第22話.ジェネリック処方1
――私が迷宮から出てきても、注目している人はいなかった。
クラスメイトはとっくに散らばって、楽しげに図書館内を歩き回っている。再び本に追われている生徒もいる。残りの授業時間は、見学時間として使われているようだ。
そんな平和な光景を、絨毯の上に四つん這いになった私は唖然として見つめていた。自慢の長く艶やかな銀髪はぐちゃぐちゃに乱れ、制服は跳ねた土で汚れている。
「い、今の、なに? なんなの?」
まだ心臓が騒ぎ立てている。
だが気になることがあった。私よりも危うい位置で、先ほどの爆風に巻き込まれた人がいるのだ。
「ハム先生はっ!? まさか死――」
「これ、勝手に殺すでない」
うひぃっ。
謝罪する前に、いつの間にか背後に立っていたハム先生が唱える。
「【コール・ルーメン】浄化し、整えよ」
中級光魔法。そのおかげで乱れていた私の髪は櫛を入れたようにふんわりと広がり、服の汚れは染みひとつ残さず取れていった。
「あ、ありがとうございます」
慌てふためきながら立ち上がる私を、ハム先生は見ていない。その視線の先を追って、私はあっと声を上げた。
「迷宮の書が……」
絨毯の上に置かれていた本。つい先ほどまで私たちが入っていた本の装丁が、見るも無惨にずたずたに引き裂かれているのだ。まるで、私やハム先生を襲った暴風が本の外まで飛びだして、容赦なく切り刻んだかのように――。
ハム先生が手に取ると、本は触れたところから灰になるようにぱらぱらと崩れ落ちていく。そのまま一冊の本は、跡形もなく消えてしまった。
「リージャス、授業の復習じゃ。迷宮の書が壊れる原因を述べよ」
えっ、急に出題?
しかし私は狼狽えなかった。唐突な出題は、ノアのスパルタ教育で慣れている。
「迷宮の書が壊れる原因は、大きく分けて二つあるとされます。ひとつは、外側から書が破壊されるとき。本である以上、どうしても炎や水には弱いものです。ですが迷宮には魔法強度があり、それを超えない限り壊れることは絶対にないとされます」
「うむ」
「もうひとつは、物語の内容を誰からも忘れ去られたとき。その日が訪れれば、本は寿命を終えて自壊していきます。迷宮の書が壊れるのは、圧倒的にこの理由によるものです」
「正解じゃな」
そう言いつつ、老爺の目が疑り深く私に向けられる。
「…………」
「…………」
「リージャス、何かやったか?」
「な、何もしてません!」
私はぶんぶんと勢いよく、首と両手を横に振る。
実際、私は何もしていない。初級魔法のひとつもまともに発動できず、落ち込んでいただけだ。
それなのにひとりだけ課題をクリアできなかった挙げ句、演習用の迷宮まで破壊したなんて疑いをかけられては、堪ったものではない。
弁償しろとか言われても困る。
主にノアへの報告にすっごく困る!
でも実際のところ、どうなのだろう。アンリエッタ・リージャスが入ってきたら、どんな迷宮だってばかになっちゃいそう――イーゼラだって、そんなことを言っていた。
もし、本当に私のせいで本に悪い影響が出たのだとしたら?
