◆8月のある日 今日は宵の宮
盛夏の熱が夜陰に溶け出して、絡みつくような空気に化けて僕の首筋を撫でてゆく。
西に連なる山の稜線に僅かな光を残し、空は群青色に染まっていた。境界の曖昧になった空と森と水田は、まるで暗い海のようだ。
その海を貫く一本道を歩く僕の耳に、カラリ、コロリという涼やかな音が聞えてくる。
それは僕の隣を歩くユウナの下駄が立てる音だ。
――今日は宵の宮。
村の豊糧神社で行われるお祭りで、僕達にとっては毎年楽しみにしている夏の恒例行事のひとつだ。
お祭りというだけあって、神社の敷地には提灯が灯され、神楽の音が響く。そして少ないながらも屋台が並び、いつもは静謐な場所は美味しそうな匂いと笑い声で満たされる。
それは「神社のお宮さん」と呼んで、小さいころから楽しみにしている、神社の小さな夏祭りだ。
宵の宮は、毎年8月のはじめに執り行われる例大祭の「前夜祭」のようなもので、神事が無事に執り行われるようにと捧げるものだ……なんてことを知ったのは、つい最近の事だ。
「――『松迎えの舞』いに『苧環の舞』『注連縄切の舞』に『権現の舞』――えとえと、ほかにもあるのですけれど、私、とにかく神楽を舞いますから! アキラくんもユウナちゃんも皆で見に来てくださいね!」
夏休みに入る前、クラス委員長のミカリさんは僕達に自分が舞う神楽を見に来るようにと瞳を輝かせて言った。少しテンションが高めで、いつもの様子とは違うミカリさんは、両手の拳をグーに握って、ぶんぶんと振っていた。
「も、もちろんですっ!」
「アキラ何故に敬礼……」
ユウナが僕にツッコミを入れるけれど、ミカリさんに言われるまでもなく、祭りには毎年行くわけで、今年はなおさら見逃すつもりなんて無い。
ミカリさんの巫女さん姿や神楽装束、麗しいその姿を目にすることが出来るだけでも価値はあるわけで。
つまるところ、夏祭り自体が楽しみである事は、高校生になった今でも変わらない。
「あ、見えてきたよ」
ユウナが弾んだ声で指を指す方に、明るく輝く場所が見えた。
「お……、島だ」
「うん、なんだか不思議だね」
いつもよりもすこし念入りに結わえられたツインテールに髪飾り。そして黄色いひまわりみたいな明るい色合いの浴衣姿のユウナはいつもと少し違って見えた。
僕も今日は浴衣なんかを着て来たけれど、二人でこうして並んで歩いているとまるで……その……、兄妹みたいだろうか?
僕達の目の前に広がるのは、青黒い田んぼの海原の向うに見える『島』だった。島だけに明かりが灯され、暗い中にあってまるで浮かんでいるようにみえた。
島とはとまり、田んぼの中にそびえる小高い山の事だ。
山といっても野球場程の小山なのだけれど、それ全体が頂上に本殿を持つ豊糧神社の敷地になっている。
頂上へと向かう石段の灯篭には明かりが灯されていて、杉林の間からチラチラと温かみのある明かりが揺らめいている。麓のほうはまるで船着場のように煌々と明るく、立ち並んだ屋台の列に人々の小さな影が吸い込まれて行く。
「行こう! マーガレットさんやミナトが待ってる」
「うん」
思わずテンションの上がった僕は、少しだけ足を速めて進もうとして、けれどすぐに足を止めた。
「ユウ、……動きを封じられたポケモソみたいだな」
「うぅ、確かに走れないし、動けないけどさっ」
ユウナが半笑いでぷりっと頬を膨らませる。
慣れない下駄に浴衣では、いつもの機動性を発揮できないらしい。
◇
いつもは静かな神社の境内には、色とりどりの屋台が軒を連ね、多くの多くの人たちで賑わっている。
親子連れに中学生や見慣れたクラスメイトが何人か、それぞれと挨拶を交わしおしゃべりをして盛り上がる。
神社の麓には駐車場のスペースを兼ねた背の高い樹齢数百年の杉の木に囲まれた広場があって、10数の屋台が並んでいた。
節電なんてお構いなしに灯された裸電球の光が暖かい。
「ね、アキラ! 私、あと何食べてない!?」
ユウナがタコ焼きをモキュモキュと頬張りながら、にきょろきょろとあたりを伺う。
「本気で全部制覇する気かよ……?」
「年に一度なのよ? 満喫しなきゃ!」
色い光で柔らかく照らされたユウナの見慣れた笑顔おを、僕は呆れ気味に眺めている。
リスのようにモゴモゴ頬を膨らませて、なんだかとても幸せそうだ。
フランクフルト、お好み焼き、焼きそばにたこ焼きと、どんだけ食べたんだか。
「あ、ほっぺに青のり発見、……女子力2低下」
「な、なによぅ!?」
頬を指さすと、顔を赤くしてゴシゴシと浴衣の袖で擦る。
ちなみにそれは僕の浴衣の袖だけど、どういうことだろうか?
