第86話 薪と嘘の重さ
「あなたがアウロラグナ。お会いできて、光栄だわ」
紫の瞳が細くなる。ライゼの声は冷たくも礼節を忘れず、まさに“北の魔王”の風格そのものだった。
「ほっほっほ、こちらこそ。新しき北の魔王殿に、こうして空の上でお見えできるとは……誠に光栄じゃ」
応えるのは、空を駆ける巨体――蒼翼竜アウロラグナ。口調は穏やかだが、その翼が生む気流は容赦なく吹き荒れていた。
そんな中、優雅に挨拶を交わすふたりをよそに。
「た、たかぁあぁぁぁいぃぃぃ〜〜〜!!」
リリアの悲鳴が、風を裂いた。
背中の鱗に必死でしがみつきながら、彼女は半泣きで叫んでいる。マントはばさばさと煽られ、ポニーテールは乱れ、瞳には怯えと涙が滲んでいた。
「ど、どこ掴めばいいのよこれ!? 滑るんだけど!? 鱗が意外とつるつるなんだけどぉおおおっ!」
「うっ……うぐ……が、頑張って耐えなさいな……! ああでも……わたくしも無理ですわああああっ!!」
セラフィナも風に煽られながら、いつもの優雅な口調を半ば捨てていた。
「……死ぬ……落ちたらマジで死ぬ……」
「ロブ師匠ぉぉ、どうにかならないんスかこれぇぇぇ!」
エドガーとカイはもはや錯乱寸前、フィリアに至っては口を閉じたまま硬直している。目だけが真っ白だった。
その腕の中でハウルも目を閉じ風に打ち付けられている。
そのなかで、ロブとライゼはというと。
「やっぱりドラゴンに乗って飛ぶのは爽快だな。風がちょうどいい。あの頃を思い出す」
「ええ。これくらいの高度が一番気持ちいいわね。視界も良好、敵の奇襲にも即応できる」
ふたりとも、風の強さなどどこ吹く風。ロブは腕を組みながらくつろぎ、ライゼに至っては強風など感じていないように涼しい顔で足を組んでいた。
「な、なんでお二人はそんな体勢で飛ばされないんですかあ!?」
リリアの絶叫は強風に飲み込まれるかと思いきや、二人の耳にしっかりと届いていた。
「衝撃遮断と重力方向制御の魔法だ」
「私は風を感じていたいから重力方向制御だけでアウロラグナさんに張り付くようにしているの。快適よ?」
文字通り涼しい顔で答える二人。しっかりと声が聞こえるのは、これも恐らく魔法なのだろう。
本当に魔法って便利♪
などと感心している余裕はリリアにはなかった。
「私達にもかけてくださいよお!」
「ドラゴンに乗るなんて滅多にないんだ。スリルを味わえ」
「鬼ぃぃぃぃぃぃ!!」
無情な返答に絶叫する。
ちなみに、魔導公会の刺客――グレイ、ロッシュ、ゼリオス、マイラの四人はというと。
「「「「やめろおおおおおおおおお!!!」」」」
全員、アウロラグナの前脚に縛られてぶら下がっていた。巨大な爪に縄で吊るされ、空中ブランコよろしく振り回されながら絶叫を上げている。
「いやああああああああッ! 脳が浮いてるうううう!!」
「これ拷問だろ!? やめろおおおおおお!!」
「せめて地面を見せるのやめてえええ!! 高さがリアルすぎんのよォ!!」
「……ごめんなさいごめんなさいもう二度としませんだから降ろしてくださぁいぃぃぃ!!!」
突風に煽られながら叫び続ける彼らの姿は、はたから見れば滑稽という他なかった。
そうして、蒼き巨影は一直線に――リルダン山脈の麓にある、あの寒村へと向かっていた。
リルダン山麓の寒村――再び吹雪が勢いを増す中、その空に青き影が落ちた。
アウロラグナの翼がゆっくりと風を切り、地を踏みしめるように着地する。雪が爆ぜ、地鳴りと共に冷気が巻き上がった。
その威容を前に、村人たちは言葉を失う。
震える声が、どこからともなく漏れた。
「ド、ドラゴン……!」
「く、来るなっ……!」
老人が子をかばい、若者が家から飛び出し、誰もが慌てふためく。誰の目にも、それは“絶望の顕現”に映った。
だが、その背から、ゆっくりと人影が降り立った。
黒いマントの青年――ロブだった。
「落ち着け。このドラゴンは――人を襲わない」
