ある海賊の夜明け 10
■10
ピルカは湿気た床に寝そべりながら目を閉じていた。
意識まで眠っているわけではない。頭のどこかでは警戒心が残っていて、ほんのかすかでも物音がするたびにそれが一段階強くなる。
──それにしても、また牢屋だ。
ピルカはすこし前も──こんな旧式で陰気ではなかったが──スヴェトラの拘置所にいた。海賊として捕まったのだ。へまをやったわけではない。わけがわからないことに巻き込まれ、気づけばスヴェトラの軍に捕まっていた。
船で航行していたときに巻き込まれた爆発……あれはなんだったのだろう。結局正体もわからないままだったが、軍に捕まったのはピルカひとりだった。要するにあとの海賊仲間はみんな死んだのだ。あの爆発で。ピルカだけが運よく生き残った。そして生きて拘置所を出られただけでもかなりの幸運だが、結局はこうしてじめじめした牢屋に戻ってきた。
途中、ミルを裏切って逃げ出す機会はいくらでもあった。
そもそも拘置所を出て自由になった時点でミルに従う理由はなにもなかった。
いままでの自分ならそこでミルを裏切り、さっさと海賊稼業に戻っていただろう。船と仲間を失っても、命を失わないかぎりはいくらでもやり直せる。
しかし、いまは──らしくない、と自分でも思う。王女に肩入れするなんて。でもまあ、人生そんなものかもしれないとも思う。自分も子どもではない。いつまでも自分だけのためには生きていけない。もちろん自分を最優先させるが、その範囲で他人のために動いてもいいじゃないか、と思えるようになっている。
それにミルは、すこし自分と似ているような気がした。
もちろん立場も肩書きもちがうが──たったひとつの目的のためにだけ動いている、というところは、自分と共通しているような気がする。だから手を貸してやりたくなるのか。過去の自分が他人に助けてもらったように。自分に与えられた親切を、他人に返しているわけだ。
まあいいさ。ピルカは寝返りを打った。世のなか、なるようにしかならない。とくに牢屋に入れられているときは、寝るくらいしかやることもない。ピルカは眠りに落ちる。警戒心は殺さないまま。
*
ミシマが大したやつではないというのはアスターの本音だった。
あいつは、死に怯えている。死にたくないのだ。人間なら当たり前のことだ。人間はだれしも死を恐れる。しかし。
「しかしまあ、こんな地下牢がよく残ってたもんだな。いつ崩れてもおかしくなさそうだが」
じめじめとした、いかにもという雰囲気の地下牢だった。
おそらく古い時代は政治犯が投獄されていたのだろう。入ったら最後、死体以外で出ていくことは絶対にない犯罪者たち。それにふさわしい地下牢ではある。
アスターはちらりと向かいの牢を見た。
真向いはミルで、そのとなりがピルカ。
ミルはちょうど牢の真ん中に座り、両手を合わせ、祈りをささげていた。どんな祈りなのかは、アスターには知る由もない。
ピルカはといえば、アスターと同じように硬い石の地面に寝転がり、眠っているようだった。さすがに肝が据わっている。じたばたしても仕方ない、というわけだ。
ミルの無念は、アスターにもわかる。
目の前に殺したいほど憎い男がいて、しかもそいつを殺せなかった。悔しいだろう。自分が処刑されるにしても、せめてあの男を殺してから処刑されたいと思っているはずだ。いまでも。それを叶えるチャンスがあるかどうか。
ミシマという男は、たしかに残虐で冷酷だが、しかし所詮はそれだけだ。ただの悪党にすぎない。
やはり運命などというものはないのかもしれない、とアスターも昼寝するつもりで目を閉じたが、すぐミルの悲鳴にも似た声で起き上がった。
「あなたは──ジンライ──?」
ミルが目を見開いている。
空中の一点をじっと見つめる瞳──その先にはなにもない。ように見える。ふつうの人間には。しかしアスターには、そこにぼんやりとした人影のようなものが見えた。
存在するはずのない、人間ではない高度な知性体。
神と呼ばれるものたちのひとり。ジンライ。
「おまえは、まだ死ぬべき定めではない」
そのぼんやりとした影は言った。
「ジンライ──あなたが、本当に? でも、どうして」
「祈りが通じたのだ。おまえを助けよう」
「えらそうなんだよな、いちいち」
アスターが愚痴るように言うと、その人影はゆっくり振り返った。表情まではわからないが、おそらく笑っている。アスターにはそれがわかる。
「久しいな、アスター。何百年ぶりだ?」
「知るか。こっちは人間として生きてんだよ。おまえの時間感覚といっしょにするな」
