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第34話 婚約破棄、からの

 エリスの来日は謙吉に仕組まれたものだった。

 クラウドファンディングにしたって、エリスが言う「結婚の約束」にしたって、裏で謙吉が画を描いたものだった。


 俺が知る限り、謙吉は良い奴だ。

 だけどなぜか――こんな状況になった今だからこそ言えるのだが、俺はあいつを前にするとなぜか緊張感のようなものを覚えていたのだ。


 一体なぜ?

 それは俺にも分からない。


 ただ一つ言えること。

 それは俺と謙吉の仲は、友情という綺麗で清々しい響きの言葉一つでは括れないものと判明したということだ。

 少なくとも謙吉には、俺に秘している意図がある。




 その事実を突きつけられた俺は――自分でも意外なほど冷静だった。




【あ、はは……】


 エリスが力なく笑った。

 いつかドイツで見せたような儚く壊れそうな笑みを俺に向ける。

 彼女が手にするスマホはだらりと彼女の手から垂れ下がる。


【……その反応。やっぱり彼が言っていた言葉は嘘だったんですね】


 心のどこかでは分かっていたのです、と彼女は言う。


【日本に来て、あなたに再開して、だけどあなたは『結婚』というワードに覚えがないような反応をしていました。最初は照れているだけだと思っていましたけれど、あなたの反応は、心からのものでした】


【エリス……】


【それでも私は、あなたと一緒になりたかった。かつて私の心を奪ったまま日本に去ってしまったあなたによって置き去りにされた私の体を、なんとかあなたの隣に置きたかったのです】


 だからこその結婚。

 物理的にも、法的にも、彼女が俺の隣に寄り添うための証。

 エリスが結婚にこだわったのは、それが何より分かりやすい証だったからだ。


 だけど彼女が恃んだ結婚の約束は、謙吉によってでっちあげられたもの。


 エリスは勘が鋭い。その鋭さを俺は度々目にしている。

 そのエリスをして、謙吉の嘘に今まで気づけなかったというのだろうか?


 ――気付きたくなかったんだろうな。

 俺はそう思った。


 頼るべき人もいない異国に一人で来る。

 そのフロンティアスピリッツを支えたのは、謙吉が嘯いたという「俺との結婚」の約束だった。

 それが折れてしまっては、彼女の日本での生活の屋台骨そのものが折れる。


 だから彼女は今日、一大決心をして俺に告白したのだ。


【オト】


 すがるような目線を感じる。


【私の来日が嘘によって踊らされた結果だったとしても、オトと過ごした日々に嘘はない……そう私は信じています。あなたも私と同じ気持ちだと……嬉しいです】


 彼女は俺の次の言葉に、自身の全てを賭けてきた。

 彼女の生殺与奪を握る俺は、大きく息を吐いた。


【エリス】


 俺は彼女の名を呼ぶ。

 エリスはびくっと身を震わせる。


【俺は、他人に自分の運命を握られるのが嫌いだ。たとえそれが、俺が親友と信じていた奴の手によるものだったとしても、それは嫌いなんだ】


 俺は素直な気持ちを吐露した。

 相手がエリスであっても、ここは俺の中で譲れない一線だった。

 そしてエリスが恃んだ「約束」は、俺のなかの一線を越えていた。


【謙吉が告げた約束がエリスにとって重要だったとしても、俺にとってそれは許し難いものなんだ。そんな約束によって築かれる未来を、俺は拒絶する】


 さぁっと。

 エリスの顔から血の気が退く。





【はっきり言うぞ――謙吉が伝えたという『婚約』、これは破棄する】





 エリスが大きな瞳を涙で濡らした。

 ほろりと大粒の涙が零れ落ちそうになる、その時。




【そして!】




 俺は腹の底から叫ぶのだ。



【あいつの思惑によるものではなく、俺自身の意思で伝えたい! エリス、俺と共に人生を歩もう!】



【…………え?】


【結婚を前提にした交際を申し込みたい。誰の入れ知恵でも、誰の思惑によるものでもない。俺――毛利於菟が心から君を愛し、君と共に歩みたいと願ったからこそ提案する婚約だ】



 その途端、エリスは感極まったようにポロポロ涙を流し始めた。



【い、いいのですか……ひっく……私で、いいのですね……ひっく】


【君がいいんだ、エリス】



 俺は自らの覚悟を証明するために、エリスを抱き寄せて、その唇を奪う。

 エリスは驚いたような顔をして、それからトロンとした表情になり、全身を俺に預けた。


【オト、好きです……ずっと一緒です、オト】


【エリス……】


 俺とエリスは再度唇を交わし合い、そして見つめる。

 互いの瞳に互いの姿が映っている。

 もう二人の瞳には、相手しかいない。見えない。





 愛し合う俺とエリスの体が、自然と動く。

 通常ならここで相手を抱くのかもしれない。


 だけど、それは余人の営み。

 俺とエリスの関係性は特別なもの。

 他者が真似をする余地のないもの。


 愛を体で確かめ合う方法を、性行為には頼らない。

 俺たちに相応しい、俺たちだけの営みがある。




 俺がスマホを操作する。

 場にはムーディな曲が流れ、俺とエリスは視線と視線を絡ませ合う。


 二人でそっと額を突き合わせ、次の瞬間には柔らかなステップを踏み始める。



 俺とエリスが一度も合わせたことのない曲だ。練習をしたわけでもない。

 それでも魂と魂が結合した今の俺たちなら、息を合わせて完璧に踊れるはず。



 これが俺たちの愛の営み。

 誰にも介入することができない、俺とエリスだけで完結する踊り子の舞台。




 曲が終わる。

 余韻を残し、消えていく。

 最後のステップまで完璧に踊り終えた踊り子と、その踊り子との未来を誓った男は二人だけの部屋で舞い切った。



 荒い息で俺たちは見つめ合って、最後にもう一度、互いの熱を確かめるようにキスをするのだった。

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