79.行き止まり
すっかり夜が更けた港町は、それでも疎らに人影があった。
何とか早く離れなくては、という一心で走っていると、必要最低限の物しか入っていないはずの背負い袋が、奇妙に重く感じられた。
すれ違う人の中には、ソフィアの切迫した様相に心配そうに振り返る者もいたが、今は誤魔化しの仮面を被れるほどの冷静さを保ってはいられなかった。
(どこへ向かえばいい? 町を出ればいい?)
息を切らせながら辿り着いた先は、クナートの南門だ。いつの間にかエルテナ神殿、そして神殿の管理する畑も通り過ぎてしまった様だ。
ここまで来て、ソフィアはハッとして足を止めた。――日が暮れて随分経つにも関わらず、南門に大勢の人々が集まっているのに気付いたのだ。人々は各々手にランタンを持ち、何やら話をしながら辺りを調査しているらしい。
「――が、……体」
「あの……が、――――」
途切れ途切れに聞こえる声に、ソフィアは身を隠してから息を殺して聞き耳を立てる。
「しかしまさか、この町に梟熊が出るなんてな」
「自警団のギル団長が言うには、こんな事初めてらしいぜ」
「マジか……勘弁してほしいな」
聞こえてきた会話に、ソフィアは息を飲んだ。
(町に妖魔が出たの……?!)
――全てを己に結び付けるつもりは無いが、嫌な予感が止まらない。とにかく町を離れなければ。せめて不穏分子の一つでも無くなれば、この町に降りかかる災厄を減らせるかもしれない。
(……南門は駄目だわ。あと、他にどこがあるかしら)
動揺する思考を「冷静になれ」と懸命に押さえつけながら、ソフィアは視線を巡らせた。クナートの町は南側に森、その向こうに街道が続く。反対に北側は港、そして海がある。東は街道の先にテアレムの村が、西は大橋を渡った向こう側に大きな街道がある。
(東は村がある。――じゃあ、西は? ……たしか、商業大国オークルがあるって言うけど、結構離れてるって言ってたわよね……)
――“オークルはこの町とは全然近くないよ。この大陸の西にある商業大国だね”
穏やかに笑いかける緑碧玉色。瞬間、胸にずきりと痛みが走り、ソフィアは困惑して己の胸元を右手で握りしめた。思いがけない動揺に、慌てて思考を払い除ける様に頭をぶんぶんと振った。
(オークルがここからずっと遠いなら、ひとまず西に向かうのが良いわ)
少なくとも、東にある村テアレムはここから半日程度しか距離が無い。迷っている時間が惜しい。
チラリと南門に集まる人影へ目を向けてから、ソフィアは音を立てない様に後ずさり、十分距離を取ってから踵を返して駆け出した。
* * * * * * * * * * * * * * *
――青白い月明かりの中、見慣れた大橋を越えて走る。
川縁の道を辿ると右手に馴染み深い智慧神ティラーダの神殿が見えた。頑強な鉄の門は隙間なくピッタリと締まり、外の人々を拒絶している様にも見える。――まるで今までの、そして今の自分の様だ、とふと考えてからソフィアは目を逸らした。口の中に苦いものが広がる。走り続けたせいで喉の奥が悲鳴を上げている。それでも足を止める訳にはいかなかった。まず、何より先にここから離れなくては、という思考がソフィアの心を捕えて離さない。
程なくして港町クナートの西門が見えてきた。馬車や商隊が通る門だけあって大きなものだ。普段であれば夕暮れ時以降は門は閉ざされており、守衛騎士が数人で門を守っている――はずだ。少なくともソフィアの知識では。
しかし、目の前の西門は大きく開かれており、思わずソフィアは足を止めて反射的に身を隠した。
西門では数人の男達が何やら言い争いをしていた。
「領主様へ急ぎ伝えなくてはならないのだと言っているだろう!!」
「いや、ですから、町に入るのは構いませんが、こんな夜分にそれは無理だと申し上げましたよね」
「火急の要件だと言っているだろう! 良いから、取次ぎを急いでくれ!」
「なんだ、どうした」
