第67話 海老男の弟子、覚醒す。絶望の谷、刃と弓が交わる時
咆哮とともに、ゴブリンキングの巨大な棍棒が振り下ろされた。
「くっ……!」
エドガーが咄嗟にフィリアの手を引き、転がるように横へ跳ぶ。直後、地面が爆ぜ、岩片と土煙が二人の体をかすめていく。
フィリアは体を起こしながら、目の前に立ちはだかる巨躯に、言葉を失った。
ゴブリンたちを束ねる影――常軌を逸した体格。獣じみた眼光に加え、明確な“意志”を宿したその動き。
エドガーが、荒い息を吐きながら低く唸る。
「……こいつ、ゴブリンの“上位種”か……!」
「違う。――ゴブリンキング。最上位種よ」
フィリアはすぐに否定した。震える呼吸を抑えながらも、敵から目を離さずに答える。
「ゴブリン……キング……」
言葉にした瞬間、エドガーの背筋に冷たいものが走った。
「複数の群れを統率し、知性を持ち、戦術を使う。“知性を持った災厄”と呼ばれてる……Aクラス以下の冒険者じゃ太刀打ちできない存在よ」
「……そんなのが、なんでこんなところに……!」
その問いに答える余裕はなかった。ゴブリンキングの周囲には、無数のゴブリンが陣を組み、咆哮に呼応して一斉にこちらへと押し寄せてくる。
「走るぞ!」
エドガーが叫び、再びフィリアの手を引いた。
二人は谷底をまっすぐに駆ける。転倒する余裕も、振り返る暇もない。ただ息を切らし、背後から迫る殺気に突き動かされながら――
だが、目の前に立ちはだかったのは、断崖。
突き当たりの絶壁が、逃げ道を完全に塞いでいた。
フィリアの足が止まり、声が震える。
「行き止まり……っ」
剣を構えたエドガーが、振り返り、前へ出た。
「もう、逃げ場はない」
言いながら、迫る一体を切り伏せた。
「だったら――師匠たちが来るまで、俺たちが持たせるしかない」
剣先を構え直し、エドガーは堂々と立つ。背筋には恐れも焦りもなく、そこにはただ、眼前の現実を受け入れた戦士の覚悟だけがあった。
フィリアの唇が震える。
「そんな……わたしたちだけで、あんなのに勝てるわけ……」
「誰が勝つって言った。時間を稼ぐんだ。そうすれば、師匠たちが来る。だから――諦めるな」
その言葉が、胸の奥に突き刺さる。
だがその瞬間だった。
フィリアの腕の中にいたハウル・キャットが突然飛び出した。
「ま、待って!」
制止の声も虚しく、獣は地を蹴って前へ飛び出し、魔素を収束させる。
次の瞬間、地面が盛り上がり、敵の足元を爆ぜさせる。
大地の魔法。
ゴブリン数体が、吹き飛んだ。
フィリアは目を見張る。
「いまの……魔法を……自分で?」
エドガーが口元に微かな笑みを浮かべ、呟く。
「そいつも、まだ戦ってるんだ。だったら俺たちが折れるわけにはいかない」
フィリアの表情が変わる。
震えが止まり、肩が静かに下がる。瞳に、戦意の光が戻ってくる。
彼女は弓を強く握り直した。
「わたしも戦う。前に立つなら、私が後ろから全部撃ち落とす」
「頼もしいな」
背を合わせるように並び立ち、二人は迫る“災厄”に立ち向かう
ゴブリンの大群が、再び波のように押し寄せる。
エドガーは息を整え、剣を構え直した。
(……落ち着け。見極めろ)
次の瞬間――突撃してきたゴブリンの斧が、一直線にエドガーの頭上を狙う。
だが、その刹那。
彼の全身が微かに脈動し、空気が歪んだように見えた。
――ヴェール。
薄く光を纏ったような気配が、彼の身体を包み込む。
ゴブリンの斧が振り下ろされる。
しかし、打撃はエドガーの肩で鈍く跳ね返された。重さを受け流し、剣を突き上げる。
返す一撃で、敵の喉元を斬り裂く。
「これがヴェールの力………すげぇ、刃も通らない」
低く笑う。確信のこもった声。
ロブの修行でようやく体得した初歩のブレイズ――“内なる力”の気流が、今まさに命を守った。
その背後から、フィリアの詠唱が走る。
「穿て――聖煌連星弓!」
光の粒子がフィリアの弓に収束し、空中で星のように連なる三本の光矢が顕現する。
彼女の瞳は一点を射抜くように鋭く、矢が音もなく放たれた。
光の矢は、疾風のごとく弧を描き、三体のゴブリンを同時に貫いた。
一体は胸を、一体は喉を、もう一体は脚を――命中と同時に爆ぜるような光の残滓を残し、敵は地に崩れ落ちる。
「……まだ射てる……!」
フィリアは息を切らせながら、次の矢を番える。
視線の先でエドガーが踏み込み、肩で受けた斬撃を流し、敵の脇腹を抉る。
背を合わせるようにして立つ二人の動きは、研ぎ澄まされた刃のように淀みがない。
エドガーが剣を構え、深く息を吐いた。
足元を駆ける複数のゴブリンたちが、牙を剥いて一斉に襲いかかってくる。
「くるぞ……!」
その瞬間、エドガーの全身に熱が走る。内側から滾るような衝動が、血潮のように脈打った。
彼は一歩前へ踏み込み、刃を振るう直前――意識を、己の内側に集中させた。
研鑽の末に掴んだ“感覚”が、今、確かに灯る。
剣を握る腕に、脈動する力が収束する。筋肉が軋み、骨が鳴る。だが痛みはない。むしろ心地よい緊張だった。
「……今だ!」
その声と同時に、彼の剣が閃いた。
