第19話.迷宮図書館へ
その日は、午後の時間いっぱいを使って迷宮学の授業が行われる予定になっていた。
迷宮学の先生に続いて、一年Aクラスの生徒は螺旋階段を地下へと下っていく。ゲームの知識もあるし、二週間も経てばそれなりに学園生活には慣れてくるが、広大な校舎も敷地内も、まだまだ知らないところだらけだ。この螺旋階段と、その先に待ち受ける部屋についてもそうだった。
一年生の間は、カリキュラムにもよるが実習自体が少なめである。進級してからしか受けられない授業も多く、今までの成績によっては履修を断られることもあるという。
やはりそれは、魔法が便利であると同時に危険なものだからだろう。魔法による事象の改変は、少なからず世界を歪めてしまうとノアも口にしていた。それこそ実力に見合わない授業を受けることで、魔に堕ちるきっかけを生みだすことになりかねない。生半可な実力では、強い魔法を扱わせるわけにはいかないのだ。
『ハナオト』では、学園を卒業する頃に中級魔法を複数覚えていれば万々歳、と語られていた。初級魔法もまともに使えない私にとっては、夢のように遠い話だが。
地下二階まで来たところで、前を歩いていた先生が立ち止まる。目的の施設の前に到着したのだ。
「これから鍵を開けるから、ちょっと待っとれよ」
ハム、という実においしそうな名前をしたおじいちゃん先生が、胸元に首飾りのように下げた古い鍵を手に取る。重厚な木のドアの鍵穴にそれを差し入れ、がちゃがちゃと回す。
ハム先生は昔ながらの魔法使いという感じの見た目で、裾の長い深緑色のローブを身にまとっている。手にした杖は歩行の支えなのだろう。杖の半分ほどの背丈は、百四十センチもなさそうだ。
それに長いヒゲが特徴的で、顔はほとんど見えていない。おとぎ話に登場しそうな、マスコット的なかわいらしさがある先生だった。
彼は謎に満ちた迷宮を解き明かすために、日夜研究に励んでいるらしい。学園の教師の多くが魔法の探求者であり、研究者でもあるのだ。むしろそちらが本職で、ついでに空き時間に学生の授業を受け持って給料をもらっている、というほうが正しいかもしれない。
「ここが迷宮図書館じゃ。火気も水気も厳禁じゃから、魔法の扱いにはくれぐれも注意するように」
解錠ができたらしい。ふごふご言いながら、ハム先生が両開きのドアを開く。
ぎいい、と軋んだ音を立て、ドアが開いていく。
その先に待っていたのは――本の海でできた、広大な図書館だった。床から天井まで無尽蔵に広がる本棚には、数えきれないほどの本が整然と並べられている。
「うわぁ……!」
「なんだこれ、すごい」
「噂には聞いていたけど……」
生徒たちが一斉に館内を見回す。私も同じだった。古い本独特の埃っぽいにおいを嗅ぎながら、頬を紅潮させて館内を見てみる。
エーアス魔法学園には二つの図書館がある。地上にある図書館に対し、地下にあるこの施設は迷宮図書館と呼ばれている。
迷宮図書館に置かれている本――迷宮の書は、魔法について丁寧に解説するような魔法書とはまったく違う種類の本である。
この図書館にある本は、《《どれも生きている》》。神々や古代の魔法士が書き残したとされる本は、人々を誘い込み、自分という物語の中に招待してしまうのだ。
たとえば、怪物が棲む谷。燃え盛る火山に、虹色の海原。キャンディやクッキーが降り積もる山があれば、人間が獣の姿になって駆け回る野原だってある。迷宮内を流れる時間も、現実とはまったく違うのだ。
摩訶不思議だが、迷宮とは本に綴じられたそれぞれの小さな世界を意味するので、通常の魔法のように影響力が大きいわけではなく、世界そのものを歪めることもない。
恐ろしいのは、迷宮内で命を落としたり、出口を見失ったり、迷宮を抜けだす条件を満たせなかった場合、現実には戻ってこられないということ。
長い時間をかければ、物語というのは作者の意図にかかわらず変質していく。優しい愛の物語が、憎悪と血に塗れた復讐劇に。国を追われる姫と騎士のお話は、関係を許されなかった二人の逃避行劇に……。
安全だったはずの迷宮内で行方不明になったり、魔獣に襲われて命を落とす人が続出したことから、発見されている迷宮の書のすべては厳重な封印を施され、管理されるようになった。それが、今から二百年前くらいの出来事だ。
