第33話 「約束どおり、結婚してください」⑤
まるで人魚のようだった。
エリスがプールで泳ぐ姿は。
水の中を泳ぐ……いや、これは踊っていると言った方がいいのか。
独特の泳法で水を割いて泳ぐ姿に、場が釘付けとなっている。「ほう」という感心の声が誰かから漏れ、場の視線がエリスに向かっている。
「オト、一緒、泳ぎましょう!」
視線を一身に集めるエリスが、俺に向かってにこやかに呼びかけてくる。
それだけで場の視線が俺を向く。
美の女神に付き添う幸せ者は誰なのかと、興味津々の目が向く。
「あー、エリス。ドイツ語に切り替えないか?」
場の注目が向き過ぎている今、エリスとの会話を他の人に聞かれることに気後れをする自分がいる。
だからドイツ語での会話を提案したのだが、エリスは「日本語だけ。これに意味があります」と返答をしてきた。
一体どうして、このところの彼女は「日本語だけ」にこだわるのか。
衆人環視のプールの中でのデートを終えた先で、その答えが明らかになる。
帰り道のこと。
「今日も楽しかったです」
エリスが俺に天上の笑みを向けてくる。
エリスと歩幅を合わせて歩む道のなか、俺とエリスの間には色々な会話の種が生れては咲いていく。
彼女はずっと日本語を通したままだ。
そして、ふと彼女は立ち止まる。
「エリス?」
俺が呼びかける先の彼女は、目を瞑って、祈るように手を組んでいる。
そして彼女の眼が開いた時、その瞳に決意のような光を感じ取れた。
「オト。お話、あります」
柔らかく、優しく、けれど逃げられないような迫力を感じる声。
その言葉に俺は頷いた。
向かった先は――エリスが借りているホステルだった。
ホステルにある多目的ルームに案内される。
勝手に入っていいのかと聞けば、今日はエリスの名でここを予約していたとのことだった。
なるほど。
どうやらエリスは、 ナイトプールなどではなく、最初から俺をここに連れてくる算段だったようだ。
「しかしエリス、こんなところで一体何を――?」
「踊りましょう?」
「踊る?
「最近、他の女の子と踊っている。私、寂しかったです。私と踊りましょう」
エリスがスマホを取り出すと『リベルタンゴ』の前奏が始まる。
俺の意識よりも先に、俺の体が了承を示した。足先と指先が勝手にダンスのモードに入っていく。
指先まで意識が行き届き、その指をエリスの体に沿わせたとき、俺とエリスは練熟のダンスを場に展開した。
「……ふひゅー」
「はぁ、はぁ……」
数分後。
床で俺とエリスは座り込んで、笑い合う。
たった一曲で、全身が悲鳴を上げていた。
それだけの情熱と集中を注ぎ込んだダンス。
ドイツの踊り子の全力に、常人を超越するという「鴎外の血」で沿いきった。
そして、エリスが言うのだ。
「オト」
「ん?」
「好きです。大好きです。愛しています」
俺が返事に窮する。
だけどエリスは俺の返事を待たず、こんな言葉を継いできた。
「約束どおり、結婚してください」
その瞬間、俺の時は止まった。
「オト、約束、してくれましたね?」
「い、いや、エリス……なんのことだ?」
「忘れた、いうのですか?」
その瞬間、エリスの瞳が光を失う。
「オト、まさか、忘れた、いいませんよね?」
忘れたなんて言わない。
そもそも「約束をした事実がない」のだ。
それは断言できる。結婚を俺から切り出したなら、俺は絶対に覚えている。
するとエリスがスマホを何やら操作している。
どうやらレコーダーアプリのようだ。
それを再生すると、知った声のドイツ語がスマホから聞こえてくる。
【彼は約束している。エリスさん、君がもし本気で彼と一緒に居たいと願うのなら、証を示せば受け入れると】
【要は君の本気度が知りたいってことさ。そして本気を示すには――日本語の会得。日本語を使って彼に愛の告白ができる……そのくらいのレベルになればいいってことだろうね】
俺は絶句して、スマホの音声を聞いている。
ノイズめいた間があって、聞き知った声が再び流れ出す。
【日本への留学……うん、それは必要になるだろうね。資金について僕が直接助けることはできないけれど、クラウドファンディングという方法がある】
【やり方はアドバイスできそうだ。僕なら君たちの後押しができると思う】
【ああ、そうだよ。念のためにもう一度言っておこうか?】
【毛利於菟は君と結婚する気はある。君が本気さを示せば、於菟は君と結婚する――そう約束していたよ。この僕、相沢謙吉が証人だ】




