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第91話 嫌い、と告げた理由

「あの……ロブさん」


 静まり返った異空間の中で、リリアの声がぽつりと落ちた。


 湿った空気。魔力の余韻がまだ空間に滲んでいて、誰もがその重みに言葉を失っていた。


 リリアの喉は、砂を含んだようにひりつく。けれど、それでも聞かずにはいられなかった。


「どうして今……私たちに、こんな話をするんですか?」


 視線を逸らすことなく、真正面から。


 それにロブは――ほんの一拍だけ、間を置いて答えた。


「……アウロが操られていた」


 それは事実の確認だった。


「ということは、“過去の失われたコマンドワード”を知っている者がいる。ナノマシンに刻まれた最重要機密、外部からは絶対にアクセスできない領域……それを扱える存在は、この世界にたった一体しかいない」


 言葉が空気を切り裂くようだった。


 その“たった一体”という響きに、弟子たち全員の呼吸が止まった。


 空気が冷え込む。いや、それはただの寒さではない。


 思考の底に突き刺さる、絶対的な名前の予感。


「たった………ひとり……?」


 カイが小さく呟いた。


「……と言っていいか、少し迷うがな」


 ロブが目を細める。その眼差しは、遥かな過去と、遠い未来を同時に見据えていた。


「太陽神ヘリオス――いえ、ヘリオス・オーバーマインド…………」


 名を呼んだのは、セラフィナだった。


 その声は震えていなかった。


 ただ、深く。慎重に。


 まるで、その名前が世界を変えてしまうことを知っているかのように。


「……もう復活してるってこと?」


 フィリアが、おそるおそる声を発した。


 唇が微かに震えている。顔色は、紙のように青白かった。


「いや。おそらくまだ、“大気中を漂っている”段階だ」


 ロブの声は低く、そして確信に満ちていた。


「復活していれば、すぐにでも動くはずだ。世界中のドラゴンを一斉に掌握してな」


「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」


 それまで黙っていたエドガーが、思わず声を上げた。


 腕をばっと広げ、意味もなく空気をかき回すように。


「世界中のドラゴンを操る!? そんなこと、できるのかよ!?」


「……奴なら、できる」


 ロブはあっさりと言った。


 まるで“雨が降る”とか“日が昇る”とか、当たり前の自然現象を語るように。


「実際、二千年前の戦争では――ドラゴンの総攻撃で、俺たちは全滅しかけた」


「………………」


 静寂が、空間をひとつ圧縮した。


 重力が少しだけ増したような錯覚。


「逆に……なんで、全滅しなかったんだ?」


 エドガーが喉を鳴らしながら言った。わずかに声が上ずっていた。


「勝ち目なんて、あるはずないだろ……?」


「そう思うのが普通だがな」


 ロブが口の端を吊り上げる。


 それは笑顔ではなかった。


 戦場を越えてなお残る、“生き残った者だけが持つ悔しさ”のような、ひどく苦い表情だった。


「ドラゴンを屠れる“武器”や“魔法”――あるいは“技”が、当時は存在していたんだ。今じゃ失われたロストテクノロジーだがな」


「……ロストテクノロジー……」


 セラフィナが小さく呟く。どこか遠い目をして。


「そう。今となってはすべて失われた。だが、確かに存在した。あの時代には、“ドラゴンを殺せる人間”がいたんだ」


 ロブは、ゆっくりと前を見据えた。


「彼らは“ドラゴンスレイヤー”と呼ばれていた」


 一瞬、誰もがその響きを噛み締めた。


 英雄譚。神話。あるいは伝説。


 だが、それは事実として存在した“現実”だった。


「……恥ずかしいネーミングだがな。当時の俺も、その中の一人だったよ」


 そう言って、ロブは小さく、照れくさそうに笑った。


 だが、その笑みにはどこか痛みが混ざっていた。


「わたくしは……太陽神ヘリオスは、世界を照らす全能神だと教わって育ってきましたわ。それが、本当は……人間を粛清しようとしていたなんて……」


 セラフィナの声が、ひと筋の雪のようにリリアの耳に落ちる。


「……なぜ、そのような伝承にねじ曲がったのですか?」


 その問いに、ロブは静かに息を吐いた。


「その時代まで、“ヘリオスを作った連中”はまだ生きていたんだよ」


「え……?」


「寿命操作技術を使って、人間も不老不死には至らずとも千年以上は生きられるようになっていた。……ただし、遺伝的には一代限りの長命種。子孫は残せなかった」


 ロブはかすかに笑った。だがそれは嘲笑ではなく、呆れにも似た痛ましい憐憫だった。


「そいつらはな……自分たちが“世界を滅ぼした元凶”だってことを隠すために、“嘘”を広めた。太陽神ヘリオスは偉大な守護者だった――ってな。信仰を盾に、怒りの矛先を逸らしたんだ」


