合い言葉のいる店
「当店にご入店いただくには、合言葉をおっしゃっていただかなくてはなりません。 店主」
そう大書された扉を開けると、50がらみの、黒のチョッキがよく似合う男性が、いつものようにお辞儀をしてくれた。
「いらっしゃいませ。それではまず、合言葉をお願いいたします」
「ええと、合言葉ですね。6月は恋の雨の季節、でしたっけ?」
思いついた言葉を口にすると、男は微笑みながら首を振った。
「残念ながら違います。よく店内をご覧になって、もう一度お考えください」
言われたとおり、店内を見回して首をひねる。
ふかふかの絨毯、抑え気味の照明、センスのいい調度品。
ヨーロッパの小洒落たパブにでも迷い込んだような気分になる。
「ベルギーのあたたかな思い出、かな?」
照れながらそんなことを口にするが、相手はまたもや首を振る。
「お客様、今日の合言葉は店内のなにかに関係がございます。よくよくご覧になった上で、もう一度お答え下さい」
そう言われてさらに目を凝らすと、店の雰囲気に全くそぐわないものがカウンターにでんと鎮座している。
ははあん、あれか。
俺は不敵に笑った。
だが、気をつけなければいけない。NGワードを口にしたら、入店を断われてしまう。
「信楽タヌキの笑顔は結構無気味、ですね?」
と、店主の顔がほころんだ。
「正解でございます。ようこそおいで下さいました、宮下様」
ようやく席に通され、松本に合流する。
「やれやれ、NGじゃないかとひやひやしたよ」
「今回のNGはアレだろ。それさえ口にしなきゃ大丈夫」
「しかしまあ、なんだって毎回でたらめな合言葉をいうなんて、面倒なことさせるのかね?」
俺のボヤキに、松本はにやりと笑った。
「店主いわく、そのめんどくささが大事なんだと。わざわざわざこんな儀式に付き合ってくれる人なら、まあ、だいたいお人好しの物好きで、悪酔いせず羽目も外しすぎす、いいお客になるんだとさ」
「まあ、その理屈はわかる。でも…」
「それに。少ないヒントを手がかりに、みんな知恵を絞って変な言葉を口にするのが、な
んとも面白いじゃないか。この店に来る客は皆、それを聞くのが楽しみで通ってるんだぜ」
「それはまあ、そうだよな」
「ほら次の客だ」
扉が開き、マスターの慇懃な声が響く。
「いらっしゃいませ。それではまず、今日の合言葉をお願いします」
「ええと…奥様のスーツは今日も黄色だった、かな?」
居合わせた客は一斉に下を向き、笑いをこらえたのだった。
さて、NGワードはなんでしょう?




