第17話.二週間経過
三の月の十四日。
私がアンリエッタとして『ハナオト』の世界に転生してきてから、かれこれ二週間が経っていた。
ノアの従魔が学園に現れた日から、私は学園と屋敷を往復する毎日を送っている。寮部屋には一度も戻っていないが、ひとり部屋というのもあり、特に問題はなかった。
転生したての頃よりも、私の魔法の腕前は上達していた。最近では羽ペンだけでなく、ティーカップや本など重いものも動かせるようになった。
ノアは感情を表に出さない人だし、なかなか本心を悟らせてはくれないが、特訓の進捗はそこまで順調――というわけでもなさそうだった。残念ながら。
今月の下旬から学園も春休みに入るが、それは王室に関連する行事や催しが増えることを意味する。ああ見えて王族であるラインハルトの外出が増えれば、彼を警護するノアは今まで以上に多忙になる。たぶん、私の面倒を見ている暇はなくなるだろう。
そこで私はちょっとした休み時間や昼休みにも、積極的に魔法の練習をするようにしていた。
ノアに言われたからではなく、あくまで自主的な特訓である。机の上に置いたペンを動かしたり、手元に引き寄せるくらいの生活魔法であれば、周囲の邪魔にもならない。
その日も私は両手で杖を握って、教科書よ持ち上がれ~持ち上がれ~と心の中で唱えていた。
今では私が杖を持っていようと、正面から絡んでくる人はほとんどいない。”カルナシアの青嵐”にチクられでもしたら困るからだろう。実際は私が言いつけたところで、ノアが制裁に動くなんてことはあり得ないのだが……もちろん、都合のいい誤解を訂正したりはしなかった。
これもラインハルトをぎゃふんと言わせた一件が学園中に広まったおかげである。ノア様々だ。
あれからラインハルトは、私とばったり出会すたびに表情を歪めて苛立たしげに立ち去るようになった。そのたび私は、離れていく背中をにまにまして見送っている。めげない性格の男なので、油断はできないけどね。
「アンリエッタ嬢。もうすぐ次の授業ですよ」
声をかけられると、とたんに集中力が途切れた。机めがけて落ちてくる教科書を、横から伸びてきた手がすかさずキャッチする。
「エ……ルヴィス、様」
教科書を返してくれたのはエルヴィスだった。
そのときになって、私はようやく気づく。教室には私たち以外の生徒の姿がなかった。集中しすぎて、周りの様子が目に入っていなかったようだ。
急いで教材を用意する私を見下ろして、エルヴィスが続ける。
「確か隣の教室でしたよね。途中まで一緒に行きましょうか」
「いやですけど」
「こんな話を知ってますか? とあるご令嬢の妄想話で」
「喜んでご一緒させていただきますわ~」
私は一生このネタで強請られ続けるのだろうか。いつか購買でコロッケパン買ってこい、とパシられるようになるのかもしれない。
「ていうか二人しかいないんだから、その話し方やめてよね。不愉快だから」
胸に教材を抱えた私が睨みつければ、エルヴィスがにんまりと笑う。
「へェ、オレとは本音で話したいって?」
「猿真似が不快だって言ってるの。ていうか、いつからそういう喋り方になったの?」
今さらエルヴィス相手に取り繕っても無意味なので、私は率直に気になっていたことを問うた。
エルヴィスは辺境伯家の次男である。反抗期だったとしても、ここまで口調が乱暴になるとは考えにくいのだが。
「あ? オレに薬草について教えてくれた師匠の口調が移っただけだ」
「何それ初耳なんだけどっ!?」
「当たり前だろ。誰にも言ってねーんだから」
エルヴィスは呆れ顔をしている。エルヴィスルートで師匠の話は何度か出ていたが、その人物像についてはあまり語られていなかったのだ。
「も、もうちょっと詳しく」
「ほら、さっさと行くぞ。授業に遅れる」
「あっ、エルヴィス!」
エルヴィスに続いて教室を出てみると、廊下は無人だった。次の授業の開始時刻が迫っているからだろう。
