1章 23話『マルタに文字を教えよう!』
そんなこんなで僕は応接室で文字を教えていた。人間言語の文字の数は54個で、2時間もしない内にマルタはその内の3分の1をけるようになった。
まだまだ筆跡は荒いが、テアの手紙に書いてあった文字よりはマシだ。片方の蝋板に手本の文字を書くと、彼女は頑張ってそれをもう片方に筆写する。
「今書いた6文字で『ありがとう』という意味だ。お前が覚えた18文字でもう色々単語を作れる」
マルタがウンウンと首を縦に振ると、一瞬だけ文字を教えていた頃のエーリカと姿が重なる。だがすぐに頭からかき消すと、蝋板に文字を書き込んだ。
「これで『元気』。この4文字を組み替えて、まだ教えてない19文字目を加えると『残念』になる」
これで2回目なので人に物を教えるのは慣れた物だ。子供の頃に教わったリジル家の家庭教師の真似をしてるので、多分分りやすい説明が出来てる。
「まあ、まず覚える単語はこの3つでいい。あとは教えた19文字を何回も書いて記憶に定着させろ」
先の尖ったペンみたいな奴の尻尾についているヘラで、蝋板の文字を半分ほど削って消す。彼女はその空いたスペースに何度も文字を書いて練習する。
ニルスはしばらく見ていると自警団の用事があるとか言って、女は無視してたら居なくなった。だから手話の通訳ができる便利な奴はどこにもいない。
「分からない事があったら何とか伝えてくれ」
意志疎通が出来ないというのは質問も聞けないので不便過ぎる。というかあの女はどうせ用事もなさそうだし、ここに残って子供の言葉を通訳しろよ。
「その字はこうやって書くと綺麗に見える」
ペンみたいな奴を走らせると、マルタはそれを自分の書き方に取り入れる。別に綺麗に書かせる必要はないが、彼女は飲みこみが早く教えるだけ得だ。
そうして文字の学習を続けさせていると、突然『残念』という文字が蝋板に書かれる。僕が首をかしげてると彼女は『残念』『残念』と連続で書く。
「字を書くの初めてなのに頭いいな。まあ幼少期の僕はこんな簡単な事くらい瞬時に覚えられたけど」
まあ何でも簡単に習得できたこの僕と比べてやるのは、あまりに可哀想だ。現にマルタは辛そうな表情で『元気』と書いた文字の上にバツ印をつけた。
「そう落ち込むな。別に僕に勝てないのは当たり前の事。凡人の中では優れてるんだからそれを誇れ」
だが慰めの言葉が心に届かなかったのかマルタは『ありがとう』と書いて、その上にまたバツ印をつける。更に『残念』を3連続で蝋板に書き込んだ。
「そんな僕に負けたのが悔しいのか」
「……!」
彼女は激しく首を振って否定しており、少し大人びた印象があったコイツにも負けず嫌いな一面があるんだなと思った。まあいい、軽く流してやろう。
「分かったよ。それじゃあ練習を続けろ」
だが『元気』を5連続で書き、その全てにバツがつけられると別の事を伝えようとしてる可能性が浮上する。よく見ると彼女の表情には焦りが見えた。
「もしかして体調が悪いとか?」
『ありがとう』と書かれた文字に三角マークが重なった。半分正解という事なのだろうか。分からないので、女を呼びに行こうとすると袖を引かれる。
「いや、女を呼びに行きたいんだが?」
マルタは困ったように顔を俯かせると何かを考え始めた。そして十数秒ほど経過した頃にパッと表情を明るくすると、手の平を下腹部に添えて見せる。
「トイレに行きたい?」
目を丸くして頷くマルタに、僕は「行ってこいよ」と呟いた。椅子から立ちあがり、パタパタと応接室から出ていく背中を見ながら難しいなと思う。
「別に勝手に行けばいいだろ」
だか突然出ていったら僕はきっと困惑するし、彼女はこちらに対して説明する手段を持たない。なら今の対応が彼女にとっての最良の選択だったのか。
筆談できるようになるまで、何か困った事があっても伝える手段はなくて質問もできない。僕はあの女がずっと通訳してれば万事解決なのにと思った。
気が付けば空が茜色に染まっていて、マルタの顔にも少し疲労の色が見える。休憩を挟みながらも4時間ほど勉強したが、初日にしては上出来だった。
「明日もやろうと思うけどいいよな?」
彼女が頷くと、僕は蝋板の文字を全部消してから手本の文字と教えた単語を書いておいた。日が落ちるまでは時間があるし、これで一応復習ができる。
「復習用に今日教えた文字を書いて置いた。別にしなくてもいいけど、暇だったらやっとけ」
杖を握り、応接室を出ようとするとマルタはニコニコしながら後ろを付いてきた。会話が出来ないので、何を考えてるか分からないが見送るつもりか。
「まあ勝手にしろよ」
カツン、カツンと再び石の床を叩いて応接室の外に出た。階段を降りるのは苦労するが、マルタが小さい体で一生懸命になって支えようとしてくれる。
「おい、何の力にもなってないから止めろ」
そう言っても彼女は支えようとするのを辞めず、結局一番下に降りる頃にはヘロヘロになっていた。だが僕は忠告したので無視をして先に進んでいく。
長椅子の並んだ聖堂を抜けていくと、息を切らした小さな少女がパタパタと駆けてくる。面倒くさいな思っていると、彼女は躓いて転びそうになった。
「おい、危ないなクソガキ」