言葉を失って立ち尽くす私に、ハム先生がやや申し訳なさそうに言う。
「いや、今のはワシが悪かった。そもそも迷宮を内側から破壊するような魔法など、今まで一度も聞いたことがない。そんなことは花乙女にも不可能じゃろうて」
「そ、そうですよね! ただの事故か何かですよね!」
容疑者からは外れたようで、ホッとする。私はその傍からさっさと離れることにした。
「しかしこれは……むむう……?」
離れたところから確認すると、短い腕を組んだハム先生は首を捻り、まだ何かぶつぶつ言っている。私に余計な疑いが飛び火することは、もうなさそうだ。
胸を撫で下ろした私は、残りの時間をどう過ごそうかと思案する。正直、呑気に迷宮図書館を見学するような心境じゃなかった。
ぎっしりと本が詰まった本棚の間を、息苦しく感じながら歩いていく。しばらくすれば、背後の喧噪は遠くなっていった。
辿り着いたのは、いくつかの鉱石ランプに照らされるだけの埃っぽく薄暗い空間だった。
かなり奥まった場所にあるし、この一角にはほとんど本が置いていないようなので、他の人が好き好んで足を伸ばすことはないだろう。
私は背の低い本棚に背中をもたせかけるようにして、両膝を抱えて座り込む。 頭を腕の上に置いて、大きなため息をついた。
耳が痛くなるほどの静寂だけが、私を見下ろしている。
アンリエッタを待ち受ける死の運命を変えるために、この二週間、必死にがんばってきたつもりだった。ノアに教えを請うて、魔力について学んだ。瞑想に励み、魔力制御の特訓をしてきた。
それなのに私は、授業で出された簡単な課題ひとつクリアできなかった。
「なんで、だめだったのかな」
情けなくて声が震える。
前世の記憶を持っていても、なんにもうまくいかない。むしろエルヴィスの魔法薬の調合を邪魔したりと、失敗のほうが多いかもしれない。
アンリエッタらしき声の主が、何度もネガティブな発言をする理由も分かるというものだ。
「私、このまま……本当にチュートリアルで死ぬのかも」
言葉にすれば、今までなるべく見ないようにしていた恐怖が泡のように浮かび上がってくる。
身体が重くなったとき――すぐ近くから、人の声がした。
「こんなとこで、何してんだ」
現れたのはエルヴィスだった。
驚いて顔を上げた私は、正面に立つ彼を見て顔を顰める。
どうせまた私を笑いに来たのだろう。だが、今の私にはエルヴィスに構っていられるような心の余裕がない。
「なんでもない」
「なんでもないって顔じゃねェだろ」
許可もしていないのに、エルヴィスは私の隣にどっかりと腰を下ろす。距離がやたら近いのが気になって、私はお尻で横に移動した。
「話してみれば」
横を見ると、片膝を立てて座ったエルヴィスはこちらを見ずに正面に視線をやっている。端整な横顔が何を考えているのか、私にはよく分からない。
「……どうせ、ばかにするでしょ」
「しねーよ」
怒らせるつもりだったのに、言い返してくる口調は存外静かなものだった。
そのせいだろうか。なんとなく、私は十数分前の出来事を話していた。宣言を守るつもりなのか、エルヴィスは表情を変えず、ほとんど相槌を打たずに話を聞いていた。
「なるほどな。それで落ち込んでんのか」
話の終わりには、納得したように頷く。
けれどそのあとの反応はない。本当に話を聞くつもりしかなかったらしい。それが嬉しいような、切ないような、ちょっと複雑な気持ちになる。
ふつう、なんかあるでしょ。爆笑は論外だけど、慰めとか励ましとかさ。女の子が落ち込んでるのに、そういうのなんにもないわけ?
膝の上に頭を載せて、じぃっと食い入るように見つめていると、エルヴィスはすぐに視線に気がついた。うざったそうに目を眇めている。
「なんだよ」
口調は粗暴だけれど、エルヴィス様だなぁ、と思う。頬に影を落とす長い睫毛も、宝石のような翠の目も、人形のように整った鼻筋も。私の大好きなエルヴィス様そのものだ。
それをまざまざと実感したとき、気がつけば私の唇はひとつの要求を口にしていた。
「……ジェネリック・エルヴィスして」
「は?」
「聞こえなかった? ジェネリック・エルヴィスして!」
「いや、そうじゃなくて、ジェネリック・エルヴィスってなんだよ!」
「代替医薬品のエルヴィス様よ!」
私にもよく分からないが、とにかくそう言い張る。
その場に正座すると、胸に手を当てて勢いよく説明する。
「落ち込んだ私にはエルヴィス様による癒やしが必要なの。この際、ジェネリックでも構わないわ。顔と声と身体は紛うことなきエルヴィス様なんだから!」
「お前、マジで何言ってんの?」
自分でもとんでもないことを言っている自覚はあったが、思いつけばもう止まらない。今までエルヴィスには散々恥ずかしいところを見せているのだ、今さら何を躊躇うことがあるのか。
私は制服のポケットから生徒手帳を取りだし、振り返って本棚の上にそれを置く。後ろの余白のページに、一心不乱に文字を書き連ねていった。
エルヴィス様にしてほしいこと、と思うだけで、湯水のように頭の中に文字が浮かんでくる。
叶うならば、エルヴィスルートでの名台詞を生で聞きたい。それと耳元でかわいい、好き、もう離さない、愛おしい人、キスしたいとか囁いてほしい。
しかし過度な要求はエルヴィスにも酷だろう。あくまでジェネリック処方なのだと弁えないとね!
ジェネリック処方の真っ最中ですがお知らせです。
本作『チュートリアル令嬢』の書籍化&コミカライズ化が決定しました……!
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