詳細を聞きだしたいところだったが、それはまた今度にしよう。のんびりと大股で歩くエルヴィスを、私は早足で追い越した。
エルヴィス様は得意とする光魔法と魔法薬学中心に授業を多く取っていた。魔法薬を飲んでいないエルヴィスでも、そのあたりは変わっていないようだ。
私はなんとなく振り返って質問する。
「そっちは、これから魔法薬学の授業?」
「うん」
エルヴィスが破顔する。不意打ちで喰らった幼げな笑みに、きゅうと胸が疼いた。
だ、騙されちゃだめよ、私。これはブラックエルヴィス。私の大好きなエルヴィス様とは別人なんだから。
「この前、魔法薬学の先生が言ってたんだけどな。迷宮にある本の中でしか手に入らない、幻の薬草の話」
「ふぅん。それじゃ、午後の授業が楽しみね」
「つっても、本に触るのもむりだろーけど」
「エルヴィスなら、きっとすぐでしょ」
適当に言っているつもりはなかった。周囲から天才だと持て囃されるエルヴィスだが、どちらかといえば彼は努力の人である。エルヴィスルートでは、放課後もひとりで魔法の特訓をしている彼を見かけるイベントもあった。そういう本質は、たぶん変わっていないはずだ。
そんなことを思い浮かべながら言ってみると、なぜか後ろの足音が止む。訝しく思って振り返ると、少し意外そうにしていたエルヴィスは得意げに歯を見せて笑ってみせた。
「当たり前だろ」
子どものような表情は、エルヴィス様とは似ても似つかないものだった。
そのせいか、心から刺々しいものが抜けた気がする。もじもじしながら、私はようやくお礼を言うことができた。
「さっき、その。声かけてくれてありがと」
「あ?」
「だって、放っておけば良かったのに。自業自得だって」
前の時間は共通授業だったから、クラスメイト全員が教室にいた。それなのに誰も私に声をかけてくれなかったのだ。
ちょっかいはかけられないようになっても、誰もアンリエッタを好いているわけじゃない。むしろ授業に遅れればいい気味だ、と思われているのだろう。
でもエルヴィスだけは、私を置き去りにしなかった。
すると、欠伸を噛み殺した彼は少し潤んだ目で言う。
「魔法の練習がんばってんだろ。自業自得とか思わねェよ、別に」
「う、うん」
「髪引っ張っても頬つっついても、いろいろしても――無反応でおもしろかったしな」
「ちょっ、そんなことしてたのっ!?」
前言撤回。こいつ、乙女になんてことをするのだ。
って、いろいろとは!? いろいろって何っ? 何されたの、私?
数分前に好き勝手されたらしい髪やら頬やらを押さえて真っ赤になる私を見下ろすと、エルヴィスは屈託なく笑う。
「嘘だよ。焦りすぎだろ、ばーか」
んなっ――。
しばらく硬直していた私は、数秒後にまなじりをつり上げる。
「ば、ばかって言ったほうがばかなんですけど!」
「はいはい。ほら、授業遅れんぞ」
「あんたのせいでしょ!」
私の怒鳴り声なんてお構いなしにエルヴィスが歩きだす。その背中にあっかんべーをしてから、早足で追いかけた。
そういえばヒロインのカレンは、攻略対象に合わせて受ける授業の種類を変えていた。
カレンがエルヴィスルートに進めば、エルヴィスがこうやって声をかけてくれることなんて二度となくなるだろう。そう思うと、少しだけ寂しくなった。
……ううん。なんで私が寂しくならなきゃいけないわけ? エルヴィス様はともかく、猫かぶりしているエルヴィスなんてカレンに選ばれるはずがないのに。
「お前、なに暗い顔してんだよ」
そんな思考が表情に出てしまっていたらしい。エルヴィスに指摘された私は思わず視線を落とす。
「別に。気のせいでしょ。じゃあ私、ここだから」
エルヴィスは納得いかなそうだったが、もうすぐ授業だと思いだしたのか隣の教室へと向かう。私も目の前の教室へと足を踏み入れた。








