第76話 魔王の嫉妬と、弟子の発熱。静かな夜に交わされた海老男の決意と未来
弟子たちが去り、テーブルには静けさが戻っていた。
窓の外では夜風がカーテンをわずかに揺らし、蝋燭の火がかすかに揺らめいている。
ライゼはワイングラスを指先でくるりと回しながら、ふぅとため息をついた。
「……まったく。もうちょっと考えて発言しなさいよ」
その口調には呆れと苦笑が混じっていた。
「“全部受け止めてやる”って、あなた……」
斜め向かいに座るロブを横目に見ながら、肩をすくめる。
「あの子、完全に固まってたじゃない」
言葉通りだった。
ロブの“受け止めてやる”宣言のあと、リリアは頬を真っ赤に染めたままフリーズ。
セラフィナとフィリアが何を言っても、揺すっても、まったく反応が戻らなかった。
結局、セラフィナたちが彼女を宿まで連れ帰ることになったのだ。
ロブも一緒に立ち上がろうとしたが――
『久しぶりのご友人との歓談なのですから、どうぞお続けくださいませ。リリアさんのことは、わたくし達が責任を持ってお連れしますわ』
そう言って、セラフィナは同行を拒否した。
口調はいつもの優雅なものだったが――
その言葉には、有無を言わせぬ迫力がにじみ出ていた。
ロブは結局、そのまま席に戻るしかなかった。
そして今、向かいにいるのは――
藍のドレスに身を包み、紫の瞳でこちらを見ている、かつての戦友・ライゼだけだった。
グラスの中の赤が、ゆっくりと波を打つ。
ライゼはその揺れを眺めるようにしながら、ふっと笑みを漏らした。
「……あの子たちが、少し羨ましくなっちゃったかも」
その一言に、ロブの眉がわずかに動く。
「ほう?」
曖昧に返しつつ、ロブは残り少ないワインを一口、喉に流し込んだ。
その視線の向こうで、ライゼは続ける。
「あの子――リリアって子はね、たぶん思ったのよ。自分があなたと同じくらい強くて、同じくらい長く生きられたらって。だからあんなこと、言ったんでしょ」
声は穏やかだった。
けれど、その奥にある感情は、どこか削れたような重みを帯びていた。
「……でもね、私も思ったことあるの。もし、私があの子みたいに、昔のライゼやセレニアみたいにあなたの弟子になれてたら――」
言葉を一拍置き、笑みの端をわずかに上げる。
「……ずっと、あなたのそばにいられたのにな、って」
ロブの手が止まる。
「……冗談だろ」
低く、わずかに戸惑いの混じった声。
だが、否定ではなかった。
ライゼはグラスをテーブルに戻し、肩をすくめた。
「――そういうとこよ。あんたの嫌なところは」
言葉にトゲはない。
だけど、確かに棘は刺さっていた。
ライゼは、ふと視線を向ける。
「……リリアって子、あなたのことが好きなのね?」
さも当然といった口ぶりだった。
ロブは少し間を置いて、低く呟く。
「……そう思うか?」
その曖昧な返答に、ライゼの眉がぴくりと跳ねた。
「またそれ? また“気づいてません”って顔するつもり?」
呆れたように口を開いた彼女は、ロブの顔を覗き込む。
そのまま怒鳴りつける気満々だった。
が。
「……え?」
ライゼの目が見開かれた。
ロブは、いつもの飄々とした表情でも、皮肉げな顔でもなかった。
――頬が、うっすらと赤い。
「ちょ、まさか、あんた……」
口調が崩れそうになるのを堪えるライゼをよそに、ロブはまっすぐな目で、わずかに身を乗り出した。
「……本当に。あいつ……俺のこと、好きだと思うか?」
声は小さかった。
けれど、間違いなく“本気”だった。
まるで恋に落ちた十代の少年が、初めて親友に打ち明けるような――そんな、信じたいけど怖いという、微妙すぎる感情の入り混じった問いだった。
その顔を見たライゼは――頭を抱えた。
「……見え見えよ。あんた以外は、たぶん全員気づいてるんじゃない?」
ワイングラスの縁を指先でなぞりながら、ライゼは皮肉を込めて言った。
ロブは、といえば。
「そうか……」
頷くと、ほんのわずか、唇の端が上がった。
――嬉しそうに。
その表情を見た瞬間、ライゼの中で何かが微かに軋んだ。
面白くない。
心のどこかで、そうはっきり思っていた。
グラスを置く音が、少しだけ強くなった。
「……ねえ、ロブ」
彼女はゆっくりと顔を上げ、紫の瞳でロブを射抜いた。
