第69話 海老男――谷を覆うは静寂の残滓、銀獅子に仰ぐは狩りの果て
ゴブリンスタンピード。
それは“発生した時点で集落一つが滅ぶ”と恐れられる災厄の名だった。
魔物の中でも下等種とされるゴブリン。
だが、集団となった彼らは違う。
リーダー格のゴブリンキングが指揮を執ることで、彼らは戦術を持ち、統制された“兵”と化す。
弓兵、斥候、囮、奇襲、偽装、火攻め。
本来なら本能のまま動くはずのゴブリンたちが、明確な意図と連携をもって動くようになる。
仲間の死体を盾にし、炎を利用し、人間の動きを“見切って”行動する。
それが、ゴブリンスタンピード。
本来なら、A級以上の冒険者を中心に数十人規模の部隊を投入し、
なおかつ防衛ラインを築いて“被害を抑える”ことしかできない。
それほどに、恐ろしい脅威だった。
そんな戦場に、ロイスは今、足を踏み入れようとしていた。
「……静かだな」
谷の入り口に立ち、呟く。
背後には蒼鷹の仲間たち――Cランクの冒険者たちが数名、警戒の構えを崩さずに続いている。
「おかしくないか? スタンピードが発生したって話だったろ。なら、まだどこかにゴブリンが……」
「いや、空気が違う」
ロイスはそう答えた。
風に混じる匂い。土と血と、焼けた肉の臭い――
そして、静寂。
それが逆に、不気味だった。
(まるで戦いが終わった後の戦場のような気配………)
一人ごちながら慎重に谷を進む。
空を見上げれば、黒く焦げた枝。地には焼けた跡と崩れた岩。
そして、その先に――
視界が開けた。
谷底が一望できる場所に出た瞬間、ロイスの喉が、ごくりと鳴った。
(……これは……)
そこには、異様な光景が広がっていた。
ゴブリン。
ゴブリン。
ゴブリン。
死体、死体、死体――
転がる、焼け焦げたもの、凍てついたもの、雷に貫かれたらしきもの。
いずれも一撃で致命傷を受け、無残に横たわっている。
剣で斬られたものもいる。その切り口も鋭く、ほとんどが一撃で絶命したものと一目でわかる。
(相当な手練れだな。俺には真似できん)
素直に白旗を上げながら歩くと、彼はもっと信じられないものを目にする。
横たわるゴブリンの群れの中心。
ひときわ大きな骸――
「あれ……ゴブリンキング……?」
仲間の女魔法使いが呟いた。
それは間違いなく、統率の要たる存在だった。
両腕は砕け、胸元には十字の深い裂傷。
何より、王たる巨体が、まるで“打ち捨てられたただの肉塊”のように転がっていた。
「嘘みてぇだな……」
仲間の一人が、ぽつりと漏らす。
だが、それは確かに現実だった。
負傷者も、民間人の死体も、ない。
あるのは、ゴブリンたちの骸ばかり。
――被害ゼロ。
(これを……たった六人で……?)
報告ではブレイク個体のハウル・キャットを捕獲に行った冒険者が偶然にゴブリンスタンピードの前兆を発見したということだった。
そのまま応戦するから救援を要請するとのことだったが、急なことだったので、当時詰めていた自分たちが先遣隊として派遣、他の冒険者にも伝信し、急行する手はずだったのだが、これは想定していた事態と全く違う。
戦いがあったのは間違いない。
だが、それは“戦争”ではない。
明らかに、一方的な“狩り”だった。
狩る側と、狩られる側。
この場にいたゴブリンたちは、戦う暇すら与えられず、消されている。
(……一体、誰が……どうやって……)
「おう、来たか」
とぼけた男の声が緊張をうちやぶるように響いた。
黒いマントを揺らしながら、一人の男が現れた。
黒髪を一つに束ねた、若い男。
ロイスは、その男を知っていた。
バルハルトでは時折見かけるが、話を交わしたことはない。
ただ、その名を“知っている者の間では”――特別だった。
銀獅子。
ロブスウェル・イングラッド。
知名度こそ高くはない。
だが、冒険者ギルドの中でも古参の者や、実戦経験の豊富な者たちにとっては、忘れられない名前だった。
(……あの、海老男が……本当に目の前に……)
今から二十年前――
王国の北辺で起きた魔族の蜂起を皮切りに、幾つもの街が危機に晒された。
その混乱を鎮め、幾度となく戦場を救った伝説のパーティーがある。
黎明の牙。
現在のギルド統括本部マスター、ゼラン=シュトラウス。
S級魔法剣士にして“翠耀の魔刃”の二つ名を持つセレニア・フィンブレイズ。
そして、その両翼をまとめ上げた剣士が――この男だった。
彼の詳細は公には語られず、ギルド記録の中でも扱いは地味だ。
だが、それは彼が望んだ結果でもあったという。
(伝説を嫌い、称賛から逃げ、弟子の成長を静かに見守る……)
そんな話を、ロイスは昔、ゼラン本人の口から聞いたことがあった。
そのときは半信半疑だったが――今なら、納得できる。
谷を埋め尽くすゴブリンの骸。
被害ゼロ。
しかも、連れていたのは全員Gランクの駆け出し。
(……この結果は、“偶然”では説明がつかない)
そう確信するに十分な存在が、今、目の前に立っていた。
ロブは、涼しげな目でロイスを見やり、いつも通りの調子で言った。
「よう。バルハルトからか?」
ロイスは一拍置き、軽く右手を挙げた。
「はい。Cランク、蒼鷹のロイス・ベイカーと申します。今回のスタンピードの件で、先遣隊として派遣されました」
ロイスは、ロブの背後に立つ五人の若者たちに視線を移した。
まだ幼さの残る紅い髪の少女。背が高く鋭い眼光の銀灰色の髪の少年。高貴な雰囲気を纏った金髪の少女。そして、一見ひ弱な印象を与える水色の髪の剣士に、銀髪のエルフの娘。
(……まさか、こいつらで?)
