第16話.ぎこちない褒め言葉
これが――アンリエッタの魔力なの?
信じられなかった。今の今まで、アンリエッタはどんなふうに呼吸していたのだろう。こんな圧倒的な熱に蓋をして、どうやって生きていたのだろう。
今ならば、と思う。私はきっと魔法が使える。そう疑いなく信じられる。
しかし私は結局、魔法でペンを動かすことができなかった。なぜならば――。
「行けそうか。なら、やってみろ」
――なぜならば、そんなことを囁くノアとの距離が近すぎるから。
がっちりとした逞しい胸板に、首に回された太い腕。触れるほど間近にある、彫刻のように整った美貌。その口元から静かな息遣いを感じるたびに、ドキドキと鼓動が騒いで、身体が強張り、顔が熱くなっていく。
だって私、男の人にこんなふうに抱きしめられたことなんて一度もないんだもん。ノアにそんなつもりはなくても、意識せずにはいられない。一度は乙女ゲームで攻略した仲だし。それにしても密着しないと魔力が流せないなんて、乙女ゲームのための設定だよね。
現実逃避のようにそんなことを考える私の顔に、意図せずノアの息が吹きかかる。
「おい、だから集中しろ」
ひいい~~~!
その瞬間、全身が強く力んでしまう。
机上で、びしりといやな音が鳴った。ペンのすぐ近くだ。
驚いて目を向けると、ノアが置きっぱなしにしていた水晶玉に亀裂が入っている。かと思えば、音を立てて真っ二つに割れてしまった。
私はぎゃあっと悲鳴を上げる。
「す、すみません。水晶玉が!」
けっこう高価なものだと言っていたのに、やってしまった。
これはたぶん殺される。花舞いの儀が来る前に殺される。顔を青くする私のすぐ近くで、ノアが息を吐く。
「別にいい。これだけ買い直せばいいだけだ」
そんなに怒ってはいないようだ。できれば、買い直すのもやめてもらえると嬉しいのだが。
「だが、魔力の余波を喰らった程度で魔法具が壊れるとはな。古いものだから壊れかけていたか……?」
何やらぶつぶつ呟きながら、ノアが手を伸ばして水晶玉をあっさりとどかす。
「ほら、もう一回だ」
「……っ」
彼が動いた弾みに、私の身体はノアに抱き寄せられる。
ほんのりと香水をつけているのか、ノアはなんだかいい香りがして、私は強く思う。
――むり。
この状況で集中なんてむり。ぜったいにむり!
一秒ごとに私の意識はかき乱されていく。ばくばくと、心臓がうるさいくらいに騒ぐ。この音もノアに聞こえているのかもと思うと、いてもたってもいられなくなった。
「っお兄様」
「なんだ」
私の耳を、美声がくすぐる。勇気を出して私は斜め後ろのノアを振り返った。
「こんなに近い距離で特訓なんて、恥ずかしいのですが」
ノアの眉間に皺が寄る。恥ずかしい、という言葉の意味を図りかねているようだ。
ええい、この朴念仁め!
「私、もう十六歳です。こ、子どもじゃないんです……」
赤い顔でそこまで訴えれば、ノアが目を丸くする。
ほんの一瞬だけ見せた、隙だらけの表情。それにどきりとしたときには、ノアが横にスライドするように素早く身体を離していた。
やっぱり、アンリエッタとくっついているのはノアとしても苦痛だったんだろう。それにしたってあからさまに過剰な反応で、ちょっとへこむけど。
「それなら、ここからは自分でなんとかしろ」
「わ、分かりました」
離れて座り直したノアからの指示に、こくりと頷く。
「ペンが動かせるまでは夕食抜きだ」
それは虐待でしょ! と言いたいが、ノアの親切心をはね除けたのは私である。こうなったら、意地でもペンを動かすしかない。一仕事を終えて、堂々と食事にありつくのだ。
私は再び、胸の前に杖を構える。
さっきは集中できずにいたけど、ノアから流し込まれた涼しげな魔力が今も異物として感じられるからか……私の中を巡る魔力の輪郭が浮き彫りになっていく。魔力の流れが、驚くくらいスムーズに感じ取れる。
その感覚は不思議なものだった。自分の身体の中にもうひとつ、液体でできた身体があるような、名状しがたい感覚。でも不快ではなくて、その形をもっと正確に知りたいと思った。
腕から手首。手首から手の甲、そして指先へと意識を集中させていく。身体から魔力を伸ばすのはまだ難しいけれど、ノアが言ったように杖が私の魔力を安定させて、橋の役割を果たしてくれる。
先ほどのように、全身が無駄に力むこともなく――私の魔力が、ひとつの奇跡を起こす。
テーブルの上で、誰も触れていないペンがわずかに震えた。
ぐっと眉を寄せて、目を凝らすようにしながら、さらに集中。かたかたと音を立てて小刻みに震えていたペンが、ゆっくりと持ち上がっていく。
私の胸元あたりまでペンを浮かせたところで、一瞬、集中力が途切れた。そのとたん、ペンがテーブルへと落ちてしまう。
でも今、確かに私はペンを動かすことができていた。手で触れずに、魔力だけで!