艶の無い灰色の髪を一つに束ねた長身の男が、言い争っていた男たちの間に割って入る。その彼の顔を見て、守護騎士の男性の一人がむっとした顔で反論を口にした。
「いえ、自警団には関係の無い事で……」
「火急の要件で、騎士団は動かないんだろう? ならば、自警団が出ても構わんだろ」
「しかしですね」
門を守っていた守護騎士は明らかに顔を顰めた。――同じ町を守る者ではあるが、騎士団と自警団は仲良しという訳ではない。突然割って入って来た自警団の男に鼻白む守護騎士の男を軽く一瞥してから、町の外から来たらしき男は灰色の髪の男の方へ向き直った。
「自警団でも構わない。とにかく手を貸してくれ」
「手? どういう事だ?」
「私はワーゼンの騎士オルソン」
「俺はこの町の自警団で団長を務めるギルバート・タウンゼントだ」
「団長か、それなら話しが早い。我が国の危機なのだ。とにかく来てくれ!」
「危機だと?」
面食らったギルバートと守護騎士は、思わず異口同音に鸚鵡返ししてから仲良く顔を見合わせた。それに構わず駆け込んできた男――ワーゼンの騎士オルソンと名乗った彼は食い気味に続けた。
「妖魔亜種の群れが」
「何だと?」
――ソフィアは生憎“ワーゼン”という単語は分からなかったが、それはクナートの西側から一番近い国の名前だ。芸術大国とも呼ばれ、吟遊詩人や画家が集まり、個性的な建造物や豊かな花々に溢れる美しい国だ。――だが、その反面、騎士は国王を守る少人数しかおらず、自警団など存在しない。冒険者も骨休めに観光に来る程度で、国の防御力はお世辞にも高いとは言えない。
それを知る男2人は各々表情を強張らせ、詳細をオルソンに乞うた。
「今朝、突然だ。突然、妖魔亜種と中級妖魔が群れを成して南西からなだれ込んできた。国王が直属の騎士団へ守りを指示したが、元々少ない人数を四方の門に分散させた事で数が圧倒的に足りない。だから、私を含め数名の者が近隣諸国にこうして助けを求めに走ったのだ」
「馬はどうした」
「途中で潰れたから置いて来た」
「そういう事ならなぜ早くそう言わない!」
「火急ではあるが、事を大きくしたくない。だから取次ぎをと……」
守護騎士とオルソンが再び言い争いになりかかるのを、自警団長が手で制した。
「こんな事してる場合じゃないだろ。あんたは早くオルソンを領主の元へ連れていけ。俺は自警団の連中を連れて先にワーゼンへ向かう」
「分かった」
「忝い」
団長の言葉に返答するとすぐに2人は走り出した。見送った団長自身もすぐに踵を返して走り出す。北区にある自警団の詰め所へ向かったのだろう。
開け放たれていた門は残っていた守護騎士の手によってすぐに閉められた。
事の成り行きを身を隠して見届けたソフィアは、ゆっくりと後ずさった。――その時、
「ソフィア!」
急に名を呼ばれ、飛び上がる程驚いたソフィアは反射的に逃げようと身を翻した。しかし、その腕を強く握られ、引き留められる。よろけて振り返る形になると、その相貌を目にした相手――黒髪を短く切ったツンツン頭の少年は吃驚した様に目を瞠ると共にみるみる顔を赤くした。対するソフィアは、少年が手加減の無く掴んでいる腕に痛みを感じ、僅かに顔を歪ませた。
「あっ ごめん!」
慌てた様な、聞き覚えの無い声に、思わず声の主を見る。全く見覚えが無いが、見るからに12~3歳の少年という相手にソフィアは面食らって黙り込んだ。
「あ! おれ、レックス!」
「……」
黙ったままのソフィアに、慌てた様にレックスは腕を掴んだまま早口で続けた。
「あーっと、あのさ、お前、シン兄に連れられて孤児院来ただろ? だ、だからさ、いなくなったから捜しに来たんだ!」
「え……」
――孤児院の子どもだ、と気付き、違った意味でソフィアは青褪めた。こんな夜中に、自分を追って来たと言う。
「あたしには構わないで。……早く孤児院に帰った方がいい」
「んな訳にいかねーよ。オースもセアラもすっげぇ心配してるし!」
