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エリスの聖杯  作者: 常磐くじら
本編
18/171

幕間(エミリア・ゴードウィン)


 エマニュエル伯爵夫人の夜会は大盛況だった。


 話題はもちろん、つい先日グラン・メリル=アンで行われた狩り(・・)についてである。罠にかかった手負いの子狐を猟銃で代わる代わる的にしていったという笑い話を皆こぞって聞きたがった。傑作なことにパメラ・フランシスの髪は一夜にして老婆のように白くなったそうだ。それがもちろん場を盛り上げるための誇張であることはわかっている。けれど裏を返せばそういう扱いで構わない―――ということでもある。エミリアは思う存分笑ってやった。あの生意気な小娘は、ただの負け犬に成り果てたのだ。

 しかし、わからないのはコンスタンス・グレイルだ。例の夜会の招待客たちは、あの冴えない子爵令嬢のことをまるでスカーレットのようだったなどと嘯き、騒ぎ立てている。冗談じゃない。

 スカーレット・カスティエルのような(・・・・)人間なんてこの世にいるはずがない。

 

 彼女は最低で最悪で―――そして、誰よりも特別だった。


 まあ、いい。エミリアは首を振って雑念を振り払った。そんなことはどうでもいいのだ。死んでしまった人間のことなど。

 

 人生は、生き残った者の勝ちだ。エミリアは強くそう思う。だから彼女は勝者なのだ。幸せを手に入れているのだ。エミリア・カロリングであった頃には到底足元にも及ばなかったリリィ・オーラミュンデよりも、もちろん、あのスカーレット・カスティエルよりも。

 

 愚直なグレイルに招待状は送った。渦中の娘が出席すれば夜会はさぞ盛り上がるに違いない。俗物的な招待客たちはエミリア・ゴードウィンの手腕を高く評価することだろう。


 スカーレットが処刑されて十年。逃げるようにエミリアが結婚をしてから十年。その間に二人の息子を産んだ。妻としての義務は果たしたはずだ。そろそろ一人の女として羽をのばしても良いのではないか。



「エミリア、ごきげんよう」

 ふいに声をかけてきたのはアイシャ・ハクスリーだった。濃いアイラインに真っ赤な口紅。その躰は相変わらず針のように細い。十年前はそばかすだらけで俯いてばかりの陰気な女だったというのに、人間とは変わるものだと思う。そこに、かつて盲目なまでにスカーレットを崇拝していた狂信的な少女の面影はまるでなかった。

「ごきげんよう、アイシャ―――あら?」

 挨拶を返すと、アイシャの傍らに一人の男性が寄り添っていた。すらりとした長身の見目麗しい男だ。思わず言葉に詰まると、アイシャがふふふと満足そうに笑い声をあげた。気づいちゃった?とわざとらしく首を傾げる。

「私の、好い方」

 ひどく得意気な様子のアイシャに、エミリアは、そう、と引き攣った返事をするのが精一杯だった。


◇◇◇


 アイシャはエミリアと同じく既婚者だ。息子と娘が一人ずついる。確かに結婚前はスペンサー伯爵令嬢だったけれど、今は子爵であるハクスリー家に嫁いでいる。つまり、男爵夫人のエミリアとさほど条件は変わらない。むしろ経済的にはゴードウィンの方が豊かだし、容姿だって病的に痩せぎすなアイシャに比べたらまだエミリアの方が魅力的なはずだ。なのに、なぜ―――


 広間でカクテルを煽っていると、件の男が目についた。人目を引く整った顔。洗練された身のこなし。一挙一動を、目で追ってしまう。

 アイシャは、男の素性をエミリアに明かすことはなかった。どうせ身分の低い准貴族あたりなのだろう。いや、もしかしたら平民かも知れない。そう考えてみても気分が晴れることはなかった。悔しい。アイシャ如きがあんな上等な男を掴まえるなんて。私なら、もっと―――。気づいた時には空のグラスをウェイターに預け、男を追いかけていた。

 階段を上がり、人気のない廊下まで来る。声をかけようとして、先客がいることに気がついた。思わず柱の陰に隠れる。アイシャではない。もっと蠱惑的で美しい女だ。エミリアはわずかに目を見開くと、そのまま意地悪く微笑んだ。―――ほら、やっぱり。

 

 やっぱり、アイシャなんかが本気にされるわけないんだわ。

 

 エミリアは蝶の翅をもぎ取るような気持ちで成り行きを見守った。男にしだれかかった女がその耳元に口を寄せ、吐息をこぼすように囁く。

 ―――キリキ・キリクク。

 その言葉に男の目が細くなり、顔が笑みを象っていく。骨ばった指が女の耳朶を這うようになぞった。見つめ合い、口づけを交わすような距離まで来ると、男が何かを呟いた。女が頷く。男は笑みを浮かべたまま女に口づけていった。額、頬、首筋。それから深く開いた襟ぐりを引き寄せると胸元に唇を寄せる。

 まあ、お盛んだこと。わずかにはだけられた白い乳房には太陽の入れ墨が彫られていた。それを見て、彼女はもしかしたら娼婦の類なのかもしれないと思う。だとしたらこれはそういう趣向(・・)なのだろう。

 エミリアは途端に興味を失った。踵を返そうとしたその瞬間、視界の端できらりと何かが光る。

 あれは―――小瓶?

 男は手慣れた仕草で女の胸の谷間に小指ほどの瓶を挟むと、すっと体を離した。女も微笑んだまま乱れた襟を正す。そして、ふたりはまるで何事もなかったかのように互いを背にして離れて行った。


 ―――今のは、なんだったのだろう。

 けれど、疑問は浮かんだ傍からすぐに消えていった。それよりも大切なのはアイシャの男が若く美しい女と密会していた、ということだ。これはすぐにでもアイシャに伝えなければならないだろう。もちろん、友人として。

 ふと顔を上げれば先ほどの女がすました顔でこちらに向かって歩いてくるところだった。名も知らぬ女。それは相手も同じだったのだろう。視線があったのは一瞬だけで、そのまま会釈もせずに通り過ぎていく。


 すれ違う瞬間、ふわり、と懐かしくも甘ったるい香りがエミリアの鼻腔をくすぐった。




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