに過ぎなかったのだ。
そもそもアンリエッタは不真面目で出来が悪く、周りから暫定・花乙女なんて不名誉なあだ名をつけられていた令嬢である。一夜明けて冷静になったところで、「やっぱりおかしくない?」みたいな風潮が高まったことは想像に難くない。
だがしかし、いちばん混乱しているのは間違いなく前世の記憶を持つ私だ。この私こそ満を持して「アンリエッタが選ばれるわけなくない?」の顔をさせてもらいたいところだが、それはそれで変な空気になりそうで困る。
とりあえず、今日は学園からの呼びだしがかかるのを待つしかないのかな。
そう思っていると、教室が小さくさざめく。何事かと顔を上げてみたら、教室に入ってきたのはフェオネンだった。
――フェオネン・シャンテール。エーアス魔法学園の校医であり、ノアと並ぶ攻略対象のひとりでもある。
毛先にウエーブのかかった艶めく紫の髪に、甘い蜜を注いだような蜂蜜色の瞳。右目の下には色っぽい泣きぼくろ。軽く教室を見回したフェオネンは、私を見つけるなり笑みを浮かべる。その笑顔だけで、色香に当てられた女子生徒が何人か倒れそうになっていた。
「ああ、いたいた」
……えっ、まさか私に用事なの?
反射的に警戒していると、フェオネンは周りが聞き耳を立てているのにも構わず、特段大きくも小さくもない声で言う。
「キミ。これから学園長室で面談を行うから、ついてきてもらえるかな?」
彼の口から出た単語に、周囲がにわかに騒がしさを増す。学園長室なんて、一般生徒がおいそれと呼ばれるような場所ではないからだ。
「は、はい。分かりました」
判断を迷っている間に騒ぎが大きくなっては堪らないので、私は慌てて立ち上がる。好奇の視線を浴びながらも、フェオネンと共に教室を出た。
「それじゃ、行こうか」
授業前で人の少ない廊下を、フェオネンが先導する。私は彼に続きつつも、思わず眉を寄せた。
学園長室への呼びだし自体は、ゲームでも共通イベントとして発生していた。だけど本来、この場面ではモブ教師がカレンに声をかけていたはずだ。
もしかすると、カレンの場合と違って私とフェオネンに面識があるからだろうか。というのもフェオネンは、花乙女という存在に特別な執着を抱いている人物なのだ。
警戒しながら歩いているうちに特別棟へと入る。いくつかの廊下の角を曲がったところで、フェオネンが立ち止まった。
とうとう学園長室に到着したのか。肩に力を入れる私の前で、フェオネンが無言のまま振り返る。
普段は饒舌な人が黙っていると、不思議な圧力を感じる。息が詰まるような沈黙に耐えかねて、私は自分から呼びかけていた。
「先生? どうかされましたか?」
フェオネンは黙ったまま、空いている二歩分を軽々と詰めてくる。
続けざまに私の右手を取ったかと思えば、手の甲にキスを落とされた。
「なっ……!」
不意打ちの感触にどきりとして、自分の頬が熱を帯びるのが分かった。
カルナシア王国では、挨拶代わりのキスをするときはそう見えるように振る舞っているだけで、実際に唇で素肌に触れることはない。それなのにフェオネンは、今、間違いなく私の手の甲に口づけていた。
女性の扱いに慣れた彼でも、そんな失敗をすることがあるのだろうか。実際にキスをするのは、恋人や婚約者同士、夫婦という親密な関係に限られるものなのに――。
前に屈んだ姿勢のまま、フェオネンが唇を開く。
「ボクはね、気になって仕方がないんだよ」
「……何が、です?」
「生まれて初めてなんだ。こんなふうに、ひとりの女性のことで頭がいっぱいになるのは……」
彼が漏らす吐息が、引き寄せられたままの私の手の甲に当たる。
ぞく、と背筋に痺れが走る。私は手を引こうとするものの、フェオネンはそれを許さずに、底知れない欲望のにじむ目を私に向けてきた。
甘さと毒を均等に孕む蜂蜜色の瞳は、まるで獲物を搦め取る蛇のよう。
それは妖魔と人間の血を引く彼だけが持つ、魔性の色香だ。
「キミが本当に花乙女なのかは、ボクには分からない。でも、そうであってほしいと心から祈っているよ。そのときは、久しぶりに人前でこの眼鏡を外せることになる……」
ゆっくりと顔を上げたフェオネンが、骨張った指先で眼鏡のつるに触れる。
そうだ。昨日の花舞いの儀のとき、ノアやエルヴィス、ラインハルトはそれぞれ戸惑った様子だったけど、フェオネンだけは楽しげに笑っていた。おもしろいことになった、と言いたげに。
つるに触れる指をわずかにずらすようにしながら、フェオネンが舌舐めずりをする。私の顔を覗き込むと、彼はうっそりと淫靡に笑った。
「それとも、試してみようか。ボクの魅了魔法に、キミが耐えられるかどうか――?」
「け、けっこうです!」
ようやく手を引いて壁際まで後退する私は、もはや息も絶え絶えだった。
花乙女は、あらゆる魔法に強い耐性を持つ。その唯一無二の特性があるからこそ、母譲りの強い魅了魔法によって長年苦労してきたフェオネンはカレンに惹かれるし、彼女に執着する。
でも言わせてもらいたい。
私では魅了魔法が発動していようがいなかろうが、フェオネンの猛攻には耐えられません!
前世ではまともに男性と触れ合ったのも、小学校の遠足で男子と強制で手を繋いだときくらいだったと思う。そんな経験値ゼロの私が、お色気垂れ流し校医にどうやったら抗えるというのか。
唇を落とされたばかりの手を押さえながら睨めつけると、悪びれる様子もなくフェオネンが笑う。
「そっか。残念」
彼は眼鏡の位置を軽く直すと、慣れた調子でウィンクをする。
「それじゃあ、ボクはこれで。がんばってね」
ひらりと片手を振って、何事もなかったように元来た道を引き返していく。
その背中が見えなくなったところで、私は力を抜いて壁にもたれ掛かる。未だに激しく乱れ打つ鼓動を感じて、呼吸するのもままならない。
「な、なんなの……」
早くも疲労困憊である。まだ面談前なのに家に帰りたい。
それにしても、と私は感触の残る手の甲をさすりながら身体を震わせる。
以前から驚異的だとは思っていたけど、今日のフェオネンの色気は人を殺す領域に到達していた。同じ酸素を吸うだけで妊娠するのでは、と不安になったほどだ。早急にフェロモン・シャンテールに改名してもらいたいところである。
ヒロインではない相手に、彼がどこまで本気だったのかは不明だが――あのまま猛攻を仕掛けられていたら、自分がどうなっていたのか分からない。
「あれじゃ、まるで乙女ゲームだわ……」
いや、これ、乙女ゲームのはずなんだけども。
噴き出た汗をハンカチで拭いながら、私は息を整える。
いつまでもぐったりしているわけにはいかないので、覚悟を決めて学園長室のドアの前に立つ。ノックをすると、室内から返事があった。