「私と、あの子の違いって――何?」
ロブの手が、ふと止まる。
「こんなこと……言いたくなかったわよ」
ライゼの声は静かだった。
けれど、その奥にある感情は、どうしようもなく生々しかった。
「私は、あの子よりも……あなたのそばに、ずっと長くいられる」
「……」
「不老のあんたが、この先どれだけ生きるのか――それは私にも分からない。でも、少なくとも人間のリリアよりは、はるかに長く一緒に時間を過ごせるわ」
言葉を選ぶように、唇を噛みながら続けた。
「それって、セレニアだって同じだった。あの人も、長く生きて、強くて、真っ直ぐで……でも、あなたは、彼女にも、私にも――決して傾かなかった」
声にかすかに、痛みがにじむ。
「じゃあ……あなたが、どうして“リリア”に惹かれるのか」
グラスの中のワインが、小さく揺れた。
「私じゃなくて、彼女じゃなきゃいけない理由って……何なの?」
問いかけたその瞬間、ライゼは思った。
――本当は、こんな言葉を口にするつもりなんてなかった。
でも、あの微笑みを見たとき。
ロブの、どこか不器用で、でも確かに“心を許している”あの笑顔を。
その相手が、自分ではなかったとき。
胸の奥でずっと沈殿していたものが、破裂する音を立てたのだった。
ロブは、少しだけ目を伏せ、口を開いた。
「あいつは、俺のことを誰よりも知っている。知ることになるんだ。その上で俺を受け入れ、助けてくれた」
ライゼは眉をひそめる。
彼の言葉の意味が掴めなかった。
ロブは続ける。
蝋燭の灯りが静かに揺れ、彼の表情を影の中に沈ませていく。
「……あいつらとは、ずっと前に会っている。俺がまだ、何者でもなかった頃にな」
その言葉に、ライゼは目を細め、続く言葉を促した。
「今から言うことはすべて真実だ」
ロブは静かに、重々しく続けた。
ゆっくりと、言葉を選ぶように、丁寧に――まるで誰かの墓標を刻むかのように。
語られる声は淡々としていたが、その内容は明らかに、常識を超えたものだった。
時間、記憶、存在――すべてを揺るがすほどの、何か。
やがて、ロブが口を閉じた。
短く、静かに。
すべてを話し終えたという合図だった。
その間、ライゼは一言も発さなかった。
ただ、黙ってロブの話を聞いていた。
けれど、その顔から、血の気がゆっくりと引いていくのがわかった。
初めは、軽い驚き。
次に、理解が追いついたときの絶句。
そして――最後に浮かんだのは、押し殺した哀しみだった。
グラスを持つ指が、かすかに震えていた。
まるで、その話を聞いたこと自体が、ひどく痛みを伴う罪のように。
ライゼはゆっくりと視線を落とした。
蝋燭の炎の揺れが、グラスの影を長く引き伸ばす。
その沈黙の中、彼女はただひとつだけ言葉をこぼした。
「……あの子たちが……」
その先は続かなかった。
けれど、その一言だけで、すべてが伝わっていた。
蝋燭の炎が、揺れながら影を引く。
ライゼはグラスを指先でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「……今まで、どうして黙ってたのよ?」
責めるというよりは、諦めを含んだ問いだった。
長い付き合いだ。
ロブの性格は、痛いほど知っている。
ロブは、少しだけ視線を伏せた。
そして、低く静かに答える。
「……もしかしたら歴史が変わって、リリアたちとは……一生、会わないかもしれないとも思っていたんだ」
そして、わずかに笑うように。
「だけど――出会えた。……出会ってしまったんだよ」
その言葉に、ライゼはわずかに眉を寄せた。
静かな怒りとも、哀しみともつかない感情が、胸に広がっていた。
「……一人で、全部抱え込んでたってわけ?」
ロブは何も言わない。
けれど、それが答えだった。
「本当に……馬鹿よ、あんた」
ライゼは小さく息を吐きながら、苦笑を浮かべる。
「三千年も、誰にも頼らずに孤独を抱えて……ようやく、それを一瞬でも分かち合えたのが――彼女、リリアだったのね?」
沈黙。
けれど、その沈黙が、何より雄弁だった。
ロブは否定しない。
ライゼは、ふぅ、と大きく息を吐き、肩をすくめてみせた。
「……やれやれ。あんたがゴブリンスタンピードの対処を、あの子たちに任せた理由がわかった気がするわ。彼女達には強くなってもらわなきゃならない。それも、短期間で」