 場の空気が、途端に冷え込んだ。


 リリアが小さく息を呑み、カイが静かに目を伏せる。


「でも、それだけじゃ済まなかったんだよ」


 ロブは淡々と続けた。


「その嘘に騙されなかった連中もいた。魔族とエルフだ。奴らは“真実”を見た。だからこそ、人間とは距離を置くようになった。自分たちだけの領土を持ち、交わらず、閉ざして生きるようになった。……それが今の種族間の対立構造の起源だ」


「……ドラゴンはどうなったんですか?」


 リリアが震える声で問う。


 ロブは一瞬、黙ったあと――ゆっくりと頷いた。


「……二千年前。ドラゴンたちは、ヘリオスの支配下に置かれた。意思を奪われ、ただの“兵器”として使役され、多くのドラゴンが命を散らした」


 その言葉に、セラフィナが眉をひそめる。


「………戦いが終わり、ヘリオスが破壊された後、ドラゴンたちは意識を取り戻した」


「じゃあ……」


「……自分たちが、何をしてしまったのかも彼らは全部わかっていた。どれだけの人間を殺したか。魔族の都市を焼き、エルフの森を踏み潰したことも、数多くの同胞を失ったことも……何もかも」


 ロブの声が低くなっていく。


「その上で、彼らは――人間を、見限った」


 誰もが息を呑んだ。


「もう、ヘリオスにも人間にも、誰にも使われたくないってな。人間の作った技術に支配され、殺戮に利用された過去を悔いたんだ。……そして、自ら“最果ての地”へと姿を消した。二度と、人の前に現れないためにな」


「…………」


 誰も、言葉が出なかった。


 エドガーが唇を噛む。


 フィリアが首を振る。


 リリアは、胸元で手を組んだまま、ただ静かに目を閉じていた。


「……話が、それたな」


 ロブが視線を戻し、静かに口を開いた。


「ドラゴンを操るコマンドワード――あれを知っているのは、ヘリオス・オーバーマインドだけだ」


 低く、重いその声に、場の空気が凍りついた。


「本来なら、今の時代にドラゴンを動かせる存在はいない。だが――アウロは、操られていた。俺を狙うためにな」


 言葉の端々に、確信が宿っている。


 その瞬間、セラフィナが小さく息を呑んだ。


「……クロノスの使徒」


 名を呼んだだけで、全員が動きを止めた。


 誰もが知っていた。絶対に口にしてはいけない存在だった。


 ロブはゆっくりと頷く。


「恐らく、ヘリオスは三年後に完全復活する。そして、自分の手で造った手駒を過去へ送り込む。今回、俺にアウロをぶつけてきたのも、その一体だ」


 目を伏せ、感情を殺したまま、静かに推測を語る。


「偶然が多すぎる。通りすがりに盗賊に襲われるリリアに出会い、紅竜団と魔族の結託を知った。ハウルキャットの異常行動を追った先でゴブリンスタンピード。二日後には、タイミングよくドラゴン討伐依頼。それに利用した魔導公会の企み………全部が、俺の行動に合わせて動いている」


 言いながら、自嘲気味に小さく鼻を鳴らす。


「偶然は、一度だけなら偶然だ。だが、三度も四度も続けば――それは意図と呼ぶべきだろう」


 言葉が止まった。数秒の静寂。


 ロブは目を細め、言い切った。


「陰謀だ」


 重く、確かなその一言を、誰も否定できなかった。


 この場にいる誰もが、肌で感じていた。


 ――すでに世界は、仕組まれた何かの“渦”に呑まれ始めている。


「この先、奴らの妨害は続くだろう」


 ロブの声は低く、硬質だった。


「その渦中に巻き込まれて、お前らが“何も知らない”ってわけにはいかない」


「なるほど。つまり、覚悟しとけってことね」


 フィリアがふん、と鼻を鳴らす。


 腕を組み、どこか挑発的に笑った。


 だがその眼差しには、既に戦いに身を置く者の鋭さが宿っていた。


 リリアも小さく頷く。意志は揺れていない。


 だが、ロブは――その期待を押し返すように、言葉を重ねた。


「……違う」


 一瞬、空気が変わる。


 弟子たち全員の視線が、一点に集まった。


 ロブは静かに、それでも確かに言った。


「“選んでもらう”ためだ」


「……選ぶ?」


 カイが呟く。


 ロブは頷いた。鋭い視線で、ひとりひとりを見据えていく。


「俺から離れるか。……それとも、ついてくるかだ」


 誰も声を出さなかった。


 言葉の重みが、静かに胸を圧迫する。


「今までのようなことが続けば、いつか命を落とす。お前たちはもう、現実に世界を変える戦いに踏み込んじまってる」


 一歩、ロブが踏み出す。


 弟子たちと向き合うその姿に、迷いはない。


「だからこそ、ここで離れるのも……立派な選択肢だ」


「……………」


 静寂を破ったのは、リリアだった。


 その声は小さく、けれどはっきりと震えていた。


「……それって、弟子を……辞めろってことですか……?」


 唇を噛んで、目を伏せる。


 言葉の意味をすぐには受け入れられず、心が揺れるのが誰の目にも明らかだった。

「ちょっと待ってよ!」


 フィリアが立ち上がった。


 その声音には、普段の軽薄さはなかった。純粋な怒りと、混じりけのない真剣さが滲んでいた。


「あんた、さっき言ったじゃない。過去で私たちに助けられたって」


 リリアの横を通り抜けるように、一歩前へ出る。


 視線はまっすぐロブに向けられていた。


「それって、三年後の私たちも、あんたのそばにいて、来たるべき時まで一緒に準備してたってことでしょ? ここで、私たちがいなくなったら……誰が、あんたを助けるのよ!」


