第81話 雪中の粛清官
雪が静かに降り積もる岩陰で、数人の影が身を潜めていた。
白い息が風に流れ、凍える静寂に溶けて消える。
彼らは魔導公会直属の監視部隊――表向きは、強力なドラゴンの討伐に出た特別遠征隊。
だがその真の目的は、《二重の粛清》だった。
「……あれが、“海老男”の一行ってわけか」
灰色のフードを目深に被った男――ゼリオスが、前方を睨みながら呟いた。
その目には、薄い皮肉と確かな警戒の色が宿っている。
その隣、毛皮のコートを纏った大男――グレイが、積もった雪を払いながら低く唸る。
「間違いねぇ。あの銀髪の魔族……スタイルも顔も派手すぎて、目立ちすぎてる。目印としては最高だな」
彼が顎をしゃくった先、雪原を進む七人の一団がいた。
ロブを中心に、リリア、セラフィナ、カイ、エドガー、フィリア――そしてその一歩後ろを歩くライゼ。
「バルハルト支部のギルドマスター、ライゼ……北の魔王にして、魔族と人間の“偽り平和の象徴”だ」
ゼリオスが言葉を吐き捨てるように続けた。
かつて起こりかけた人魔戦争を、ギルドと魔族の密約によって無理やり抑え込んだ女。 それを“平和の英雄”などと持て囃す風潮に、公会はかねてより不満を募らせていた。
「奴が動けば、海老男も動く。それが前提だった」
グレイがニヤリと笑った。
「で、わざと強力なドラゴンの出現情報を流した。そんな報告、ライゼが見逃すわけがねぇ」
「釣り餌ってわけね」
そう言って、白銀のローブを纏った女が静かに歩み寄る。
魔導杖を軽く握る彼女――マイラは、この任務の監視指揮官。魔導公会本部所属の“粛清官”である。
冷たい瞳が、一行を追う。
「今回の目的は明確よ。ドラゴンの素材確保と、ライゼの始末。そして、万が一にも“海老男”が関与すれば――彼ごと消す」
その声に一片の感情もない。まるで計算式を読み上げるかのような無機質さだった。
岩陰に座り込んでいた若い魔導士――ロッシュが、気圧されつつ口を挟む。
「で、でも……本当にやれるのか?ライゼはSランクより強いんだろ?」
「そりゃあ、仮にも魔王様だからな。人間の冒険者が勝てる相手じゃない」
ゼリオスが鼻で笑った。
「だから“魔導兵器”を用意してんだよ。旧大戦時代の遺物――《カタストラ・アークⅣ》。
ドラゴンを仕留めるついでに、巻き込めばいい」
「公会がここまでやるってことは……つまり」
グレイが呟く。
「――あの連中が、“邪魔”ってことだ」
誰も否定しなかった。
この計画は、黙認ではない。明確な承認のもとに動いている。
マイラが視線を逸らさずに言った。
「私たちは“監視者”じゃない。“処理のための目”よ。……始末して、記録して、送って、終わらせるだけ」
マイラは、雪原の果てを睨みつけながら、ゆっくりと続ける。
「かつて人間と魔族が戦いを繰り返した時代があった……いや、正確には、繰り返させられていた、が正しいわね」
それは回顧のようでもあり、報告書をなぞるような事務的な口調でもあった。
「種族の対立、国家の対立、宗教の対立――それらを放置すれば自然と戦争は起こる。私たち魔導公会は、それを“導く”立場にあった。混乱の中に秩序を創るために」
ロッシュが息を呑むのが分かった。隣のゼリオスも一瞬だけ眉を動かしたが、反論はしなかった。
マイラの声は静かで、冷たく、確信に満ちていた。
「世界が混迷に満ちていたあの時代、誰もが力を求めた。魔導技術も、戦術も、兵器も。だから、与えたのよ。必要に応じて、対立する両陣営に均等に」
それは、絶望を管理するようなやり口だった。
「敵を倒す手段を渡せば、勝てると思う。けれど、勝たせはしない。公会の望むのは、終わらない均衡。どちらかが勝ち過ぎれば、秩序が壊れる。負け過ぎても混乱する。だから、調整する。抑え、煽り、導く」
その瞳に、ためらいはない。マイラはそれを“当然の業務”として語っていた。
「そして今、秩序を乱す者が現れた。“平和の英雄”だの“魔族との共存”だの、甘い理想を振りかざして。 その象徴が、ライゼ。そして――彼女を支える、あの海老男」
その名を口にする時、マイラの声は少しだけ湿り気を帯びた。
「この雪原は、ひとつの節目になる。魔導公会はもう“管理”ではなく、“再構築”の段階に入ってるの。新しい秩序のためには、古い希望は邪魔なのよ」
吹き荒ぶ雪の中で、静かに語られたその言葉は、暴力よりも重く響いた。
この戦場における正義も悪も、すでに意味を失っている。
あるのはただ、“正しく世界を操っているのは誰か”という現実だけだった。
マイラの言葉は、冷たい雪原よりも冷たく、重く響いた。
雪を裂くように、空が鳴った。
「来たわね……」
マイラが呟いた瞬間、彼女の背後で魔導機の端末が警告を点滅させる。
空の一点――雲の狭間を、轟音とともに黒い影が駆け抜けた。
まるで空間そのものが歪むかのような速度で、巨大な影が降下してくる。
その姿を認めた全員の背筋が凍りついた。
刃のような翼。
ねじれた双角。
燃え上がるような深紅の瞳。
ドラゴン――その巨影は、まさしく“狙って”飛来していた。
「目標、接近速度上昇。高度七百、風上より降下中――」
魔導端末の報告を遮るように、地鳴りがした。
雪原が揺れる。
ロブたちのいる地帯へ、竜が向かっているのだ。
「全員、遮蔽の準備を!」
マイラが叫ぶと同時に、部隊員たちが一斉に魔導障壁を展開する。
ゼリオスが呪符を投げた。
グレイは大盾を雪に突き立て、ロッシュが震えながら詠唱を始める。
だがその場の誰もが、心のどこかで理解していた。
このドラゴンは、単なる“素材”ではない。
誰かの意図を察知し、まるで意思を持つかのように牙を剥いている。
「……計画どおり、ね」
マイラの目が細められる。
視線の先、雪原の中央でロブが立ち止まっていた。
彼は静かに手を上げ、後続の弟子たちの足を止めさせる。
「全員、戦闘態勢だ。……まずいのが来る」
その声は静かだった。だが、それだけで空気が変わる。
虚空に、クォリスの警告が響いた。
『進行方向より高出力の魔力反応を感知。速度、規模ともに規格外。――ドラゴンと断定』
フィリアが目を細め、カイが剣の柄に手をかける。
エドガーが地面を蹴り、素早く隊列を組む。
「あそこ!」
リリアが叫んだ。
雪雲を裂くように、漆黒の竜影が迫ってくる。
――そして、事態は誰にも制御できない方向へ転がり始めていた。