今度はこっちが支えてやると、マルタは僕の体を指でなぞり『ありがとう』と文字を書く。子供とはいえ何で下民を助けたのか、自分でも分からない。
「勘違いするな。僕は文字を教えに来たんであって、お前らと仲良くしに来たんじゃないからな!」
だが人の話を聞いていないのかマルタは微笑んでいる。それを完全に無視して教会モドキの外に出ると、僕から逃げた子供2人に怯えた目で見られた。
「うわ、怖い奴が中に居たよ……!」
「しっ! そんな事言ったら駄目だよ、ウベ」
「まだ言ってるのかよ」
なんか面倒くさいのでマルタに文字を教えた時点で、ニルスへの借りは全て返済したという事にしとこう。コイツらには勝手に怖がらせておけばいい。
そう思っていると後ろからマルタが静かに出てきて、子供2人に短い手話で何かを伝えて見せる。すると彼らのこっちを見る目がほんの少し変化した。
「ねえ、お兄さんは本当は優しい人なの?」
「本当も何も、僕は常に優しいんだが。というかお前ら、コイツが手話で話してる内容が分かるのか」
「簡単なのだったら。だって一緒に住んでるし」
「ふーん、子供でも分かるんだな」
あの頭の悪そうな女すら覚えていたし、僕ならば簡単に習得できる筈だ。マルタと円滑に意志疎通を図る為に、帰ったらニルスに手話を教えさせよう。
「ところでお前らは誰に手話を習ったんだ」
「ニルス!」
「アンニさんも、マルタも、僕も、みんなニルスに教えて貰ったんだ。お兄さんも教えて貰ったら?」
マルタを見ると、彼女も肯定するように頷いていた。というかニルスは手話を教えたんなら、何で文字の読み書きも一緒に教えてやらなかったんだよ。
「文字もアイツから教われよ」
「教えて貰ったけど、分からなかった」
「すごい難しかったよね」
「ああ、そうか。見たことないけどニルスの文字はクソみたいに汚いだろうからな。それは仕方ない」
あのとんでもなく汚ない字を書くテアに、文字を教えた男だ。そんな魔物みたいな字を書く奴に指導されたら、習得難易度が上がるは当たり前だろう。
「そうだ、アンニという女は教えられないのか」
「アンニさんは文字の読み書きができないよ」
「は? そんな奴がこの世界にいるかよ」
「知らないの!? 自分のステータスに書いてある文字以外、何も読めない人なんて沢山いるけど!」
大人しそうな奴がもう片方を小突くと、僕が怒るんじゃないかと思って2人の間に緊張が走る。だがマルタが手話で諭すと彼らはジッとこっちを見た。
「別に知らなかったのは事実だ。というか怒らないし、最初にお前らと話した時も怒ってなかった」
「そうなの、お兄さん?」
「嘘だ! 絶対怒ってたもん」
「別に、好きに受け取れよ。僕はもう帰る」
教会の敷地から杖をついて立ち去ろうとすると、マルタがバイバイと手を降ってきた。子供2人はまだ僕を警戒してるようだったが、全員を無視した。
にしても文字の読み書きが出来ない人間が、沢山居るなんて話は初めて聞いた。子供の言う事で信憑性が薄いが、ニルスに聞けば答えはハッキリする。
「まあスラム基準の話とかなら納得できる」
「リースさん、ちょっと待って貰えますか?」
僕は錆びた門を開けて教会の外に出ると、豚小屋に向けて歩き出した。明日までに多少は手話を覚えておきたいな、と思っていると進路を妨害された。
「ねえ、待って貰えます?」
「……」
コイツにはずっと通訳させようと思っていたが、自分で手話を覚えるので用がない。だが無言で横を通り抜けようとすると、女は僕の前に移動をする。
その横を通り抜けようとすると更に前に移動された。こっちは杖をついているので、彼女の俊敏な動きには対応できず、面倒だが話を聞くことにした。
「今から30秒だけ時間をやるから喋れ」
「なんなんですか、マルタちゃんに上手く取り入ったからって調子に乗って! ずっと貴方が教えてる所をドアの隙間から監視してましたけどねえ――」
「はい終了」
コイツずっと隠れて見てたのかよ、マジで気持ち悪い奴だな。嫌悪感を露骨に顔に出しながら足を進めると、ドブネズミ女はまたも進路を塞いでくる。
「なんなんだよ鬱陶しいな。30秒やっただろ」
「じゃあ要点だけ言いますけど、貴方が変な事しないか監視してました。で、教えるのは上手でした」
「あっそ、お前に誉められても嬉しくない」
「ああ、もう! 本当に、ムカつくッ!」
女は地団駄を踏むが、僕の冷たい目に気付き咳払いをした後に体面を取り繕う。もう相手にするのも面倒くさかったので好きに喋らせてやる事にした。
「で? 話を続けろよ」
「マルタちゃんは貴方にほんの少し心を許してるみたいです。でも彼女の内面の深い部分には安易に立ち入らないで下さい。それは他の2人も同じです」
「分かってるよ、重い過去があるんだろ。僕にはどうにも出来ないから立ち入らない」
そんなのはニルスの過去を聞いたときに痛感している。僕には人の心を癒す特別な力がある訳でもないし、立ち入った所で傷口を広げてしまうだけだ。
「分かってるならいいんですけど」
「あと僕は文字を教えに来た。別に仲良くしに来た訳じゃないし、終わったらここには2度と来ない」
それだけ言うと今度こそ、女の横を抜けて帰路につく。僕は勇者として世界を救ったが、心に傷を抱えた人達の何を救えているのかは分からなかった。
「まあそんな事はどうでもいいか」