新調したというユウナの浴衣に、いつもとすこし違う雰囲気でなんだか大人びて見えた。可愛いな……なんて思ったのは一瞬の気の迷いだったようで、屋台の食べ物は片っ端から食い倒し、祭というよりは栄養補給に来ているとしか思えない。
タコ焼きは一粒貰ったけれど、それ以外はペロリと平らげてしまった。今度はフラッペ氷に狙いを定めているようで、年頃の女子としてはその……いろいろと大丈夫だろうか?
「アキラ先輩! 射的やりましょうよ!」
湊が腕をつかんでひっぱる。くりくりとした表情が可愛い湊は一つ年下の僕の弟分だ。
屋台を歩く人の密度は高くって、どうしたってみんなの距離は近くなる。
「いいね! 行こう!」
「ヘイ! ミナトはガンシューティングゲェム下手クソネー! アキラ先輩、後ろから……抱きしめて指導するネ!」
保護者のように同行していたマーガレットさんが親指を立てる。前言撤回、そんな腐った発言をする保護者がいてたまるか。
「女の子相手にならやってもいいけどね!?」
そういうシュチュエーションは憧れるけど、男子相手にはやんないぞ。ていうかミナトも「えー」ってなんだ?
米国製腐女子の本性を現したマーガレットさんが、僕らのやり取りを楽しそうに眺めている。
桜色の浴衣が、青い瞳と金髪に意外とマッチしているし、周囲の注目度も高いようだ。ミナトくんの家にホームステイ中のマーガレットさんは、生で体験する真の日本の伝御文化に興味津々といった様子だ。
いつもは蝉時雨でむせ返る夏の神社は、夜の帳の中で賑やかな声と、いろいろな匂いに包まれている。
例大祭は昼間の神輿行列と、夜の神楽奉納がある。夜の祭儀、つまり宵の宮の時間はとても雅な雰囲気で、一番楽しくてわくわくする。
もう少しでミカリさんの舞う神楽も始まるし、射的で遊んだ後は神社の石段を登り、本殿の神楽舞台に足を運ぼう。
暗い石段を登るのは、すこしドキドキして冒険みたいだし、闇の世界へと続くみたいい鬱蒼とした杉林のトンネルを通り抜けると、やがて山頂の本殿へとたどり着く。。
そこは、赤い鳥居があって、晴れと穢れを隔てる結界として機能しているのだとか。
そこから先は聖なる異界――
赤々と焚かれたかがり火の明かりが舞台を照らし、火の粉がチリチリと天に昇って行く。
舞台の周囲には、熱に絆されたような顔をした村人達が、雅楽の音色と舞妓の動きに酔いしれている――。
けれど。
密やかな熱を帯びた祭りが過ぎると、夏の終わりへと向かって行く。
それは昔から変わらない僕の勝手な感覚かもしれない。
そういえば、ユウナとここに来たのは何度目だろう?
小さい頃は手を繋いで、家族みたいに一緒にそぞろ歩いたっけ……。
なんてことをぼんやり考えて、そっと汗ばんだ手のひらを夜風にさらす。
と、不意に小さな声でユウナが僕を呼び止めた。
「アキラ、まって……」
ユウナが、ついと僕の袖を引く。
「ん? どうしたん?」
「ちょっと痛くて……」
笑顔だけれど、少し困ったみたいに眉をまげて小さく声をこぼす。
「痛いって……お腹!? だからいくらなんでも食いすぎだって!」
心配と腹立たしさの混ざった気持ちがこみ上げてきて、思わず声をあげる。
「ちち、ちがうわよ! 足が、下駄の鼻緒があわなくって」
「あ……、足ね? なんだ……」
「ひどいー!? なんだって何よー。もう」
ぷく、と膨れる。
あはは、と苦笑で誤魔化しながら視線を落としてみると、確かに足の指の間が少し赤くなっていた。
新品の浴衣に合わせて買ったという、赤い鼻緒の下駄が合わなかったんだろう。
「痛い?」
「うん、少し。だから……その……、手かして!」
「え? あ、うん」
柔らかくて暖かい指先がぎゅっ、と僕の手を掴んだ。
自然と密着する腕と、肩と、胸と……。
――え、ちょっ……!? でも……。
頼られているという感覚に、思わず鼓動が早まって、周囲の音が遠くなる。
「アキラがいてくれてよかった」
「人を杖代わりみたいに言うな」
「えへへ」
甘いお風呂上りの髪の香りに暖かい感触に、もうなんだか自分の声が遠く聞えていた。
それでも僕はユウナが人ごみで転ばないようにと、小さな手のひらをしっかりと握って歩き出した。
それは――夏の終わりの始まりの夜のこと。
【◆8月のはじまり 今日は宵の宮 了】
【さくしゃより】
えー、夏本番ですね。暑いですがお体は大丈夫でしょうか?
「宵の宮」は地方や神社によって呼び名も時期も異なります。
その多くは例大祭の前夜祭だったり、混ぜこぜだったり様々です。
私の住む東北の片田舎を例にしているので、そこはご容赦願います。




