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エリスの聖杯  作者: 常磐くじら
本編
99/171

幕間(ショシャンナ3)

 

 新たな潜伏先は王宮の目と鼻の先だった。

 祭りでも開催できそうな広場の一画にある施設の地下。そこには洞窟のようにいくつもの通路があり、その中の一つに鉄格子が嵌められた岩肌の牢獄があった。

 おそらく地上部分は博物館か何かだろう。近くには役人が出入りする建物があり、人通りの多さにショシャンナは不安になったが、サルバドルは相変わらずあっけらかんとしている。



「あなた、お名前は?」

 場違いに明るい声が半円アーチ型の岩壁にぶつかり反響する。

 この人質も、王子に負けず劣らず厄介だった。それとも人質とは皆こんな風に厄介なものなのだろうか。ショシャンナが知らないだけで。

「なら、ルチアが決めてもよろしいかしら? メラニー? サーラ? どれもしっくりきませんわね。ああ、そうですわ―――()()()()()()

 ぎくりとショシャンナの肩が跳ね上がる。

「正解かしら?」

 少女の瞳がいたずらっぽく輝いた。そこでようやく幌馬車で出会った時にサルバドルが自分の名を呼んでいたことを思い出す。

「さあね」

 人質と馴れ合うつもりはない。鼻を鳴らして顔を背ければ、のんびりとした声が降ってきた。

「ショシャンナは優しいですわねえ」

「どこがっ―――!」

 予想もしていない台詞にぎょっとして振り返れば、ルチアと名乗る少女と目が合った。驚いたことに、そこにあったのは怒りも恨みも絶望もない―――澄んだ瞳だ。

「だって、こちらがふざけても殴らないですし、ちゃんと食事をくださいますし、体も拭かせてくれるでしょう? それに、部屋の掃除だってしてくださるじゃない」

 この期に及んでも能天気な貴族のご令嬢に、ショシャンナは言葉を失った。




 サルバドルは人質を牢に放り込むと、またすぐに仕事へと出かけて行った。代わりに寄越されたのは四十代ほどの見張り役の男だ。いかにも破落戸ごろつきといった屈強な体格をしている。開口一番「俺が殺した人間は両手だけじゃ足りねえな」という下っ端要員お決まりの台詞を言われたので、ショシャンナはドン引きながらこの男を要注意人物に登録した。


 その日、買い出しを終えてひんやりとした洞窟内を進んでいると、ふいに甲高い悲鳴が聞こえてきた。一瞬、地上からの隙間風かと思ったがそうではない。

 この先には人質たちのいる牢屋しかなかった。ぶわりと二の腕が粟立って、ショシャンナは弾かれたように駆け出した。


「なにをやってるの!?」

 見張り役の男が、なぜか牢獄の外ではなく内側に立っていた。その足元では、腕を押さえたルチアが震えながら咽び泣いている。彼女を庇うように両腕を広げ、厳しい目つきで男を睨みつけているのはユリシーズだ。


「ひそひそと何かを話し込んで耳障りだったからな。脱走の算段でも立てられたら厄介だろう」

 取ってつけたような言い訳だった。理由など何でもよかったのだろう。男はそう言いながら靴の爪先でルチアを蹴りつけた。痛ましい悲鳴とともに小さな身体が転がっていく。

「―――出てって」

 気がついた時には低い声が出ていた。

「あんたの役目はただの見張り。いい? こいつらの世話を任されてるのは、あんたじゃない。わかったなら余計なことはしないで」

 男が不愉快そうにショシャンナを見下ろしてくる。ショシャンナは目を細めて()()()()()()()()を唱えた。

「それでもこれ以上何かするって言うなら―――サルバドルに言いつけてやる」

 しばらく沈黙が落ち、それから、ちっという舌打ちが聞こえた。男は忌々しそうにショシャンナを一瞥すると、鉄格子を足で思い切り蹴りつけ出て行った。素直に見張りに戻るつもりはないらしい。荒々しい靴音が洞窟内に反響していき、やがて聞こえなくなった。

 ショシャンナはほっと胸を撫で下ろすと、倒れたままの少女に駆け寄った。

 可哀想な少女は今も恐怖に震えて―――いなかった。

「……へ?」

 ショシャンナは思わず間抜けな声を上げた。

「―――だめですわよ、ユーリ」

 あっさりと起き上がったルチア・オブライエンは、けろりとした表情を浮かべていた。

「今みたいな状況で相手に歯向かってはダメ。嗜虐心を煽るだけです。それよりも、最低限の暴力で満足させるようにしないと。あの男の体格をご覧になりました? ユーリなんて一捻りですわ。たぶん、銃も隠し持っているでしょうね。どう考えたってユーリに勝ち目はないでしょう? レディを守ろうとする心意気は立派ですけれど、そんなものはネズミの糞より役に立ちませんのよ。それよりも、泣き叫んで赦しを乞う方がよっぽど効率的なの。大事なのは機会チャンスを待つこと。そして、その時のために体力を残しておくこと」

 どれほど目を凝らしてみても、少女の頬に涙の跡はどこにもなかった。

「お返事は?」

 王子が目を何度も瞬かせながら、やっとのことで頷いている。

「あ、ああ……」

 それから、ルチアの赤く腫れあがった腕に視線をやった。

「でも、ルチア、君は、怪我を……」

「この程度、別にたいしたことありませんわ」

 痩せ我慢でも虚勢でもなく、心の底からそう思っているとわかる口調にショシャンナは面食らった。相手が庶民や貧民窟の子供ならまだわかる。けれど、目の前にいるのは日傘より重いものなど持ったことのない貴族の令嬢ではなかったのか。

「本当ですわ。骨は折れていませんし、()()()()()受け身を取るのには慣れているんですの。―――もちろん氷嚢があったら、嬉しいですけれど」

 期待するように視線を寄越されて、ショシャンナは反射的に頷いていた。

 するとルチアは、花が綻ぶように微笑んだ。その屈託のない笑みにショシャンナは思わず見惚れてしまう。ユリシーズもわずかに口を開けてルチアを見つめていた。

 ルチアは無邪気な笑顔を浮かべたまま、「さあ、ユーリ」と微笑んだ。

「まずは、泣く練習から始めましょうか」

 それはまるで、舞踏会のダンスを申し込む淑女レディのように軽やかな口調だった。


「―――生きのびる手段はひとつでも多い方がいいに決まってますもの」

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― 新着の感想 ―
ルチアのセリフ、全然能天気じゃないよ…その環境に感謝できること自体貴族の令嬢として規格外なんだよ… ルチアの過去が伏線になっている…小説が上手い…見事…ルチアのあっけらかんとした態度と笑顔が痛ましいけ…
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