掴まれた腕を解こうと身を引きながら帰宅を促しても、彼は聞く気が無いようだった。どうしたらいいか分からず、ソフィアは困惑した。自分より恐らく5~6歳は年下と思われる少年だが、体格はほぼ同じ――いや、彼の方が頭半分ほど背が高い。すらりと伸びた手足は健康そのもので、しなやかな筋肉がついている。どう見てもソフィアの力で振りほどけるような腕ではない。
「あたしは孤児院に住むわけじゃない。だから、手を離して……」
「それは分かんねーけど! と、とにかく、こんな夜中に一人になんかしてらんねーよ。一旦孤児院に戻ろうぜ」
「いえ、」
押し問答が始まりそうになったが、別の声で会話が中断された。
「逃げろ!! 妖魔だ――!!!」
ハッとして振り返ると同時に、西門が大きく軋み、片方の扉が大きな音を立てて倒れた。慌てふためきながらも、門を守る騎士達が抜刀し身構える。打ち破られた門の外に見たことも無い異形の者の影が見えた。反射的にソフィアはレックスへ向けて叫んだ。
「逃げて!」
「ソフィアも一緒に逃げるんだ! 来いって!」
「あたしはいいから! 逃げて!!」
「いいわけないだろ!!」
青褪めて腕を振りほどこうともがくソフィアに、負けじとレックスは語気を荒げた。そこへ、町の中央から自警団団長を先頭に十数名が走って来た。
「ギル団長!! あれ!!」
「妖魔亜種だ! 全員参戦するぞ!!」
言いながら、ギル団長は青白く発光する長剣を抜き一閃した。弧を描いた光が一直線に西門付近に立つ妖魔の首を撥ねる。レックスが興奮した様に「ギル団長だ!! あれ、魔剣なんだぜ!!」と場違いな弾んだ声を上げた。その声に気付いたギルは一瞬ソフィア達へ目を向けて虚を突かれたような顔をした。――なんでこんなところに子どもが、と表情が語っている。それはそうだろう。妖魔はともかく、今はかなり遅い時間だ。単純に子どもが街道へ続く門の付近にいる様な時間帯ではない。
「おいおい、こんな所でままごとしている時間じゃないぞ! 早く家に帰れ!」
団長ではなく、他の自警団の一人が弓に矢を番えながら揶揄う様に声を飛ばした。「違うってままごとじゃないって!」と目くじらを立てて言い返すレックスの手の力が緩んだその時、ソフィアは手を振りほどいた。
「あっ」
レックスの顔に「しまった」と書かれている。己の失態に青褪めるその表情に、ソフィアの胸もチクリと痛んだ。しかし、気付かなかった振りをして身を翻して地を蹴った。青色を帯びた銀の髪が流れる様に広がり、月明かりを反射して光を帯びた。その幻想的な美しさにレックスも、その場にいた人々も、ほんの一瞬、緊張感を忘れて目を奪われた。
『グォアァァァァァアアアアアアア!!!』
地鳴りの様な悍ましい声がその僅かな間を切り裂いた。レックスから距離を取る為に街道に走り出たソフィアはぎょっとして声の方を向く。――そして、目が合った。
『アァァァァァ!!!』
妖魔亜種達の鈍い金色の目が血走り、咆哮を上げ――真っ直ぐソフィアへ向かって襲い掛かって来た。驚愕のあまり、悲鳴を上げる事も無くソフィアは声を失ってその場に立ち竦んだ。そして、その場にいる者全てが、幼い少女を妖魔の爪が切り裂く未来が脳裏に過り、声を失った。
しかし、直後にその未来予想が切り裂かれた。
「――“智慧神ティラーダよ、その叡智を冒涜せしめんとする愚かなる者どもへ 我が手に宿り鉄槌を放て”!!」
鋭いテノールに妖魔の咆哮が重なる――瞬時、ソフィアの左右をすり抜け、背後から白い光の刃が光速で幾つも閃く。それは彼女へ襲い掛かろうとしていた妖魔達の先頭数体をなぎ倒した。
驚いたまま呆然とするソフィアの身体が素早く、そして柔らかく後方へ引かれ、場所を入れ替わる様に彼女と妖魔の間に立った茶色の髪の青年が棍棒を身構えた。――深緑色の外套を羽織るその大きな背中を見た途端、心は信じられない程に震え、訳も分からず涙が滲みそうになり、ソフィアは激しく動揺したまま硬直した。