その思考は、目の前の現実とどうにも結びつかなかった。
「この子たちが……?」
思わず漏らしたロイスの声に、ロブが苦笑する。
「まあ、実地訓練ってやつだ。ちょっと規模が大きすぎたがな」
ロイスは改めてリリアたちを見た。
装備は質素。剣も魔導具も、どれも特別なものではない。
戦いの場に慣れている者の気配も、ほとんど感じられない。
だが、彼女たちの目だけが――静かに燃えていた。
「……信じられねえ」
仲間の一人が呟いた。無理もない。
Cランクの彼らでさえ、ゴブリンの集団を前にすれば簡単にはいかない。
それを、年端もいかぬ駆け出したちが――
ロイスはふと、エルフの少女の足元に目をやる。
そこには、大人しく寄り添う獣の姿。
「ハウル・キャット……?」
その問いに、フィリアが静かに頷いた。
「はい。この子は……もう、危険じゃありません。暴走も止まっています。今は、わたしに懐いてくれていて……」
ロイスは目を細めた。
報告にあったブレイク個体。
暴走し、捕獲不能と判断されかけたあの魔獣が――
「……本当ですか? ロブさんが手を貸さずに、あのブレイク個体を落ち着かせたとしたら……それは、相当なことですよ」
ロブは肩をすくめて答える。
「あれはフィリアの力だ。俺は手を出してない」
「まさか、あの年端もいかない――」
「エルフだからな。お前より年上だぞ」
ロブの静かな一言に、ロイスが苦笑する。
「……そりゃまた、恐れ入りました。見た目に騙されてました。そういう意味でもすごい子なんですね」
ロブは頷く。
「精神的にはまだまだだが、芯は強い。あいつなら、乗り越えられる」
その言葉に一つ頷き、ロイスは改めて谷を見渡しながら、静かに言葉を切り出した。
「……ギルマスへの報告は、あなたにお願いできませんか」
ロブがわずかに眉を上げる。
「俺が?」
「はい。状況を最も把握しているのは、あなたです。そして、今回のスタンピードは……自然発生とは思えない」
ロブは少しだけ眉を上げる。
その言葉に、ロブはしばらく黙り、足元の土を軽く見やった。
「悪くない推察だ。実際、魔族が関与していた」
ロイスの顔に緊張が走る。
「やはり……」
「俺たちは戦いの最中に直接接触した。正体は道化の仮面をつけた魔族の男だ」
「それは……非常に重要な情報です」
ロイスは、神妙な面持ちで小さく頷き、続けた。
「今回のような件、通常の手順では済まないでしょう。ギルド本部での正式な報告が必要になります。ですから、現場の責任者であるあなたに――直接、報告にあたっていただきたい」
ロブは小さく息をつき、視線を谷底の遺骸へと向ける。
「……気は進まないが、わかった」
その反応に、リリアが首をかしげた。
「ロブさん、なんだか気が重そうですね。バルハルトのギルドマスターって、そんなに怖い方なんですか?」
ロブはひとつだけ笑って、答える。
「まあな。少しばかり、変わった人でね」
セラフィナが冷静に付け加える。
「お師匠様がそう仰るのですもの。相当の御方なのでしょう」
ロブは軽く肩を竦め、風に吹かれるマントを直しながら呟いた。
「まあ、なんというか……昔色々あって、顔を合わせにくいというか………まあ、そういう相手だ」
【リリアの妄想ノート】
あのね、今日、ロブさんの昔の話を聞いちゃったんです。
……いえ、正確には知ってました。ゼランさんやセレニアさんと、パーティーを組んでたってこと。
でも、それを“知らなかった人が、目の前で驚く”瞬間を見るのって、なんだか不思議な気持ちでした。
ああ、やっぱりロブさんって……すごい人なんだなあ、って。
そりゃあ、私たちのことをあれだけ導けるのも当然で――
スタンピードを止めて、ハウルちゃんも落ち着かせられて、そんなの“偶然”なわけないって、わかってたけど。
なのに、ロブさんはそれを当たり前のようにしていて、
誰にも偉そうにしないで、全部を任せてくれるんです。
……ずるいですよね。
ちょっとだけ、嫉妬しちゃいました。昔の仲間たちに。
でも大丈夫。私も、負けませんから。
ロブさんの“今の仲間”として、胸を張れるように――がんばります!
【あとがき】
第69話、いかがでしたでしょうか。
今回は“戦いの後”を主軸に置き、別視点からロブたちの存在感を浮き彫りにする構成にしました。
派手な戦闘ではなく、「静けさの中に残る爪痕」から、その強さと異質さを描いています。
また、ロブの過去の繋がり――
ゼラン、セレニアとの関係が“誰かに語られる”という演出も、ひとつの区切りとして意識しました。
これまでは語られなかった事実が、少しずつ地表に現れてきます。
そして次なる舞台は、バルハルトのギルド。
物語の核となる存在も、いよいよ姿を見せ始めます。
引き続き、彼らの物語を見守っていただければ幸いです。




