第79話 海老男、極寒の地でスマートに振る舞う
「寒い……」
フィリアがしみじみと呟いた。声に棘はない。だが、そこに込められた“呆れ”と“静かな怒り”は、冷気よりも重く染みる。
吐いた息が白くなって、彼女の膝の上で丸くなるハウルの毛並みにふわりと落ちた。
すぐに溶けるかと思いきや、そのまま凍った。ハウルがくしゃみをひとつして、フィリアのマントに鼻を擦りつける。
季節は初夏にさしかかっているのに、この地方はアルトリア北端だけあって、寒々しく、ドラゴンが目撃されたというリルダン山脈の峰には雪の衣が覆いかぶさっていた。
全員が、現地で調達した防寒具を身に着けていた。
粗い羊毛を裏打ちにしたコートに、毛皮のブーツ、手編みのミトン。雪山装備としては最低限だが、冒険者向けではないので動きにくく、どこか野暮ったい。
それでも買わなければ、凍えるしかなかった。
「……ごめん」
ライゼが申し訳なさそうに言った。ローブの襟をぎゅっと握りしめ、肩をすくめるその仕草は、どこか子どもっぽかった。
「本当はギルドで防寒具を用意してたのよ。最新の断熱繊維製、雪上迷彩バージョンのやつ……」
「ほう?」
エドガーが冷えた声で反応する。
「でも、その……出発を急いだから、倉庫に取りに行くの、忘れたの」
「でしょうね………」
リリアがため息を吐いた。白い息が勢いよく吹き出して、前髪がぴょこんと跳ねる。
「だから現地調達になったのよ。おかげで、買った武器屋が今季最高売上を記録したと喜んでたわ」
「で、その費用は……?」
「ロブが全部出してくれたわ」
ロブはどこか遠い目をしていた。凍てつく銀世界を背に、黒いマントの上にモコモコの毛皮マントを二重に羽織っている。絵になる立ち姿だが、本人は真顔だった。
「気にするな。金なんて、使い道もないしな」
さらりと、ロブは言った。まるで昼飯を何にするか迷っていた、ぐらいの軽い調子だった。
「……必要経費だろ。寒さで凍えるほうが面倒だ」
その声音には、いつもの淡白な響き。だが、妙に頼もしさがあった。
「……ごめん。私の分まで。帰ったら、ちゃんと返すから」
ライゼが視線を伏せたまま言うと、ロブは少しだけ笑った。
「いいよ。プレゼントってことにしとく」
「……は?」
言葉が予想外すぎて、ライゼの目が一瞬泳ぐ。
「お前とは長い付き合いだしな。何かと世話にもなってるし、これからも持ちつ持たれつってやつだ。礼の一つだと思ってくれればいい」
その瞬間、ライゼの顔がふいに赤くなる。気温のせいだけではなかった。唇を噛み、視線を逸らし、そしてごく小さな声で呟いた。
「……ありがと」
その手が、着ていた新品のコートの前を、そっと握りしめた。
フィリアがすかさず隣のセラフィナの脇を肘で小突く。
「今の、どうよ」
「……スマートですわね。あれはもう、受け取るしかありませんわ」
セラフィナが鼻をすすりながら言う。鼻が赤いのは――念のため言っておくが、単に寒いからだ。
二人はちらりと、リリアの方を見やった。
案の定、というべきか。
リリアは口を尖らせていた。何が気に入らないのかは、火を見るより明らかだった。
(……やっぱりこの二人の距離感、羨ましいな)
ロブのライゼに対する接し方は、どこか対等で、気安くて、でも信頼がある。
それに比べて――自分は。
リリアの胸に、小さなもやもやがくすぶった。それはとても個人的で、とてもやっかいな感情だった。
「しかし、いくら北方だからってこの季節にこの寒さは異常だな。魔素が悪さしてる」
ロブが眉間をわずかに寄せ、空気の澱みに神経を研ぎ澄ませる。
《観測中……異常魔力反応、確認。リルダン山脈北東部にて、定常値の約六〇倍。密度・波形ともに自然発生の範囲を逸脱》
耳元でクォリスの声が響いた。
「六十倍……!」
リリアが息を呑む。だが、ロブは動じない。瞳を細め、白く煙る空を見上げた。
「この感じ……おそらくドラゴンだな」
「え……?」
リリアの声が震える。空想の中だけの存在だと思っていたその名が、現実のものとして口にされた。
「気候を歪めるレベルの魔力を放つのは限られている。中でもドラゴンは別格だ。存在そのものが環境に干渉する」
「まじかよ……」
エドガーが唸った。
カイがふと地図を思い出したように口を開く。
「ロブ師匠、ここって……令和の時代で言うとどの辺りなんですか?」
「ノルウェーの北端近く。夏でも寒さが残る土地だ。北極圏まではいかないが、かなりの高緯度になる」
「じゃあ……魔族領って、この辺なんですか?」
カイの問いに、ロブは首を横に振った。
「いや、違う。魔族領はもっと西寄りだ。リルダン山脈とは別の山系を隔てた向こう側――アルトリア王国から見て北西にあたる。ドラゴンは魔族の支配下じゃない。そもそも分類が違う」