「変わっていないな、おまえは」
「え──し、知り合い、なのですか?」
ミルが戸惑いながら人影とアスターを交互に見た。アスターは牢のなかで肩をすくめる。
「まあ、ちょっとしたな。知り合いってほどの仲でもない」
「この男は我々の仲間だ」と人影。「元、だが。いまは我々とはちがう存在になっている。しかし力は変わらないはずだ。おまえは、相変わらず怠けているのだな、アスター」
「だれが怠けてるって? おまえよりよっぽど働いてるっつーの」
「おまえの力があればこのような牢はすぐに出られるはずだ」
「ほっときゃ出られるよ。ここで処刑されるわけじゃないだろうからな。ほっときゃ出られるのに、わざわざ苦労して出る必要もない」
「ふむ。人間になっても変わらんな。まあ、よい。アスター、おまえの仕事だ。あの男を殺せ。ミシマは、人間ではない」
「……やっぱりそうか。だが、あいつは小物だぜ」
「人間の意識が勝っているのだろう。おまえとちがい、やつは人間として生きることに慣れていない。しかし完全に覚醒しては厄介だ。その前に始末する必要がある。人間としてのミシマも、それを支配しているモノも」
「ジンライ、どういうことなのですか。あなたは本当に神なのですか?」
「娘よ。神などというものは存在しない。信じることは自由だが、私は神ではないし、神と呼ばれるべきものはこの宇宙のどこにもいない。私は私だ。人間とは異なる生命体であり、知性体でもある。ただそれだけだ」
人影がうっすらと光を帯びる。その光が強くなっていく。ミルは目を細めた。まるで爆発でも起きたかのように鋭い光が霧散し、また薄闇に戻った。
人影は、すでにどこにもなかった。
「その銃を使え。ミシマを討て、スヴェトラの王女よ」
その声だけが、まるで風鳴りのように冷たい牢獄を吹き抜けていった。
ミルははっとわれに返ったようにあたりを見回し、それから自分の手元にある銃を確認する。外見はなにも変わっていない。弾を撃ち尽くしたはずの、銃。
「怠けてる、か。よく言うぜ。ひとに働かせて、自分は見てるだけのくせにな」
アスターは牢のなかで立ち上がり、うーんと伸びをした。
やはり、仕事のようだった。いつまでも牢のなかでのんびりしているわけにはいかないのだ。不本意だが、働かなければ自分の存在意義を失う。
「……いまのは本当に神だったの? それとも、わたしは幻を見たの?」
ミルはぼんやりした目つきだった。いま起こった出来事が信じられないというような。それも無理はない。
「幻でもなんでもいいさ。自分なりに納得する答えを探せばいい。でもまあ、幻だと思うのがいちばん手っ取り早い。ピルカはなにも見てないし、聞いてもないだろう」
「あなたは? あなたはまるで……友だちとしゃべるみたいに、ジンライと会話してたわ。あなたは、何者なの?」
「アスター。運び屋さ。元軍人の。ひとにはみんな過去がある。いろんな過去がね。おれにもいろんな過去があるってだけのこと──とにかく、ここを出るか。ただ問題はどうやって出るかだな。あんまりめんどくさいことは……ん?」
かすかなモーター音。
地下牢の奥から響いてくるようだった。
しばらくはなんの音かわからなかったが、やがて男とも女とも取れない合成音が聞こえてきた。
「ミルさま──そのお声は、ミルさまではありませんか?」
「ベータ! ベータ、どうしてこんなところに──」
通路のぼんやりとした明かりの下へ出てきたのは、白い箱型のロボットだった。
ロボットはゆっくりとミルが入っている牢に近づき、かたかたと体を揺らす。まるで歓喜の涙を流しているように。
「このようなところに投獄されておいでだったとは──おいたわしや──」
「ベータこそ、どうして地下牢に?」
「わたくしはクーデターなど認めません。新たな国王を名乗ったミシマ大尉を拒否したのです。それでここへ──破壊されなかっただけでも幸いでしたが──しかしミルさままで投獄されておいでとは」
「ミル、なんだ、この機械は?」
「な、なにをおっしゃいますか、この男は。王女さまに、ミルさまになんという口の利き方を──」
「いいの、ベータ──アスター、これは執事ロボットのベータ。わたしに勉強を教えてくれたり、いっしょに遊んでくれたり……わたしの大切な家族よ。お父さまたちといっしょに壊されてしまったと思ってた」
「あの日はちょうど定期整備の日だったのです。わたくしが国王陛下のおそばにいれば、こんなことには──」
「ベータ。わたしは、まだやらなくちゃいけないことがあるの。この鍵を開けられる?」