その声に、空気が一瞬、止まる。
ロブの隣に並ぶライゼ、リリアたちの顔も真剣だった。
「こいつは操られていただけだ。悪意があったわけじゃない」
「そ、そんな……でも、死体が出たんだぞ!? 焼けた死体が……!」
誰かが叫ぶ。怯えと怒りが混ざった叫びが、空気を震わせる。
ロブは無言で振り返った。
アウロラグナの前脚に縛られたまま、青ざめた四人の男女を引きずり出す。
「その件については――こいつらが“犯人”だ」
静かに、重く、言葉が落ちる。
「え……?」
どよめきが、村を包んだ。
「人を殺しておいて、ドラゴンのせいにした。ギルドに討伐依頼を出させ、正式な依頼としてドラゴンを討伐し素材を得ようとした」
信じられないという目で、村人たちがロブを見た。
ただ一人――村長ハルベルトだけが、目を閉じた。
その顔に滲んだのは、驚きでも怒りでもない。諦めだった。
「……やっぱり、あんたは知ってたな」
ロブの声が静かに響く。
「村人の死が、ドラゴンの仕業じゃないことを」
囲炉裏の火が、ぱちりと跳ねた。
ハルベルトは、深く丸めた背中で静かに語り出す。
「……あれは、数日前のことじゃ」
凍てついた夜明けに、山を見上げた若者がひとり。
――青い影が山へ向かって飛ぶのを見た。
「“ドラゴンだ”と、そう叫んで……たったひとりで、確認しに行ってしまった」
若さゆえの無謀だった。誰も止められなかった。
それきり、戻らなかった。
不安が村に広がり、次に山へ向かったのは、その若者の友だった。幼い頃から共に育ち、何度も山に登っていた、信頼できる青年だった。
彼は数時間後、帰ってきた。
両腕に、炭のように焼けた、無残な死体を抱えて。
「半分、骨じゃった。衣も焼け、顔もわからん。……けど、あれは間違いなく、あの子じゃった」
村に、悲鳴が響いた。
誰かが「ドラゴンだ!」と叫び、それが口火となった。
村人たちは恐慌をきたし、叫び合い、怯え、罵り合った。
だが――
「……わしは、違うと思うた」
ハルベルトは、囲炉裏の火を見つめたまま、低く言った。
「焼け跡の広がり、周囲の残骸、足跡、焼き具合の不自然さ……どれも、ドラゴンが吐いた“炎”とは違う。だから、ギルドへの依頼は見送った」
その夜。
マイラたちが現れた。
『村長、お願いがありますの』
女は、そう言って袋を差し出した。
『"あれはドラゴンにやられた”ことにしてほしい。そうすれば、ギルドや王国から討伐報酬が村にも支給されます。村の皆さんも……助かるはずでしょう?』
女の目は、笑っていた。
口調は柔らかいのに、底冷えのするほど残酷だった。
村長は黙って、袋を見つめた。
そして……思い出した。
あの死体を抱えて戻ってきた若者――あいつが、妙だったことを。
目が泳いでいた。
何かに怯えるように、けれど口を噤み、ただ「ドラゴンがやった」と繰り返していた。
その言葉に、どこか芝居がかった節があった。
翌朝――彼は金を持って村を出て行った。
村に何も告げずに。
そのとき、ハルベルトは悟った。
あの子も、金を掴まされたのだ。
山で死体を見つけたその場に、マイラたちが現れたのだろう。
そして、“嘘の口裏合わせ”を、引き受けた。
「……あの子は、素直で真面目な子じゃった……。だが、金というのは怖い。いくらでも、人を狂わせる」
村長の声が、少しだけ掠れた。
けれど――その目には、涙はなかった。
「ワシは……村の者たちを、守らねばならん」
薪が弾ける音が、部屋に染みた。
「村は、もたんかったんじゃ……。今年は、もう三人、寒さで死んどる。子どももひとり、薬が足りずに肺をやられて死んだ。備蓄は尽き、雪の下には何もない。獣もいない。魚もいない」
手のひらを、重ねるように握る。
「食えん者から先に死ぬんじゃ。黙って、静かに。泣き声ひとつ出さんで、冷たくなっていくんじゃ……!」
囲炉裏の火が、ぱちんと爆ぜた。
