第29話 「約束どおり、結婚してください」①
7月になった。
俺と謙吉にとっては模試で対決する夏。
そして謙吉にとっては生徒会選挙の夏。
そんな7月が開幕し、俺がやったこと。
それはエリスとのプールデートだ。
「なぜ?」
屋外プールのプールサイドに立ち、俺は頭を抱える。
なんでデートの約束をしてしまったんだ俺?
思い返したのはおとといの情景。授業中のことだ。
照りつける太陽が教室の空気を炙り、自席でぐったりしている俺。
日本よりも寒冷なドイツで育ったエリスにはさぞ厳しかろう。
そう思って横を見てみると、何故かニコニコしているエリスがいる。
【オト、暑そうですね】
【そりゃ暑いっての。なぁエリス、なんでお前は平気なんだ?】
【ふふっ、なんだか今のオトの顔が懐かしくて】
【あ?】
【今年の初め、あのホテルで出会った時のホットなオトと似ているんです】
ああ。
今年のお正月、俺は病魔にやられてグテングテンだったっけ。
えげつないくらいに高熱を出して、ベッドで寝ていた。
そこでエリスと再会し、しばらくケアしてもらっていたんだ。
今の俺は、暑さにやられる情けない姿だけど。
彼女にとっては、大切な思い出を呼び覚ます姿であるらしい。
【なんだか懐かしいですね。オト、今後風邪をひく予定はありますか? 久しぶりに看病してあげたくなりました】
【風邪をひく予定なんてねぇよ……】
そこで俺とエリスの会話は少し途切れる。
先生の言葉を俺がエリスに翻訳する……というフリをしての雑談なので、先生の説明が途切れている時は、俺たちも口を噤むのだ。
また先生が口を開いた。俺も口を開く。
【しかし、暑いな……体の奥から涼みたい】
【体の奥から涼しくしてあげましょうか?】
エリスの思わぬ提案に、俺はまじまじとエリスを見る。
【できるの?】
【オトが望んでくれるなら】
【ちょっと……やってみて?】
【もしも私がオトを涼しくしたら、ご褒美をくれますか?】
【ああ、いいぞ】
なんて迂闊な約束をしてしまったのだろう。
この時、俺の頭はきっと暑さで茹っていたのだと思う。
これが正気だったとしたら、俺は自分自身を許せなくなる。
スカイネットを開発し、過去の自分にターミネーターを送ることも辞さない程だ。
そんなわけで、まぁ。
俺はエリスに無謀にも許可を出してしまい、エリスは薄氷のような笑みを浮かべた。
この笑みだけで涼しくなれそうな、そんな笑みを。
そしてエリスはおもむろに手を挙げるのだ。
「せんせい、しつ問があります」
その瞬間。
クラスの空気がざわついた。
授業をしている生物学の先生も、目を丸くしている。
エリスがみんなの前で日本語を始めて披露したのだ。
それはざわつくってもんだろう。
「ヴァ、ヴァイゲルトさん……日本語が喋れるようになったの?」
「はい、私は少しだけ、日本語をしゃべります。オト君が教えてくれました」
エリスの隣で俺は頷く。
エリスの日本語学習に付き合っていたが、ここまでエリスが日本語をものにしてたとは喜ばしい。
全てはエリスの努力のたまものだが、彼女に付き合っていた俺にも、ちょっとだけどや顔を浮かべる権利くらいはあるはずだ。
「す、すごいわヴァイゲルトさん!」
先生が手放しでほめちぎり、それから我に返る。
「あ、えっと……質問はなんですか?」
するとエリスが俺をチラリと見た。
そして先生へと目線を戻したエリスが、言うのだ。
「となりのオト君が『すけべしようや』って私にいってくるのです。この意味が分かりませんです。これは、どのような意味でしょうか?」
瞬間、教室に剣呑な空気が満ち、俺はクラスの野郎どもに抑え込まれた。
「毛利! 今後百年の日独友好のため、お前には死んでもらう!」
「彼女の日本語の理解が拙いことを良いことに、淫らな言葉を浴びせるなんて!」
怒るクラスメイト達の剣幕に、俺は冷や汗を垂らしながら反論する。
「ち、違う! これはエリスのブラックジョークだ! なぁ俺とお前たちは中等部からの付き合いだろう? 俺とエリス、どっちの言葉を信じるってんだ!」
「「「「ヴァイゲルトさんに決まってるだろう!」」」」
なるほど。
確かに俺の肝は冷えた。
【オト、体の奥から冷えたでしょう?】
エリスが小悪魔めいた表情を浮かべ、話しかけてくる。
【この状況から助かりたければ、私のささやかなお願いを聞いて欲しいんです】
断るという選択肢は、どうやら剥奪されているらしい。
そんなことを想った。




