第21話.魔法の失敗?
現実世界から迷宮には、体感ではあっという間に到着する。
身体に違和感や痛みがあるわけでもない。今回の場合、外見にも変化はなかった。それでも不思議な気分で手足を軽く動かしながら、周囲を見回してみる。
演習用の迷宮は、小さな森の一角をイメージして作られているようだった。
頭上には、妙に低く感じられる青空。地上には三本の小さな木が等間隔で並んでいて、足元には控えめな芝生が生えている。子ども用ゲームのチュートリアルに使われるような空間は、よく言えばシンプルで、悪く言えばおもしろみのないものだった。
一見、普段いるのと変わらない世界に見えても、やはりここは本の中なのだろう。少し歩いてみると、見えない壁があるように行き止まってしまう。見た感じ、本は数ページしかなかったから、木のある空間の他には何も用意されていないようだ。
「ええと、課題の内容は……」
私が言い終わるより早く、ひとりの男子生徒が片手を構えて唱える。
「【コール・イグニス】! 放て!」
かなり力んではいたが、問題なく魔法が発動する。
初級炎魔法。彼の手のひらから生みだされた小さな火球が、右に立つ木に向かってまっすぐ飛んでいく。
「わっ、すごい!」
私は思わず拍手する。たぶんひとつの魔法として、そこまで精度が高いわけではないけど……今の私にとっては、どんな魔法だろうと尊敬に値する。
しかし拍手をしたときには、魔法を使った男子生徒は迷宮内から忽然と姿を消していた。課題クリアと見なされたのだろう。
残ったのは私と、先ほど光魔法を使ってくれた男子生徒だ。
私はこほんと咳払いした。彼には聞きたいことがある。というのもこのままでは、私はひとりだけ迷宮から出られなくなってしまうからだ。
「あの、すみません。どうやったら魔法が使えるように」
「【コール・アクア】……放て」
いやちょっと待って! まだ唱えないで!
と引き止める暇もない。勢いの弱い水流は、左の木に軽くヒット。彼もまた迷宮を離脱していく。
残されたのは、幹が焦げた木、枝葉が濡れた木、それになんの変哲もない中央の木の前で呆然とした私。
「お、置いてかれた!」
たぶん、二人にそんなつもりはなかったと思う。
今までの迷宮学はすべて講義形式で、そこで散々迷宮の恐ろしさを教えられてきたのだ。初めての迷宮に緊張するのも、一秒でも早く初級魔法を成功させて、ここから出たいと思うのも当然のこと。親しくもない私のことを気遣う余裕なんて、彼らにはなかったのだ。
ひとりになったとたん、私はぶるりと身体を震わせた。悪意も攻撃性もないはずの演習用の迷宮が、急に何か恐ろしいものに変質したような気がしたのだ。
「……でも、そろそろ初級魔法だって使えるはずじゃない?」
自分に言い聞かせるように、そう呟く。
今まで、私は一度も魔法の詠唱をしていない。生活魔法の練習だけを地道に続けてきたからだ。
だけど特訓の甲斐あって、魔力を使う感覚にはかなり慣れてきた自負がある。生活魔法ができた今こそ、次は初級魔法にステップアップするときだ。
「そうよ。今日こそ私の晴れ舞台だわ!」
そう自分を鼓舞する。
自力で迷宮を抜けだした私を見れば、周囲はさぞ驚くことだろう。暫定・花乙女が魔法を使えるようになったなんて、と注目の的になり、イーゼラは悔しさにハンカチを噛むに違いない。
その暁には、ちゃんとノアにも報告してやろう。私は杖を構えて、大きな声で唱える。
「【コール・アニマ】――切り裂け!」
カレンや攻略対象が唱えていたときは、スチルやボイスつきなのもあって、とにかくかっこ良くて印象的だった呪文。
「【コール・アニマ】――切り裂け!」
ひとり暮らしをしていたから、たまにお風呂で物真似して、恥ずかしくなったりもしたっけ。
「【コール・アニマ】――切り裂け!」
ノアは基本四属性の中でも、風魔法がいちばん得意なんだよね。だから彼は、その能力と瞳の色を理由に"カルナシアの青嵐"と呼ばれるようになった。
だから私だって……風魔法なら!