そう言って、グラスの残りを口に運ぶ。
そして、ちらりと視線をロブに寄せた。
「――なら、私も協力しようかしら」
ロブがゆっくりと目を上げる。
その視線に応えるように、ライゼはわずかに口元を緩めた。
「……勘違いしないでよね」
紫の瞳が、まっすぐロブを射抜く。
「これは、あんたのためじゃない。あの子たちのため――世界のため。……そして、私自身のためでもあるのよ」
そう言って、ライゼは笑った。
その笑みはどこか、悔しさと誇らしさの入り混じった、複雑で優しい表情だった。
ロブは短く頷いた。
「――助かる」
たったそれだけの言葉だったが、それで十分だった。
ライゼの肩から、少しだけ力が抜ける。
蝋燭の炎がふわりと揺れ、二人の沈黙を包んでいく。
その夜は、静かに更けていった。
***
翌朝。リリアは、布団の中で顔まで毛布をかぶっていた。
熱は高くはないが、頭がぼんやりする。
セラフィナが枕元で冷たいおしぼりを替えてくれ、フィリアはせっせと水分補給を勧める。
エドガーは早朝から差し入れの果物を探しに出かけ、カイは静かにおかゆを作っていた。
「……リリアさん、“受け止めます宣言熱”ってところですわね」
セラフィナの一言に、リリアは返す気力もなく、もぞもぞと枕の中に沈んでいった。
そして――次の日。
リリアは完全に回復し、いつものように背筋を伸ばして部屋に現れた。
「おはようございますっ!」
「……治ったね」
「ね、熱なんて! すぐ下がりますよっ!」
セラフィナは苦笑しつつも安心し、エドガーは「無理すんなよ」とぶっきらぼうに言い、カイは小さく頷いた。そこへ――ドアがノックされた。
「入るぞ」
重たい扉が開き、黒マントを翻して現れたのは、ロブだった。
相変わらず飄々とした軽い調子で、いつものように無駄なく歩いてくる。
リリアは反射的に立ち上がりかけて、ピタリと止まった。
(……やば)
一昨日の言葉が、脳裏にフル再生される。
『お前が望むことを、全力でやれ。俺はそれを全部、受け止めてやる』
――あれは、反則だ。
何度思い出しても反則である。
(なにあれ、プロポーズでしょ? っていうか……え? なに? どうしろっていうの!?)
動揺が収まりきらず、リリアはロブの顔を直視できずに、目を逸らした。
いや、逸らしたというより、全力でそっぽを向いた。
「おは……よ、ございますっ」
声が裏返った。
完全に挙動がおかしい。
そんなリリアに、ロブは首をかしげたが、特に気にする様子もなく部屋を見渡す。
「ちょうどいい。揃ってるな」
セラフィナが「当然ですわ」と胸を張り、エドガーが「なんか嫌な予感すんだけど」と低く呟き、カイは無言で手を止めた。
ロブは、にやりと愉快そうな笑みを浮かべる。
「ギルドからの依頼だ。ライゼからの……直々のな」
「「「……え」」」
その瞬間、リリアはさらに目を逸らした。
ロブの声が頭の中で心地よく響いてくるのが、もう耐えられない。
(ダメだ……顔、見れない……! なんか今、喋られるだけで心臓が痛い!)
しかもロブの表情は、またしても“ニヤリ”系である。
ロブの“ニヤリ”が何を意味するか、弟子たちは知っていた。
地獄の入り口である。
一斉に走る背筋の寒気。
セラフィナが眉をひそめ、エドガーがうめき、カイが眉間に皺を寄せ、フィリアが「あっ、やだやだ、やな予感しかしない」と呟く。
そしてリリアは――顔が真っ赤なまま、ただそっぽを向いていた。
* 次回、「地獄の依頼、開幕」*
――To be continued.
【リリアの妄想ノート】
き、き、昨日のロブさん、反則すぎませんか……?
『お前が望むことを、全力でやれ。俺はそれを全部、受け止めてやる』って……
は? プロポーズですか?? 受け止めるって、どこまでですか!? 未来とか、命とか、私の人生とか!?(落ち着け私)
おかげで私、朝起きたら38度ありました。完璧に“受け止められ熱”です。
……でもね、ちょっと、夢見ちゃってもいいですか?
ライゼさんみたいにはなれないかもしれないけど、
でも私は、私なりにロブさんの“隣”を目指したいです。
明日からまた頑張ります。発熱の原因が“羞恥と幸せ”って、内緒ですよ……?