「そのとき、あの金があれば――子どもをひと冬越させられると思うた。婆さまの部屋に薪を足せると思うた。……そう思うたんじゃ……!」
リリアは、息を呑んだ。
ロブもまた、表情を変えず、その老いた背中を見つめていた。
「だから、ワシは……飲み込んだ。この罪を。村の未来を買うために、悪魔と握手をしたんじゃ」
その言葉には、開き直りも、弁明もなかった。
ただひとつ、“選んだ者の覚悟”があった。
「……お前がその命を奪ったわけじゃない。殺したのは、あいつらだ」
その言葉に、ハルベルトは一瞬、顔を上げた。
だが、ロブの視線は変わらなかった。
「だが――それを、黙っていた」
焚き火の炎が、ロブの瞳に揺れる。
「“死”を、嘘で包んで、金と引き換えに利用した。それは、真実を踏みにじる行為で、死者を冒涜する行為だ」
「……わかっておる」
ハルベルトの声は、かすれていた。
「ワシは……殺された者を、憐れむより先に……村の薪のことを考えた。子どもの食い扶持を……」
「だから、金を受け取った。村を守るために、“嘘を飲み込んだ”――そう言いたいのか?」
ロブの言葉は冷たくはなかった。けれど、容赦はなかった。
「お前が怒るべきだったのは、殺されたその者のために、だ。命を弄んだ奴らに対してだ。だが、お前が選んだのは“取引”だった」
その言葉は、刃のように胸に突き刺さった。
「……ああ。そうじゃ。……ワシは、怒らなかった」
ハルベルトは、拳を膝の上で強く握った。
「あの者を殺した奴らに、声を荒げることもなく、ただ……金の音を聞いて、判断してしまったんじゃ。村を守るために……それが“最善”だと思い込んで……」
「間違っていたとは言わない。だが、正しいとも言わない」
ロブの声が、囲炉裏の火に重なる。
「だから、償え。黙っていたことを。見て見ぬふりをしたことを。死者を、“手段”に変えたことを」
村長は答えなかった。
ただ、背を丸め、炎を見つめたまま――深く、深く、沈黙を守った。
視線を逸らさず、うなだれず、唇を引き結んだまま、ただ黙って頷いた。
覚悟の顔だった。
「……村長さん」
そっと声を発したのは、リリアだった。
彼女は小さく息を吸い、ハルベルトに向き直った。
「本当に、これで……よかったんですか?」
声は、震えていなかった。
けれど、胸の奥からにじむような、苦しみがあった。
「お金で得た平穏なんて、いつか崩れる。嘘は、いずれ誰かをもっと深く傷つけることになる。それでも……」
問いかけは、言葉の途中で止まった。
ハルベルトは、リリアの目を見ていた。
そして、絞り出すように、言った。
「……わかっとる。ワシも、ようわかっとる……。それでも、わしは……あの晩、あの子をを裏切ったのじゃ……!」
その言葉に、誰も、何も言えなかった。
囲炉裏の炎が、少しだけ沈んだ。
外では、夜の帳がゆっくりと降り始めていた。
その夜、一行は村長ハルベルトの家に泊まることとなった。
部屋の中は狭く、寒さをしのぐには充分でも、気持ちを暖めるには少しばかり足りなかった。
リリアは、眠れなかった。
布団に潜って目を閉じても、村長の顔が、やせ細った村人の姿が、脳裏を離れなかった。
呼吸を潜めるように起き上がり、襖をそっと開ける。
囲炉裏の火は、まだ消えていなかった。
その前に――村長ハルベルトが、ひとり、背を丸めて座っていた。
じっと、火を見つめていた。まるで何かに赦しを乞うように。
リリアは声をかけられなかった。
言葉が、見つからなかった。
ただ、軽く会釈だけして、外に出た。
雪は止んでいた。
星はなかったが、月は出ていた。静かな光が、白い地面を淡く照らしていた。
焚き火の赤が、その景色の中で、小さく揺れていた。
ロブだった。
ドラゴン――アウロラグナの脇で、丸太に腰を下ろし、手にした枝で焚き火を突いている。
「……眠れないんですか?」
リリアの問いに、ロブは横目をちらりと向けて、軽く頷いた。