「【コール・アニマ】切り裂け。【コール・アニマ】切り裂け。【コール・アニマ】……」
一縷の望みをかけて、何度も何度も繰り返す。
そのうちに、声は消え入りそうに萎んでいく。とうとう私は肩で息をしながら、その場に座り込んでしまった。
これ以上、どんなに唱えても無駄だと理解したからだ。
「……やっぱり、だめだ」
やっと生活魔法が使えるようになった、というのが現状の私なのだと思い知らされる。
一足飛びに、なんでもできるわけがないのは分かっている。でも、私の心はひどく揺さぶられていた。
このままじゃ、間に合わないかもしれない。
花舞いの儀まで、あとたった半月しかないのに。そのときが来たら、私は死んじゃうかもしれないのに。
――やっぱり、だめなのね。
数秒前の私が呟いたのと同じ言葉が聞こえてきて、ぎくりと肩を跳ね上げる。
しかし、辺りを見回しても誰の姿もない。それも当然だった。その声は、私の脳に反響するように響いているからだ。
「アンリエッタ・リージャス……?」
確信する。これは、アンリエッタ本人の声だ。
――何をしたって、だめなのね。
私の不出来さを責めるような口調ではなかったが、ネガティブなことばかり淡々と繰り返すアンリエッタに、なんだかむかむかしてくる。
「なんなのよ。たまーに出てきたと思ったら、文句ばっかり言って」
本当は私だって、アンリエッタになんて転生したくなかった。十六歳の女の子に向かって大人げないかもしれないが、堪えきれずに文句を言ってしまう。
「あなた……アンリエッタこそ、一年近く学園に通って何をしてたの? もう少しだけでも、本気でがんばってくれたら良かったじゃない。そうしたら花舞いの儀だって、無事に乗りきれたかもしれないのに!」
感情的に怒鳴る私に対して、反論はない。
というのも、すでにアンリエッタの声は聞こえなくなっていた。代わりに響いたのは――。
「リージャス」
「……ハム先生」
驚いて振り返ると、そこにはハム先生が立っていた。
どうやら独り言は聞かれていなかったようだ。私はお尻を払って立ち上がりながら、おずおずと問いかける。
「あの、ハム先生。クラスのみんなは」
そこまで言えば、ハム先生は私の疑問を察したようだった。
「全員が、すでに迷宮を出ておる」
……うん、そうだよね。
私以外の生徒はみんな、あっという間に初級魔法を成功させた。今もこの景色の中に取り残されているのは、私だけだったのだ。
「むりなもんは仕方がない。左隅の切り株が緊急用の出口になっておるから、そこに触れて迷宮を出るんじゃ」
ハム先生の口調には私への叱責が含まれていない。だからこそ辛かった。
エーアス魔法学園は実力主義の学校だ。できない生徒にひとりずつ寄り添ってくれたりはしない。
できないのなら、学園を去るべき。去りたくないのなら、やれるようになるべき。それだけのことなのだ。
何度か考えた。ノアには話していないが、私にとっては退学もひとつの選択肢だ。一年生のうちに学園を退学すれば、花舞いの儀に参加することはなくなる。
ただ、そんな単純なことで破滅の運命を回避できるのかには疑問が残る。そのときが来ても後悔しないためには、自分で突破口を探すしかなかった。
「ノアは優秀な生徒じゃった。お前さんも気を落とさず、今後も修練を積むようにな」
「……はい」
妹といっても、私とノアに血の繋がりはほとんどない。なんてことは、ハム先生にも言えるわけがなかった。
ため息をつきそうになりながら、私はとぼとぼと切り株に向かって歩く。その一秒後。
背後で、大きく何かが爆ぜた。
そう私が勘違いしたのも無理はない。まるで、唐突に台風のまっただ中に放りだされたような暴風が全身を襲ったのだ。
衝撃に巻き込まれた身体が容赦なく浮き上がり、吹っ飛ばされる。未だかつて味わったことのない未知の感覚に、私は叫ぶことしかできなかった。
「ひゃああああっ!?」
そして偶然ながら、悲鳴を上げる私の手が切り株に触れた。








