42:孤独は魔法じゃ癒せない(5)
「メリッサ、あまり暴れるなよ。ディオが起きてしまうからな」
「ディオ?」
アシュードの言葉にきょとんとして目を瞬かせたメリッサは、アシュードの隣で丸くなって眠るディオに初めて気が付いた。二人掛けのソファに、メリッサ、アシュード、ディオの三人がぎゅうぎゅうに座っていたらしい。
ディオはお気に入りの縫いぐるみのゴンザレスを抱き締めていた。アシュードの体に頭を擦りつけるようにして、幸せそうな寝息を立てている。しかし、ディオの赤くなった頬が目に入り、思わずメリッサは眉を顰めてしまう。
「ディオ、右のほっぺたどうしたの? 赤くなってるけど」
「……母親に叩かれたようだ。ここに来る道中、馬車の中で母親についていろいろ聞いてみたが、はっきり言って親子関係は良くないみたいだな。無視されたり、食事を抜かれたりは普通だと、ディオは言っていた」
「うそ……」
そんな話は初耳だ。ディオは母親のことを悪く言うことなんて全くと言って良いほどなかったし、辛いとか悲しいといった言葉も口にしなかった。いつもにこにこ笑って「おかあさん」の話をしてくれていたのに。
ディオが幸せになりますように。メリッサはそう祈りながら、ディオのことを手放したはずだった。それなのに、どうして。
「メリッサ、心配するな。ディオのことは、この僕がなんとかする。このまま母親の元で暮らすのが良いのか、魔術師団に戻る方が良いのか。どちらも駄目なら、僕が引き取っても良い。とにかくディオにとって一番幸せな環境を必ず与えると約束する」
「……でも、アシュードは、もうすぐ結婚するんでしょう? ディオを引き取るのは無理に決まってるじゃない。今日、婚約の書類を交わして、エマさんが正式な婚約者になったんじゃないの?」
アシュードの服をぎゅっと掴む。上目遣いでじっと見つめると、アシュードの頬がなぜか赤く染まった。エマのことでも考えているのだろうか。メリッサの視界がじわりと滲んだ。
「泣くな。……エマ様との婚約は延期になったんだ。だから、まだエマ様は正式な婚約者ではない」
「なんで、延期に?」
「いざ書類を交わそうとした時に、部屋にディオが飛び込んできたからだ。向こうのご両親の呆気にとられた顔、すごかったぞ」
ディオはどうやら婚約を阻止するかのように突っ込んでいったらしい。メリッサのためとはいえ、随分大胆なことをしたものだ。しかし、てっきり家に帰ってしまったと思っていたディオが、アシュードのところに行っていたとは驚きだ。どうしてそんなことをしたのか、ディオが目覚めたら聞いてみようと思う。
「なんか、ごめんね。アシュードの大事な日だったのに」
「別に良いさ。精霊祭の日に改めて書類を交わすことになったんだ。忘れられない記念日になると、エマ様も喜んでいたから問題ない」
「そう、なんだ……」
メリッサはなんだか複雑な気持ちになる。延期になったと聞いて嬉しくなって、婚約が破談になった訳ではないと知って落ち込む。ぐらぐらと安定しない足場に立っているみたいだ。
どうしてこんなにもやもやするのか。もう少しでその答えが分かりそうなのに。
「メリッサ」
アシュードがメリッサの額をそっと撫でた。撫でられたところがじんわりと熱を持ったような気がする。いきなり何をするのかと驚いて、メリッサは身を縮こまらせた。
「お前、顔に傷を作るなよ。この額の傷、ちゃんと綺麗に治るんだろうな?」
「……え?」
急な話題転換にぽかんと口を開けると、アシュードが顰めっ面になる。そういえば、倒れた時に額を怪我したのだった。左手の甲の方が痛いので、ちょっと忘れていた。
「あんまり痛くないし、平気だよ。アシュード、大袈裟」
「……はあ。ディオもメリッサも、僕のいない隙に、揃って怪我をしているなんてな。ああ、僕の寿命を縮める気か」
「え、本当に大袈裟だし」
冷めた目でじとりと見上げてやると、アシュードも負けじと目を細めて見つめてくる。この男の考えていることは、相変わらずよく分からない。赤の他人である少女の傷を、そこまで気にする必要なんてないだろうに。
なんとなく居心地が悪くなって、身を捩る。しかし、やはりというか当然というか、アシュードは離してくれなかった。アシュードの膝の上でばたばたしていると、余計にきつく拘束される。
「もう! アシュード!」
メリッサがたまらず声をあげると、アシュードが痛みを堪えるような顔をした。少し暴れすぎたかと思って、メリッサはぴたりと止まる。メリッサも小さな子どもではない。膝の上で暴れたら痛いに決まっている。
アシュードがひとつ、大きなため息をついた。その吐息がメリッサの頬をかすめていく。アシュードの翠の瞳が少し潤んでいるように見えて、メリッサの胸が一際大きな音を立てた。
「あの、アシュード……?」
「メリッサ。……やっぱり僕は、お前のことが好きだ」
一瞬、呼吸のしかたを忘れた。ただ、呆然とアシュードの瞳を見つめる。
「たぶん、これからもずっと、僕はお前のことが好きだ。本当は、エマ様と結婚なんてしたくない。……ごめん、ごめんな、メリッサ」
それは何に対する謝罪なのだろう。自分の気持ちを抑えつけて、無理矢理結婚をすることに対してなのか。メリッサのことを諦めきれないことに対してなのか。
でも。そんなの、どちらでも良い。大切なのは、今もメリッサのことを好きだと思っていてくれること。
そして、それをメリッサがすごく嬉しいと感じているということだ。
すとん、と何かが心の中に落ちてきた。それは、ずっと探していた答え。
「アシュード!」
メリッサはぎゅっとアシュードに抱き着いた。とはいっても、もう既に密着しているので、大差はなかったが。少し左手が痛んだけれど我慢して、更にぎゅうぎゅうと力を込めた。
「ど、どうしたメリッサ?」
「あたしの方こそごめんね、アシュード。あたし、今、やっと、答えが分かった。遅くなってごめん。鈍くてごめんね」
「……メリッサ?」
メリッサは少し力を抜いて、アシュードの顔をじっと見上げる。アシュードは何が起きたのか分からず混乱しているようだ。しかし、何か嫌な予感がしたのか、さっと手で顎を覆う。
「……いや、別に頭突きをしようとした訳じゃないし」
メリッサが思わず突っ込むと、気まずそうにアシュードは目を逸らした。
本当にこの男ときたら。メリッサの予想のつかないことばかりする。でも、だからこそ、一緒にいて退屈しないのだ。
メリッサはふわりと微笑んだ。
「アシュード。あたしも、アシュードのことが好き。アシュードと、離れたくない」
漸く見つけた自分の気持ちを言葉にすると、妙に照れ臭かった。心臓はばくばくと鳴っているし、顔はもちろん耳まで熱い。それでも、伝えたかった。
「あたしはアシュードよりも十二歳も年下だし、まだまだ子どもだけど。この気持ちは嘘じゃないの。真剣なの。アシュードのこと、エマさんになんて、渡したくない」
アシュードが目を見開いてメリッサを見る。メリッサは目を逸らさず、じっと見つめ返した。
窓の外から、雪の塊が地面に落ちる音が聞こえてきた。とさり、という微かな音が、見つめあう二人の間を通り過ぎていく。
精霊祭を間近に控えた夜のこと。長く曖昧だった二人の関係が、大きく変わった。