「シン兄!!」
「やぁ、レックス。こんな夜中に外を出歩いちゃダメだよ」
驚きの声を上げるレックスにチラリと目を向け、登場した半妖精の青年は少しだけ悪戯っぽく笑ってみせた。それから、ソフィアを庇う様に立ちながら眼前の妖魔へ棍棒を振り抜いた。武器の重さとシンの腕力によって、妖魔は小石の様に真横に吹っ飛んだ。気付いた自警団長が青白く輝く刀身を振るいながら声を上げる。
「助太刀痛み入る!」
「こっちは任せて」
言いながらシンは肩幅よりやや広く地面に足を置き、棍棒を真横に構える。
「絶対に通さない」
静かに放たれた殺気に妖魔が怯む。
「“風精霊! 我が言の葉を刃と成し切り裂け!”」
「“雷撃術式展開、速射”」
朗らかなソプラノと低い美声が重なった直後、無数の鎌鼬と細い稲妻が妖魔に降り注ぐ。鈍い叫び声が地鳴りの様に湧き起こる。
「サンディはソフィアさんを」
「おう! 任せろ!」
「駄目!」
こちらへやってこようとするアレクを、ソフィアは反射的に鋭く制した。――ソフィアは普段、殆ど声を荒げる事はない。だからこそアレクは驚いて足を止めた。違和感に気付いたシンが背後を肩越しに振り返り「どうしたの?」と声を掛けようとしたその前に、ソフィアはシンとアレクから距離を取るべく全力で駆け出した。目の端に、今までソフィアがいた場所へ向かうアレクに、気付かぬまま襲い掛かろうとする妖魔が飛び込んでくる。考えるより早く、ソフィアの口は動いた。
「こっちよ!」
決して大きな声では無かったはずだが、呼応するように一斉に妖魔達が彼女の後を追わんと身体の向きを変えた。
(――やっぱり!)
疑いは確信に変わった。ソフィアは妖魔の“目的”では無いかもしれない。だが、彼女の存在に気付いた妖魔は標的をソフィア一点に絞る。南の森でも、テアレムでも、同じだった。
「させない!!」
シンが叫ぶと同時に、ソフィアの方へ向かおうとしている妖魔の側頭部に棍棒を振り下ろす。鈍い音を残して一撃を受けた妖魔が数体を巻き添えにして倒れた。一斉に動いた妖魔に唖然としていた自警団員、守護騎士達だったが、その音に我に返ると再び各々の武器を振るい始めた。そうなると、ソフィアへ向かおうとしていた妖魔達も糸が切れた様にバラバラになり、己を攻撃する人間達へ向き直ると爪や牙をぎらつかせながら反撃し始めた。
その様子を横目でチラリと見てから、アレクはソフィアへ駆け寄りながら心配そうに眉を寄せた。
「一体どうしたんだ、ソフィア」
血の気が引いたソフィアの顔は紙のように白く、酷く動揺していた。その周りをいくつもの精霊が一定の距離を保ちながら尾を引くように漂っている。――単に心の乱れによる精霊の混乱ではない。見慣れない光景にアレクは軽く目を眇めた。
「だ、駄目よ……本当に、近寄らないで」
震える声でアレクに言うソフィアの周りの精霊達はより一層動きを大きくした。それはまるで、周囲を、またはソフィアを警戒する様な、様子を見る様な――あるいは心配して様子を窺う様な、奇妙な動きで、凄腕の精霊使いであるアレクも見た事がない動きだ。混乱を表に出さない様に、明るく笑顔を浮かべてアレクは「馬鹿言ってんじゃねーよ!」と言い放った。
「とにかく、ここはあいつらに任せて私達は一旦孤児院に戻るぞ」
「あたし行かない」
「何言ってんだよ、」
「あたし」
「良いからホラ! おい、レックス! いるんだろ!」
かなり強引にソフィアの腕を取ると、アレクはまるでそこに彼がいるのを確信しているかの様にある一方を見た。果たしてそこには、身の置き所を探して立ち尽くしていた少年がおり、突然向けられた言葉にびくりと肩を震わせた。
「ご、ごめん、おれ……」
「話は後だ!」
ソフィアの腕を引いて、もう片手で近付いてきたレックスの手を取る。それから彼女は夫へ顔を向けて声を掛けた。
「キャロル、頼む!」
「承知」
