2-8(終)
―――ランドルフ・アルスター?
死神閣下の異名を持つ、アルスター卿?かつて王太子の友人としてスカーレットと対立し、後にリリィ・オーラミュンデの夫となった、あのランドルフ・アルスター?
さあっとコニーの顔から血の気が引いていった。見られただろうか。いや、見られてない、はずだ。動揺のあまり、視線が泳ぐ。無意識のうちに聖画の方を見ようとして―――『前を向いて。気づかれるわよ』
そうして対峙したランドルフ・アルスターは、見上げるほどに背が高かった。引き締まった体躯に精悍な顔立ち。黒地を基調とした着丈の長い詰襟の軍服を纏い、手には白百合の弔花を携えている。コニーを認めると、何かを見極めようとするかのように、紺碧の双眸が細められた。
「―――失礼。あなたは、モーリス孤児院の?」
人に命じることに慣れた抑揚のない低い声。ぞくりとコニーの背筋が粟立った。
「……はい」
「懐かしいな。私も妻に連れられて何度か訪問したことがある。……貴女とはお会いするのは初めてだろうか?」
「レティ、と申します。その、さいきん、勤め出したばかり、で」
「そうか。ところで、当時よく一緒に遊んだ赤毛の子どもがいるんだが―――ジョージ、と言ったかな。彼は元気に?」
―――そんなことコニーが知るわけがない!
しかしまさかそう正直に答えるわけにもいかず、一瞬言葉を呑みこんでから躊躇いがちに口を開く。
「も、もちろ―――」
『ちょっと待って、さっきの孤児院の話でしょう?ジョージはブルネットだったわ。その年頃で赤毛なのはトニーだったはずよ』
思わずスカーレットを見た。真剣な表情だった。吸い込まれてしまいそうな紫水晶の瞳を見ていると、不思議なことに、暴れまわっていた心臓が次第に落ち着きを取り戻していく。
「―――ええと、それは、もしかすると、トニー、ではありませんか?ジョージという子もいますが、あの子は黒に近い髪色なので」
意外なことを言われた、というようにランドルフが瞬きをした。
「……ああ、確かに彼はトニーだったな。とんだ失礼を」
「だ、誰にでも勘違いはありますから。ではわたくしはこれで……」
そのまま立ち去ろうとすると、すれ違いざまに「シスター」と声を掛けられた。
「女性の独り歩きは危険が多い。あなたさえ良ければ、孤児院まで送りましょう」
ひいっとコニーは心の中で絶叫した。
「―――け、けっこうですっ!その、寄るところもありますし別にたいした距離ではないので!お心遣いは感謝致しますがこれにてごきげんよう!」
扉を開ける直前に振り向いて、修道服の裾を持ち上げ軽く膝を曲げる。それから足早に礼拝堂を退出した。
もはや全力疾走と言ってもいい速さで庭を突っ切ると、守衛には目もくれず屋敷を飛び出す。そのまま人通りの少ない小径に駆け込むと、生け垣に手をつき息を吐いた。
「怖かった……!なにあれおっかない……!……ば、バレてないよね?」
『どうかしらね。足がつくようなことは言ってないと思うけど―――』
スカーレットはオーラミュンデ邸を仰ぎ見た。
『昔から無駄に鼻が利くのよね、あの男』
◇◇◇
祭壇には、白いシプソフィラの花と、つたない文字の手紙の束が置かれていた。
ランドルフも己の弔花をそこに捧げると、特に祈ることなく踵を返す。その時、ふと違和感を覚えて壁に掛けられた聖画に視線を留めた。じっと目を凝らすと、わずかに傾いていることに気がついた。まるで誰かが慌ててかけ直したようだ。ランドルフは聖画に躊躇いもなく手を掛ける。外されて剥き出しになった壁には特に細工があるようには見えない。となると―――。そのまま額縁を裏返した。案の定、右の隅に何かが糊づけされた形跡がある。大きさは封筒ほどだろうか。わずかに付着している羊皮紙に変色が見られないことからつい最近剥がされたのだろう。それも、やや強引に。そのまま床に目を落とす。そして爪の先ほどの紙屑を見つけると、眉を顰め、小さくため息をついた。
「修道女が来てたんだって?」
本邸の応接間では、カイルがその外見同様に軽薄な口調で声を掛けてきた。こちらも軍服だが、襟を開け下品にならない程度に着崩している。
「見た目はな」
ランドルフはソファに腰かけると肩を竦めた。オーラミュンデ夫人はまだ姿を見せていないようだった。
「うん?」
「訛りのない発音に、あかぎれひとつない手、そして帰り際には淑女の礼をする修道女だ」
「……なるほどねえ」
だらしなく肘をつきながら、カイルは客人用に振舞われた焼き菓子を齧る。
「先日のグラン・メリル=アンの夜会といい、なんだか穏やかじゃないねえ」
「……その話だが、婚約破棄を宣言したという令嬢の素性はもうわかっているのか?」
聞かされた当初はまるきり興味が湧かなかったので調べもしなかった。けれどゴシップ好きの同僚なら知っているだろう。案の定、目の前の青年がにやりと笑った。
「聞いて驚くなよ―――あのグレイル家の子だとさ」
「グレイル?誠実の?」
思わず眉を顰めれば、からからと笑われる。
「そう、誠実の」
誠実のグレイルといえば、社交界では誰もが知っている模範貴族だ。