「なるほど……」
皆が黙り込む。事態の規模と複雑さが、ひしひしと胸にのしかかってくる。
「ドラゴンがなぜこの山脈にいるのか、なぜこの時期に姿を見せたのか――すべては、これから明らかにする必要がある」
ロブの声が、静かに響いた。
風が吹き抜け、リリアの背筋をゾワリとさせる。
村は静まり返っていた。音がない。
吹き抜ける風の音も、雪を踏む足音も、なぜか耳に届きづらい。まるで、空気そのものが重たく粘ついているような、妙な圧があった。
「……誰も出てこないな」
エドガーが眉をひそめる。視線の先にある民家は、どれも窓を閉ざし、煙突から煙ひとつ立っていない。生き物の気配が希薄だった。
「すみませーん、ギルドから来ましたー!」
リリアが村の中央でで声を張る。が、返事はない。
ややあって、ぎぃ……と軋む音とともに、一軒の家の扉がほんのわずかだけ開いた。隙間から、乾ききった視線が覗く。
「……よそ者か……?」
声はかすれていた。まるで、久しぶりに喋ったような口調だった。
「ギルドの者だ。今回の依頼について話を聞きたい」
ロブが前に出て、穏やかに言う。威圧感はまったくない。だが、声には芯があった。
「……あんたらが、討伐に来たのか?」
「まずは詳しい話を聞きたい。対処はそれから検討する」
しばらくの沈黙ののち、扉が少し開く。
「……中に入れ。寒かろう」
囲炉裏にくべられた薪が、ぱちぱちと音を立てていた。部屋の中は狭く、煤で黒くなった壁が重苦しい。
「……わしがこの村の村長、ハルベルトじゃ」
老人は深く腰を丸め、震える手で茶を差し出してくる。年のせいだけではない。目の下に深い隈。心労が積もっているのは一目瞭然だった。
「ここ数年、この辺りも暖かくなってきとった。だが、今年は逆じゃ……」
村長は天井を見上げるように言った。
「雪が、降り止まない。寒さが、骨に刺さる。鳥も、獣も消えた。リルダンの山が、黙っとる」
「“黙ってる”ってのは?」
ロブが静かに聞き返す。
「あの山は本来、賑やかなもんじゃ。風が鳴り、岩が崩れ、獣の唸りが聞こえる。だが、今は違う。あそこは、まるで……生き物の気配が全部、止まってしもうたような……」
「それで、“喰い殺された”ってのは?」
エドガーの問いに、村長の顔がわずかにこわばった。
「……三日前、若いのがひとり、登山口付近で遺体で見つかった。体が焼け焦げて、半分は骨だった。仲間が見つけて、わしに言った。“ドラゴンを見た”と……」
「その目撃者は?」
ロブがすかさず訊く。だが、村長は首を横に振った。
「……村を出た。怖くなったんだろう。もう、帰ってこんよ」
「遺体は?」
「弔った。あんな無残なもん、置いとけるかい……」
ライゼが表情を変えずに、ぽつりと呟いた。
「……ずいぶんと早い対応ですね」
その一言に、場の空気が微かに変わる。
村長は、それ以上何も言わなかった。ただ火を見つめ、指先で茶碗をゆっくり回す。
リリアは思う。
――この人、何かを隠してる。
それは確信めいた直感だった。だが、今はそれ以上踏み込むタイミングではなかった。
ロブが立ち上がる。
「ありがとう、村長。とにかく、山を見に行ってみる」
「……気をつけなされ。あそこは今、山じゃない」
その言葉の意味を問う前に、村長は再び口を閉ざした。
囲炉裏の火が、音を立てて燃え続けていた。
【リリアの妄想ノート】
『え、これって、そういうイベントだったの?編』
いやいやいや、待って?
あの流れ、どう見ても“お前にだけ特別に買ってやった”っていう王道イベントじゃない?
しかもライゼさん、しれっと顔赤くしてるし! あの新品のコートぎゅってしてるし! 何あれ、反則では!?
ていうかあれでロブさんは普通の顔してるのが一番こわいよ!
私のコート代も払ってくれたはずなんだけど!?
お礼言いそびれたんだけど!? ていうか、私のは? 「お前にも世話になってるし」的なやつは!?
……いや、うん、分かってるよ?
私には師弟としての信頼があって、ライゼさんとは別の関係で、っていうのは理屈では分かる。理屈ではね?
でもね?
理屈と心は別なんだよッッ!!!
はあ……次は私がロブさんに何か贈るターンかな……。
でも何がいいかな……。チョコ? 酒? それとも靴下? いや、いっそ手編みの……
――って、違う違う! ここ妄想ノートじゃん! 本編に出るやつじゃん! やばいやばい消して消して!!(でも一応とっておく)
……あ、えっと、ここまで読んでくれて、ありがとうございます。
もしよかったら、感想とか、ブックマークとか……してもらえたら、すごく嬉しいです。はいっ。
(がんばります……!)