低く静かに応じる声。彼らの意図をソフィアが気付く直前に、キャロルは言葉を紡いだ。
「――“転移術式展開”」
* * * * * * * * * * * * * * *
「レックス……!!」
「ああ、良かった――!!」
ハッと顔を上げると、レックスに女性2人が駆け寄っていた。先ほどの土煙の舞う西門――とは、全く趣の異なる光景に、ソフィアは困惑してよろめいた。
「レックスぅ」
「ばかー!!」
黒髪を短く切り揃えた少女と錆色の髪を後ろで一つに束ねている少年、2人もレックスへ駆け寄り、泣きじゃくりながら抱きついた。
「ご、ごめん……あ、でもホラ、おれちゃんと連れて帰っただろ!」
慌てふためきつつ、レックスは言いながらソフィアの方へ顔を向けた。その言葉につられるようにして、少年と少女も立ち竦んだままの彼女へ顔を向けて安堵の表情を浮かべた。――逆に、固い声を上げたのは、先ほどレックスを迎えた女性だった。困惑した様な強張った顔で黒い双眸をソフィアに向ける。
「あなた……どうして」
「あ、あー、ミア、この子はちょっと一時的にうちに預かって……っだよな?!」
孤児院の扉の前に立ち、再会を見守っていた赤みがかった茶色に僅かに白髪の混じった頭髪の男性――エルシオン院長が慌ててフォローらしき言葉を言いながら、同意を求める様にソフィアを見て……やや面食らったような顔をして「え、大丈夫なのシン」と意味不明な事を呟いた。
「うちに……って、孤児院にか?!」
目じりを釣り上げて淡い金の長い髪を持つ妖精の女性がキッとソフィアを睨め付けた。そのあまりの勢いに、思わず院長はうんうんと頷いた。
「まさか、シンが連れてきたのか?」
「あ、ああ、その、まぁ、なんだ……そうだな」
「あ~や~つ~めぇ~~~~~」
更に眦を釣り上げ、地を這うような声を発しつつ妖精の女性――シェラはわなわなと拳を震わせた。意識が無かったソフィアは、状況が全く分からない。しかし、予想通りシンが孤児院に自分を連れて来ていたのは分かった。レックスという少年は孤児院の子どもで、だからソフィアの事を知っていたのだろう。そして、孤児院から消えたソフィアを責任感と厚意で捜しに来てくれていたのだろう。
「あの、……あたし、冒険者の宿を取ってるので、帰る……りま、す」
「何じゃと……? この期に及んで、まだこちらの手を煩わせるつもりか?」
顔を顰め、シェラは冷えた声で尋ねた。そんな彼女へ少しだけ目を向けると、栗色の長い髪の女性――ミアもソフィアへ顔を向けた。
「お帰りになるのは構いませんが、このままではシンさんが戻られた時に心配します。せめて、シンさんが帰ってくるまでお待ち頂けませんか?」
「……いえ」
「ですが、シンさんが孤児院に貴女を連れていらしてたんですよね? それなのに、黙っていなくなったら心配してしまいます」
「さっき、会ったから」
「なら、尚更です。――先に貴女だけ帰ってきて、いなくなって、シンさんが戻ってきてそれを知ったら……シンさんが可哀想」
――“可哀想”。その言葉に、ソフィアは僅かに表情を強張らせた。その機微に気付かないまま、ミアは己の胸に両手を当てて俯いた。
「以前お見掛けした際も、シンさんは貴女にとても心を砕かれていました。――あまり心配を掛けないであげて下さい」
心を打たれたらしいシェラが、吐息交じりに「ほんに優しい子じゃのう」とミアに柔らかい眼差しを向ける。それからジロリとソフィアを睨む。
「良いか、聞いた通りじゃ。シンばかりか、ミアにまで気苦労を掛けさせるな。私としては、人の厚意を無碍にする様な者がどこへ行こうと野垂れ死のうと知った事ではないが、2人は度が過ぎる程のお人好しじゃ。おぬしに何かあれば間違いなく自分を責めるじゃろう。――良いか、自分勝手な行動で2人に迷惑を掛けるな」
苛立ちを抑え込んだ様な硬質な声音で言い放たれたシェラの言葉は、ソフィアの足をその場に縫い付けるには十分な強さを持っていた。