「で、できた……! できましたよ、お兄様!」
「そうだな」
思わず興奮して話しかけてみるものの、隣に座るノアの表情に変化はなかった。ただ、目の前の出来事を事実として受け止めているだけだ。
そんなノアの様子を目の当たりにすれば、私の口元から笑みが消える。
それは、ノアの意地悪というわけではない。ただ単に、彼にとって、なんでもないようなことだから――声を上げて喜んだりはしないのだ。
私ができたことは、他人から見たら大したことじゃない。詠唱を必要とせず、一般的な魔法には数えられない、生活魔法と呼ばれるレベルの単純な事象。五歳のノアがきっと造作もなくできていたことで、教室で話せば誰もが小馬鹿にして笑うようなことだ。
でも、と私は思う。
それでも、やっぱり。
「褒めてください、お兄様」
杖を握り込んだ私は、俯きがちになりながら続ける。
「褒めて、ほしいです。……一言でいいので」
今までできなかったことを、できるようになったのだ。それを認めてほしいと思うのは、我が儘なんかじゃないと思う。
そして私はどうしようもなく怠惰な人間だから、がんばったときは誰かに褒めてほしい。偉いねって言ってほしい。そうしたら、どんなに辛くても次の日だってがんばれる気がするのだ。
そんな思いが届くことはなく、いつまでもノアからの返事はない。
……そうだよね。ノアが、私を褒めてくれるわけないか。
諦めて、前言を撤回しようとしたときだった。
「よく、やった」
私の鼓膜が拾ったのは、ものすごくぎこちない褒め言葉だった。
ハッとして顔を上げたときには、ノアは私のほうを見てもいない。そっぽを見て放たれた不器用な褒め言葉は棒読みで、心だって込められていなかった。
でも、私はへにゃっとした顔で笑っていた。
ノアが褒めてくれたのが、なんだか言葉にできないくらい――無性に嬉しかったから。
「はい。……ありがとうございます、お兄様」
笑顔と共にお礼を告げれば、なんでかノアが硬直している。
「お兄様?」
私は小首を傾げる。気を抜けた顔を他人に見せないノアにしては珍しいことだと思っていたら、無愛想な口調で返された。
「何を笑っている」
えっ。もしかして、私の笑顔が不気味で固まってたの?
まぁでも、いいか。今は機嫌がいいからね、私。
「だって、嬉しいので」
私は羽ペンを手に取る。ペンを宙に浮かせるのには成功したが、手元に引き寄せることはできていない。もっと持続時間も延ばしたいところだ。
それにしても、と心の中で思う。
どうやらアンリエッタは今まで、全身のいろんな箇所に蓋をされているような状態だったようだ。魔力がうまく循環していないのだから、魔法が使えないのも当たり前である。
でもどうして、いつからそんなことになったんだろう。
赤の他人である私がアンリエッタの身体に転生したから? それとも、もっと他の理由があるのかな?
うーん。なんだか気に掛かるけど……とりあえず今は、魔法を使えた感覚を忘れないうちに反復練習したほうがいいだろう。
「次は、もう少し離れたところにペンを置いてみます」
「ああ。やってみろ」
ノアに褒めてもらえたおかげか。その日、私の集中力はけっこう続いたのだった。
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