鋼の刃に、目に見えぬ力――闘気が纏わりつき、瞬間、爆ぜるような衝撃を生む。
次の瞬間。
斬りかかった一体のゴブリンが、胴体から真っ二つに裂けた。
肉が裂け、骨が砕け、内臓が飛び散ることなく、まるで刃が空間ごと断ち切ったように、滑らかに分断される。
「やった……!」
エドガーの声に、確かな歓喜が混じる。
ただの剣技では届かなかったはずの威力。その一閃が証明した。
自分は、闘気を制御できる――戦えるのだと。
しかし、次の敵がもう目前にいた。
「フィリア、援護を!」
「任せて!」
背後で、フィリアの詠唱が走る。
「穿て、聖煌連星弓!」
放たれた光の矢が、夜闇に星のような軌道を描きながら、ゴブリンの胸部を貫いた。
炸裂する聖なる閃光。魔瘴に侵された皮膚が焼かれ、断末魔を上げた個体が吹き飛ぶ。
その一矢で隊列が崩れた隙に、エドガーが再び突撃する。
彼の動きには、もう迷いも恐れもなかった。
「師匠……これが、あんたの教えだな」
誰にも聞こえぬほどの声で、エドガーは呟いた。
刃に宿る闘気が、再び鋭く唸る。次なる一撃が、敵の陣を切り裂く準備を整えていた。
ゴブリンの群れが谷を埋め尽くす。
その中でもひときわ異質な一体が、重い足取りで前に出た。
肌は濁った緑ではなく、瘴気に侵されたような黒ずんだ灰緑。肩には骨のような瘤が隆起し、腕は太く異様に長い。片手には鉄杭のような斧を引きずり、もう片方の腕は肥大化しすぎていて、地面を擦りながら歩いていた。
目は赤く、狂気と命令に染め上げられている。
ゴブリンの枠を逸脱した、異常進化体――
「……あれが……ゴブリンキングの配下。魔瘴に適応した変異種……!」
フィリアが顔を強張らせ、背筋を伸ばす。
エドガーは剣を握り直し、目を細めた。
「他の雑魚とは違うようだな」
変異種が咆哮し、全身を震わせて駆けてきた。
「来るぞ!」
エドガーが叫び、闘気を纏って剣を横に構える。
斧が振り下ろされる瞬間――
ゴブリンの群れの後方、谷の斜面に突如爆発が走った。
轟音とともに爆煙が広がり、ゴブリン数体が吹き飛ぶ。
「なっ……!?」
フィリアが思わず声を上げた。
ざわめき、振り返る魔物たち。
その混乱の中、煙の切れ目から現れたのは――ロブ。
そのすぐ後ろに、リリア、セラフィナ、カイが続く。
ロブは谷底を見下ろし、低く呟いた。
「……遅くなった」
その声に、エドガーとフィリアの目に希望の光が戻った。
戦況が――変わる。
【純度100%のリリアの妄想です】
~背中を預ける関係、それってもう絆ですよね?~
あの谷底での戦い……今思い返しても、すごく危険で、命がけで、それなのに――
どうしてあの二人は、あんなにも呼吸が合っていたんでしょうか?
フィリアさんが矢を射れば、エドガーさんが前衛で敵を斬る。
エドガーさんが斬れば、フィリアさんが援護する。
何も言わなくても、二人の動きはかみ合って、信頼し合っていて――
ああいうのを、絆っていうんですよね。
背中を預ける、命を預ける、たったそれだけのはずなのに、どうしてあんなに眩しく見えるんでしょう。
……私は、まだ誰かの背中を預けられるほど強くない。
いつも守ってもらってばかりで、誰かの盾になったことなんて、きっと数えるくらい。
それに、セラフィナさん――
彼女はきっと気づいてました。あの二人の息が合っていたことも、フィリアさんが誰かのために戦えるようになったことも。
でも、あのときのセラフィナさんの表情――ほんの少しだけ、ほんのほんの少しだけ、悔しそうに見えました。
たぶん、私と同じ。
“あの背中”がうらやましかったんだと思う。
私もいつか、そんなふうに誰かの横に立ちたい。
隣に立って、背中を預けられるくらい、強くなりたい。
……なんて。
これ、全部、妄想ですから!
――リリアの妄想ノート、以上っ!
【あとがき】
今回は、谷底で孤立したエドガーとフィリアの戦いを描きました。
このパートを書く中で強く意識したのは、「弟子たちの成長を、ロブ不在の中でもしっかりと描くこと」です。
ロブが教えた技術や姿勢が、彼ら自身の中でどう根づいているのか。
その“答え合わせ”のような場面にしたいと思って、筆を進めました。
特にエドガー。彼はこれまで「未熟だけど真面目」という印象でしたが、今回初めて剣に闘気を纏わせ、ゴブリンを一刀両断します。これは彼にとっての突破点。
自分の力で未来を切り開く感触を得た瞬間でした。
一方フィリアは、これまでずっと「冷静で分析型」という立ち位置だったんですが、今回は血の通った“決意”を描けたと思っています。
仲間と向き合い、自分の弓で誰かを守ると誓う。ハウル・キャットの姿に影響を受けて、揺れながらも前を向く。
その感情の流れをどう丁寧に描くか、すごく悩んで、でも書いていて一番楽しかった部分です。
戦闘は情報と緊張感を保ちながら、テンポよく。
読んでて退屈させない構成に仕上がっていれば、嬉しいです。
次回はついに、ロブと弟子たちの合流。
世界の“理”が、再び剣と魔法で暴れ出します。