 声が空間に反響する。


 誰も何も言わない。


 リリアは、フィリアの背中を見つめながら、思った。


 彼女は怒っているんじゃない。泣きそうなだけだ、と。


 ロブの言葉は、自分が死んでも構わないと言っているようにも感じられた。


 そんな悲壮なことを言外に滲ませる彼を痛々しく感じて、フィリアは声を荒げたのだ。


 そしてロブは――ただ静かに、それを受け止めていた。


 動じることなく、真っ直ぐフィリアの瞳を見据えて。


「……未来は変わる。過去もな」


 穏やかだった。


 けれどその一言は、重く、心の奥に沈んでいく。


「この時間軸で生きるお前たちが、俺の知ってる過去と“同じように”俺の前に現れるとは限らない。たとえば……破門されたのか、自ら辞めたのか、あるいは――死んだのか」


 一瞬、リリアの心臓が跳ねた。


 その言葉を受け止めきれず、唇を結ぶ。


「……先のことは誰にもわからない。だからこそ」


 ロブは言う。


 声を荒げることも、悲壮感に浸ることもなく。


「俺は今、知りうる限りの情報を伝えて、選んでほしい。お前たち自身の意思で。……俺のそばに残るのか、それとも、違う道を行くのか」


 それは、一見突き放すようでいて、実際は――誰よりも彼らの未来を想っている証だった。


 リリアは気づいていた。


 ロブは、すでに一度“別れ”を経験している。


 誰かを失い、そして、それでも歩き続けてきた。


 ――いや。


 それは、もしかしたら。


 この場にいる誰かなのかもしれない。


 エドガーかもしれない。フィリアかもしれない。セラフィナかもしれない。そしてリリア自身かもしれない。


 あるいは、全員だったのかもしれない。


 ロブの記憶の中では、三年後、もう誰も生きていない……そんな最悪の未来が、すでに存在しているのではないかと――


 喉が詰まるようだった。


 だからこそ、“選ばせる”。


 ロブは、そういう人だ。


 無理に縛らず、でも、背中を押してくれる。希望と覚悟を同時に託すような――優しすぎる師匠の、精一杯のやり方。


 フィリアは歯噛みしながらも黙り込み――やがて、ふいと顔を背けた。


 ロブの言葉が、彼女の芯に届いたのだと、リリアにはわかった。


 一人で、十字架を背負おうとしている。


 それが、ロブという人だった。

 どれほどの苦難を前にしても、決して他人にそれを押しつけない。


 自分で選ばせる。決して強制しない。

 それが彼なりの誠実で――それゆえに、不器用で、痛ましい。


 だったら、自分はどうするのか。

 どうしたいのか。


 リリアは答えを出した。


 決意とともに、一歩、前に出る。

 誰に促されたわけでもなく、誰の顔色を伺うでもなく。


 ロブがゆっくりと彼女を見る。

 その瞳には、余計な感情は何もない。ただ、受け止めようという静かな意志だけがあった。


 その視線を正面から受け止めながら――

 リリアは、真っ直ぐに言った。


「わたし、ロブさんが嫌いです」


【リリアの妄想ノート】


あのとき、どうしても言わなきゃいけないって思った。

でも、どうしてあんな言い方しかできなかったんだろう。


「ロブさんが嫌いです」なんて。


ほんとは違う。嫌いなはず、ないのに。


ずっと怖かった。

何も知らされずに巻き込まれていたらって思うと、悔しくて、不安で、知ってるのに何も言わないロブさんを心のどこかで責めてしまってた。


でも……知ってしまえば、もっと怖くなる。

これから起きること。誰かがいなくなるかもしれない未来。

ロブさんがそれを全部、たった一人で背負おうとしてたこと。

あんな顔、初めて見た。


優しさって、痛いんだなって思った。

誰かのために優しくなるってことは、その分だけ自分が苦しくなるってことなんだ。


ロブさんが、わたしたちに「選ばせる」って言ってくれたのは、

その優しさの、たぶん、最後の一歩だった。


だから、ちゃんと答えたかった。

……それなのに、言葉が見つからなかった。


「好きです」って言えたらよかったのかもしれない。

でも、それじゃだめだった。

今の私は、ただの「弟子」でいたくなかった。


ロブさんの覚悟を、言葉じゃなくて、同じ痛みで受け止めたくて。


だから……ああするしかなかったんだと思う。


……わたしに嫌いって言われても、ロブさんは動じないだろうけど。


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