10:この人には傍にいてほしい(10)
三人で一緒に廊下を進みながら、メリッサはふと気付く。先程までの不安とか恐れといった感情が吹き飛んでいることに。
アシュードがいる。ディオもいる。この二人がいてくれるから、メリッサは前に進むことができている。
アシュードがこの魔術師団に来てくれるようになって良かった。ディオがここで暮らすことになって良かった。
誰かが傍にいてくれることのありがたさを噛み締める。「ひとり」じゃなくて、本当に助かった。
メリッサはアシュードの手の温もりを改めて感じ、顔を綻ばせた。
医務室に着くと、メリッサはすぐに師匠ヒューミリスの眠るベッドへと案内された。
「少し疲れが出たのでしょう」
医師はそう言って、「少し休めば大丈夫」とメリッサの肩をぽんと叩いた。その言葉にほっとして、メリッサは安堵の息を吐く。ベッドの隣の丸い椅子に座ると、師匠のしわくちゃな手を握った。
「……師匠、びっくりさせないでよ……」
師匠の手はカサカサしていて、少し冷たかった。メリッサは縋るようにぎゅっとその手を握り締め、額に当てる。祈るようなその姿に、ディオが不安そうにアシュードを見上げた。
アシュードは傍にあった椅子を持ってきて、メリッサの隣に座る。そして、不安そうな表情のディオを膝の上に乗せた。
しんと静まり返った医務室に、師匠ヒューミリスの穏やかな寝息が響く。メリッサもアシュードもディオも、その呼吸音をただ聞いていた。時折、窓から風が入り、白いカーテンを揺らす音が混じる。
どれくらいそうしていただろうか。不意に、師匠の手がぴくりと動いた。
「……メリッサ」
「師匠! やっと起きてくれた!」
師匠の長い髭がもごもごと動き、少し掠れた声でメリッサの名を呼んだ。メリッサはぱあっと顔を輝かせる。
「アシュードとディオもおるんじゃな。ふぉっふぉっ」
まだ調子の悪そうな顔色をしているくせに、妙に嬉しそうな調子で話す師匠。メリッサ、アシュード、ディオの顔を、眩しそうに目を細めて見つめてくる。
「医師を呼んでくる。あと、お腹がすいたんじゃないのか。何か軽く食べられるものを持ってきてやろう」
アシュードがディオを膝から下ろし、立ち上がった。ディオはアシュードのズボンをぎゅっと握って、顔を上げる。
「おれも、おてつだいする」
「ああ。頼りにしているぞ、ディオ」
「うん!」
ディオの頭をぐしゃぐしゃと撫でて、アシュードは笑う。ディオも紫色の髪の毛を乱したまま、照れ臭そうに笑った。
「あ、あたしも行くし」
メリッサが慌てて立ち上がろうとすると、それをアシュードは優しく押し止めた。
「メリッサは魔術師団長の傍に。すぐ戻るからな」
アシュードはメリッサの頭をさらりと撫でる。先程ディオにしたような感じではなく、まるで労わるような手つきだった。メリッサは思わず、アシュードに触れられた頭を隠すように手で押さえる。
小さなディオと手を繋いで、アシュードは医務室から出て行く。メリッサは、その後ろ姿をむず痒いような気持ちで見送った。
「……メリッサ、顔が真っ赤じゃな。耳まで赤くなっておる」
「ちょっと、暑いだけだし! ほら、今、夏だからだし!」
師匠が楽しそうにふぉっふぉっと笑う。メリッサは火照る頬をめいっぱい膨らませ、少し涙目になった。こんな顔、アシュードには絶対見られたくない。
「なあ、メリッサや」
「なに? 師匠」
師匠ヒューミリスは、ふう、と長い息をゆっくりと吐き出した。
「ワシももう年じゃ。そろそろ引退しようかのう」
「何言ってるの。少し疲れが出ただけ、大丈夫だってお医者さんも言ってたよ。全然弱気になることないし」
「いや、ワシには分かるんじゃ。もうすぐ、ワシの魔力は消える」
メリッサは紅い瞳を丸くして、師匠を見た。魔力が消えるということは、魔術師を卒業するということ。そうなった魔術師は、その先あまり長く生きられないと聞く。
「嫌! 嫌だよ、師匠! あたし、師匠がいなくなったら魔術師団になんていられないよ! こんなところ、あたし嫌いだもん!」
「そんな悲しいことを言うな、メリッサ。この魔術師団は、ワシの大切な家族のようなものなんじゃから」
師匠はゆっくりと上体を起こすと、しっかりした目でメリッサを見据えた。大事な話をする時に、師匠がいつもしている癖だ。メリッサは眉を下げて、師匠の様子を窺った。
「メリッサはもう立派な魔術師じゃ。ワシがいなくなってもしっかりやっていける。いつか、ワシの代わりに魔術師団を率いていけるよう、教えられることは全て教えた」
「……師匠」
「本音を言えば、もう少し一緒にいてやりたかったんじゃがな。……さすがにもう、無理そうじゃ」
急に目の前の師匠が、ただの小さな老人に見えた。メリッサはなんだか恐くなって、師匠の手に縋りつく。
「嫌だよ、置いていかないで。ひとりは、こわい……」
メリッサは小さく震えた。師匠を失ったら、どうすれば良いのだろう。
「メリッサはひとりなんかじゃない。アシュードもディオもいるじゃろう」
師匠ヒューミリスは、メリッサの手を優しく握り返す。メリッサは目を見開いて師匠を見る。師匠は穏やかな顔で、ゆっくりと頷いた。
「……メリッサが魔術師団の中でずっとひとりで頑張ってきたことは知っておる。皆と仲良くするのが苦手なことも、知っておったよ。……ワシがもっとしっかりしておれば、メリッサをここまで寂しがらせることもなかったんじゃが」
メリッサはふるふると首を振った。孤児だったメリッサを引き取って育ててくれたのは、他ならぬこの老人である。充分すぎるほど、可愛がってもらっていたと思う。意地を張って周りの人たちと仲良くしてこなかったのは、メリッサの歪んだ信条のせいだ。師匠は何も悪くない。
「師匠、あたし……」
そう言いかけた時、医師が顔を出した。
「師団長、目が覚めたんですね。良かった」
「おお、おぬしにも心配をかけたな。ふぉっふぉっ」
医師は師匠を丁寧に診察してくれる。メリッサはその様子を見ながら、師匠の偉大さをひしひしと感じていた。師匠はここの皆に慕われている。それは、とてもすごいことだと思った。
そうしている内に、アシュードとディオも戻ってきた。メリッサは二人を見ながら、改めて「ひとりじゃない」ということを噛み締めた。メリッサもいつか、師匠のように、皆と仲良くできる人間になれるだろうか。
「どうした、メリッサ。いつになく真剣な顔だな。……もしかして、この僕の素晴らしさに、今、気付いたのか!」
どこか斜め上の発想をして騒ぐアシュードに、冷ややかな目線を送る。何だろう、ついさっきまでアシュードに対して感じていた甘酸っぱい感情が一気に吹き飛んだ気がする。やはり、この男、残念な奴である。
「素晴らしいのは、アシュードじゃなくて師匠だし」
ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向くと、アシュードは残念そうに項垂れた。
「この僕の素晴らしさにまだ気付かない、だと……?」
「あしゅーど、おれはすばらしー? だとおもうよ。げんきだして」
素晴らしいという言葉がよく分かっていない様子のディオに慰められるアシュード。実に情けない二十七歳の姿であった。