「……その令嬢と面識は?」
「んー喋ったことはないけど、遠目からなら何度か」
「榛の髪と若草色の瞳だったか?」
「え、そうだけど。なに、お前こそ会ったことあるの?」
ランドルフはゆっくりと窓の外に目を向けた。この応接間は、オーラミュンデ家自慢の庭が一枚絵に見えるように細長い窓がいくつも連なる設計になっている。木々の合間を縫うようにして石造りの礼拝堂がわずかに見えた。
「―――今、会った」
◇◇◇
修道服はそのまま捨てろと言われたが、さすがにそれは躊躇われた。あの善良な孤児院の人々を土足で踏みにじるような気がしたからだ。とは言うものの身分を偽っている以上面と向かって返すこともできない。苦肉の策として洗濯代の銅貨を添えて置いてくることにした。
「……おねーちゃん、なにしてるの?」
孤児院にしては珍しい重厚な鉄製の門扉―――その縦格子の隙間から衣装をねじ込もうとしていると、背後から声を掛けられた。振り返れば見覚えのある顔がいくつかある。いずれも少年で、孤児院で手紙を書いてくれた年長組の中の数人だった。鏝や金槌などの道具を手にしていることから、おそらくどこかの工房の手習いからちょうど帰ってきたのだろう。
そこでコニーは子供たちの表情が奇妙なことに気がついた。皆一様に怯えの色が浮かんでいる。怖がっているのだ、コニーを。あの時もそうだった、とつい先刻のことを思い出す。あの時―――年少の子らにリリィのことを訊ねた時、この子達は明らかに緊張した様子でこちらを窺っていた。いったい、なぜ。
燃えるような赤毛の子が、仲間を庇うように一歩前に出た。わずかに顔を強張らせながらこちらを睨みつけ、口を開く。
「―――キリキ・キリクク」
なんだ?
子どもたちが息を呑んでコニーに注目しているのがわかる。今のは何か重要な意味のある言葉なのだろうか。コニーは混乱した。全く以って意味がわからない。
「……きりくき?」
外国語だろうか?コニーの戸惑いが伝わったのだろう。張り詰めていた空気がするすると解けていく。子供たちは途端にほっとしたような顔で「ほらやっぱりー」「トニーは心配性だからなあ」「うるせえ、しょうがねーだろ」などと小突き合う。その中のひとりがコニーの元へ駆け寄ってきた。
「おねーちゃん、リリィさまに、お手紙ちゃんと渡してくれた?」
「うん」
わあ、と黒髪の子は歓声を上げた。先程までの空気が嘘のようだ。嬉しくなってコニーも微笑む。それから気まずそうに頭を掻いていた赤毛の少年に声を掛けた。
「ねえ、さっきのなに?」
少年は躊躇うような素振りの後、コニーの顔をじっと見て、それから小さく呟いた。
「……呪文」
「呪文!?」
なにそれこわい。昨今の子どもは呪文を扱えるとでもいうのか。
「うん。悪い奴らを見破ることができるんだって。―――リリィさまが教えてくれた」
コニーは息を呑んで、ゆっくりと瞬きをした。
「……いつ?」
「死んじゃうまえ」
赤毛の少年―――トニーは、どこか途方に暮れたように首を傾げた。
「リリィさまは、もしこれから先に自分に何かが起きて、その後で、自分のことを探りにくる奴らがいたらこう訊けって」
太陽はとうに頂を過ぎ、燃えるような色を滲ませながらゆるやかに傾いていく。
「それで、もし少しでも反応したら、そいつはとっても悪い奴だから、」
遠くの方で聖マルクの鐘が鳴っている。王城の閉門を告げる音だ。日没はまだ遠い。半円の夕陽がコニーたちの真後ろに立つ。伸びていく影は、やがては闇に溶けるのだろう。
―――夜がやってくるのは、これからなのだ。
トニーは今にも泣き出しそうな表情でこう告げた。
「その時は、みんなを連れて一目散に逃げなさいって、そう言ったんだ」
濡れたお仕着せ姿のコニーを見て、マルタはたいそう驚いたようだった。帰り道に転んだのだと説明したが、おそらく充分ではなかったはずだ。何か言いたげな視線を感じたが、答えられるわけもない。今日のコンスタンス・グレイルは始まりから終りまでなにひとつ誠実でなかった。黙ったまま自室に戻る。何だかひどく疲れていた。
コニーの手元には、例の封筒があった。今まで黙っていたスカーレットが口を開く。
『―――開けましょう』
コニーは頷いた。この期に及んで駄々をこねたりはしない。
封を切ると、中から鈍色に光る何かが見えた。鍵だ。装飾の類は一切なく実用的なもの。頭部は円環で空洞があり、先端には歯車を切り取ったような突起がついている。
『まだ何か入っているわ』
スカーレットの言葉に、コニーは封筒を逆さまにした。すると白いものがひらりと床に舞い落ちる。それは紙の切れ端だった。細かい文字が印字されているので、おそらく書物か何かを破り捨てたのだろう。そこに、ペンで何かが書きつけてある。コニーは目を細めた。慌てて書き殴ったような乱れた字体。所々掠れてはいたが、かろうじて読める。
リリィ・オーラミュンデの遺した手がかり。そこに記されていたのはたった一言だけ。
―――エリスの聖杯を破壊しろ、と。
「エリスの、聖杯……?」
ぽつん、とコニーの声が静まり返った室内に落ちた。