「お任せを。このような旧式の鍵など、わたくしにかかればほんの朝飯前でございます」
「飯なんか食わねーだろ、機械なんだから」いつの間にか起きていたらしい、ピルカ。
「……ミルさま、この見るからに粗暴な女性は?」
「うるせー、見るからに石頭のくせに」
「たしかにわたくしの頭部はそこらの岩石には負けませんが」
「そういうことじゃねーっての。そもそも頭なんかねーだろ、おまえ」
「まったく粗暴だ。これではミルさまに悪影響を与えかねません」
嘆くようにベータは言って、その箱型の胴体から作業腕を伸ばした。
人間の指にも似たソフト素材の作業腕だったが、その先端がさらに開き、針のように細い金属のアームが伸びる。それを鍵穴に差し込むと、鉄格子の鍵はあっという間に開いた。
「おお、やるじゃないか、ロボット。こっちの鍵も頼む」
「わたくしにはベータという名前があります。さらに言えばわたくしは王族に仕える身でありまして、どこの馬の骨かもわからないあなたの命令に従う理由は──」
「ベータ、アスターとピルカの鍵も開けて。ふたりが必要なの」
「ミルさまのご命令とあれば、喜んで」
「……なーんか気に食わないんだよなあ」
しかしここにベータが押し込められていたのは幸いだった。
幸い、か。アスターは鉄格子を押し開け、外に出ながら、その箱型のロボットを見下ろす。偶然ではないだろう。何者かが導いているのだ。まったく。ここまでするなら自分でなんとかすればいいものを。そうできない理由はアスターにもよくわかっているが、しかし実際に動かなければならない身としては愚痴を言いたくもなる。
ピルカの牢も開けられ、三人は無事外へ出る。
ミルはしっかり銃を持ち、アスターとピルカを見た。
「……ふたりとも、まだ協力してくれる?」
「おれはまだ褒美をもらってない。ただ働きはごめんだぜ」
「ま、ここまできたらな。適当に逃げ出せそうな機会があれば逃げ出すかもしれねーけど」
「とか言って、ほんとはミルが心配なくせに」
「うるせーよばーか」
「ミル、行け」
アスターは言った。
「きみが終わらせるんだ。おれたちはその道を作る。最後の仕上げはきみの仕事だ」
ミルはうなずいた。覚悟を持って。
自分は正義の味方でも、悲劇の王族でもない。
おそらく、ただひとりの復讐者なのだ。
ミルは階段を上がった。その先に扉がある。扉の前には兵士が待ち受けているだろう。アスターがミルの陰からそっと前に出て、一気に扉を開いた。
ミルにわかったのは、兵士が驚いた顔をした、ということだけだった。
その一瞬のうちにアスターは兵士との距離を詰め、巻きつくように兵士の首に腕を回し、地下牢への階段に引きずり込んでいた。アスターは不気味な笑い声を上げながらそのまま兵士を地下牢へ連れていき、投獄する。
「そのうちだれかが助けてくれるだろう。しばらくここで昼寝でもしといてくれ」
廊下には、ほかの兵士はいなかった。三人と一体は明るい廊下に出て、左右を見回す。
「あたしは向こうに行くぜ。騒ぎを起こして、兵士を引きつける」
「危険よ、ピルカ。そんなことしなくても──」
「さっきは罠だったんだ。わざと兵士を排除して、あの部屋まであたしたちを導いた。今回はそうじゃない。兵士はうじゃうじゃいるぜ。全員で移動してもどうせすぐに見つかる。ま、大丈夫さ。死ぬ前に逃げる。な、ロボット?」
「なぜわたくしが?」
「いいじゃねーか、仲よくしようぜ──ミル、おまえはアスターと行け。こいつはたぶん役に立つ」
「……無理しないでね、ピルカ」
「なんだよ、あたしとおまえは仲よし姉妹かなんかだったか?」ピルカは笑った。「おまえは王女、あたしは女海賊だ。そういうことだよ。よし、ロボット、ひと暴れしようぜ」
「ですからなぜわたくしが……まあミルさまのためなら仕方ありませんね。暴力はなんの解決にもならないとは思いますが、わたくしも腕にはすこし覚えがあります。たまにはよいでしょう」
「足引っ張ったらショートさせるからな」
「あなたこそ、わたくしの邪魔はしないでいただきたい。巻き添えを食っても知りませんぞ」
「……うーん、意外といいコンビってやつか」
ミルとアスターは歩いていくふたりを見送り、それから近くの部屋のなかに隠れた。
しばらく息をひそめると、すぐ前の廊下をばたばたと何人かが走っていく音が聞こえる。どうやらピルカとベータが兵士を引きつけはじめたらしい。ふたりは顔を見合わせ、うなずき、部屋を出た。
ミシマ。必ず、復讐してやる。