管理先のひとつがエーアス魔法学園の迷宮図書館であり、ハム先生はその管理人なのである。といっても、禁書と呼ばれるような危険な本は、生徒が触れられる場所には置いてないだろうけど。
ハム先生はというと、さっそく声を荒げていた。
「これ、これ。隙を見せるな、本に足を取られるぞ。そっちのお前さん、おとぎ話に目がないじゃろう。童話をモチーフにした本が、次から次へとひっついておるわ」
ハム先生の視線の先では、勝手に本棚を飛びだしてきた本が生徒にまとわりついている。
数十冊の本があちこちを楽しそうに跳ね回る。そのあり得ない光景を見ていると、本が生きている、という言葉の意味が脳内に染み込んでくる。どの迷宮も、自分を読んでくれる誰かに遊びに来てほしくて仕方がないのだ。
しかし、それらの本のページが勝手に開くことはない。すべての本が、魔法の紐で厳重に封印されているからだ。
迷宮図書館は、学園内でも有数の危険な場所。平時の生徒の立ち入りが禁じられていることからも明らかである。
でも私は正直なところ、わくわくしていた。
だって本の中に入れるなんて、いかにもファンタジーって感じだ。『ハナオト』ではカレンも、攻略対象と共に何度か迷宮を探検していた。物語によってお姫様になったり、下働きの女の子になったり、妖精の姿になったり、一時的に魔法が使えなくなったり……危ない目に遭いつつも、楽しそうに冒険していたのが印象的だった。
そんなことを思いだしながら、足元をぴょんぴょん動き回る一冊の本に、背後からそぅっと手を伸ばしてみると。
『――!』
あちこちに散らばっていた本が、雷撃にでも打たれたようにびくんッと身体を震わせる。
波が引くように、一斉に私から離れていく数十冊の本。私と本とを見比べて、ハム先生がふごふご言う。
「本たちは、勤勉な人間を好むものじゃからな」
何気ない一言が、手を伸ばしたまま固まる私の背にぐさりと突き刺さる。
「イーゼラ様、ご覧になりましたか?」
「ここの本たちは、見る目がありますね!」
「んまぁ、本当ですわねぇ」
友人たちが囃し立てれば、中心に立つイーゼラが機嫌良さそうに口に手を当てて笑う。
「でも、本だって必死にもなりますわよね。アンリエッタ・リージャスが入ってきたら、どんな迷宮だってばかになっちゃいそうだもの……あら、失礼。本当のことを言っちゃった」
私と目が合えば、おーほっほっほとイーゼラたちが甲高く笑う。
気分は完全に、継母継姉にいじめられるシンデレラだ。悔しさのあまり歯軋りする私に気がつかず、ハム先生は長いヒゲを撫でている。
「この光景、懐かしいのう」
「懐かしい、ですか?」
「うむ。文武に秀でる生徒もまた、本に好かれるか嫌われるか両極端でな。ノアもまた、ほとんどの迷宮の書に嫌われておった。あやつが手を伸ばすだけで、本が怯えて逃げていくから授業にならんかった。優秀すぎるというのも、困ったものじゃ」
フォローのつもりなのか、そんな話を披露するハム先生。
クラスにもノアファンが多い。彼らは"カルナシアの青嵐"の知られざる逸話に食いついた顔をしているが、私としてはぜんぜん嬉しくない。だってノアと私は、完全に正反対の理由で本に嫌われているということだ。
そのあとも、なかなか授業は始まらなかった。私には冷たい本の群れが、エルヴィスの傍を離れようとしないからだ。彼の場合はノアと異なり、優秀でありつつ本に好かれるタイプなのだと思われる。
困った顔のエルヴィスと、その隣をちゃっかりキープするイーゼラ。たまに「きゃっ、本が飛びかかってきましたわ。わたくし、こわぁい~」とか言いながら軽く抱きついたりもしている。本も別に、あんたを狙ってるわけじゃないと思うけどね。
「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ、イーゼラ嬢」
だんだんエルヴィス様を演じるのも板についてきたエルヴィスは、イーゼラを安心させるように微笑んでいる。その笑みに、イーゼラを始めとするクラスの女子がこぞって頬を染めていた。
なんか、ちょっとムカッとする。私相手のときとは違い、他の令嬢を相手取るときのエルヴィスは本当に紳士的なのだ。故意でやってそうなので余計に腹立たしい。本性はヤカラなのに。