「お前も、だろ」
そう返されたことが、少しだけ嬉しくて。リリアは静かにロブの隣に腰を下ろした。
ぱち、という音だけが、しばらく続いた。
やがて、リリアはぽつりと口を開いた。
「……わからないんです」
焚き火を見つめたまま、言葉を続ける。
「村人たちは、何も知らないほうが、幸せだったかもしれない。村長さんだって……罪に問われなければ、もっと穏やかでいられた」
焚き火の炎が、リリアの横顔を赤く照らす。
「……だったら、私たちは……何のために来たんでしょう」
ロブは、火に枝をくべながら、低く呟いた。
「……人の弱さを、忘れるな」
その声は、とても静かだった。
「誰だって、恐怖には負ける。飢えには、勝てないこともある。自分より、誰かのためにって動いた結果が……間違いになることもある」
「……でも」
「俺も――」
ロブの言葉が、焚き火の音に溶けた。
「俺だって、何が正しいなんてわからない」
リリアは、顔を上げた。
ロブの目は、まっすぐに炎を見ていた。
「だからこそ、問いかけるんだ。何が大事なのか。何を守るべきなのか。何を失ってはいけないのか……」
その言葉は、夜風よりもずっと静かで、炎よりもずっと熱かった。
「正直、それでも――答えは出ていない」
リリアは、何も言えなかった。
「……人とは、面倒なものよな」
低く、どこか寂しげな声が、頭上から響いた。
アウロラグナだった。巨体を伏せ、目だけを焚き火に向けている。
「己の気持ちに正直に生きることが……罪深く感じるとは。長く生きたが、未だに解せぬ」
老竜の瞳が、ひときわ静かに揺れた。
「ワシらは嘘を吐けぬ。正直にしか生きられぬ。だが、それゆえに人の選択が、どうにも複雑に見えるのじゃ」
その声は、怒りでも嘆きでもなかった。
ただ、“外側から世界を見続けた者”のつぶやきだった。
リリアは黙って、火を見つめた。
ロブもまた無言だった。
しばらくは二人して火の揺らぎを見つめていた。
やがて、リリアがぽつりと口を開いた。
「……ロブさんも、村長さんの気持ちが、わかるんですか?」
問いかけは、風に溶けるような小さな声だった。
ロブは火を突く手を止めず、静かに言った。
「ああ。俺も村を持つ身だ。それ以前に、飢えに苦しんだことは何度もあるし……仲間を失ったこともある」
焚き火が、彼の影を地面に映し出して揺らす。
「目の前に“助かる選択肢”がぶら下がったとき、手を伸ばすしかなかった経験もな。嫌でもわかるさ、村長の迷いも……その重さも」
リリアは、小さく息をのんだ。
自分の知らない過去が、ロブにはいくつもある。
それでも、こうして誰かの前に立ち続けている。
だからこそ、言わずにいられなかった。
「……それでも、選んだんですよね。村長さんを断罪する道を」
視線を落としたまま、続ける。
「……魔導公会の奴らに全部押し付けて終わらせることだって、できたはずなのに。どうしてそんなふうに……自分を、貫けるんですか?」
ロブは火を見つめたまま、ふっと笑った。
「俺が強いとか、正しいとか、そんなふうに見えるか?」
リリアは、目を見張った。まさにそれを――思っていた。
けれど、ロブは静かに言った。
「強くもないし、立派でもない。ただ……認めてもらいたかっただけだ」
「……え?」
その言葉は、リリアの胸にふわりと刺さった。
「お前たちの師匠は、ちゃんと“正しいことを選べる人間”なんだって。そう思ってもらいたかった。それだけのことだよ」
揺れる炎の中、ロブの横顔がやわらかく照らされた。
どこまでもまっすぐで、どこまでも人間らしい――そんな不器用な背中。
リリアは、そっと目を伏せた。
心の奥が、ふわっと温かく、切なくなる。
“守られている”と気づいたときにだけ、感じるものがある。
それはきっと、誰よりも強い“優しさ”の正体。
リリアは何も言わなかった。ただ、火に手をかざしながら、静かに頬を赤らめた。




