第65話 逸れた牙は、魔に染まる《後編》
「あの子――」
リリアがぽつりと呟いた。
その目には、哀しみを映したような光が宿っていた。
「ロブさん、あの子……まだ………」
「自我がある、か?」
ロブが問い返すと、リリアは小さく頷く。
「はい……」
背後から、エドガーが訝しげな声を上げた。
「なんでそう思うんだ?」
「……自分でも、よくわからないんです。でも、なんとなく……」
リリアが言い淀むと、フィリアがそっと横に立ち、ハウル・キャットをじっと見つめた。
「……リリアの言う通りかもしれない。あの子の“気”はまだ濁っていない。悲しみを感じるわ」
「そのようなこと、どうしてわかるのですの?」
セラフィナが不思議そうに問いかけると、それに答えたのはロブだった。
「エルフはもともと、“マウグ”――魔物を導く羊飼いのような役割を担っていた種族だ。言葉を使わない、直感的な意思の交信能力を持っている」
「それも、ナノマシンの力によるものですの?」
セラフィナが首をかしげる。
「いや、知らん」
ロブがあっさり言い切る。
「は?」
フィリアが思わず目を点にした、その瞬間――
『補足します』
クォリスの声が響いた。
『エルフの他動物との共感能力は、ナノマシンによって設計されたものではなく、偶発的に発現したものです。遺伝子改変にその機能は含まれていませんでしたが、結果的にエルフたちは他種と“感覚を通わせる”ことを可能としたのです』
「偶発的に……そんなことってあるの?」
カイが疑念を込めて問いかけると、ロブは少しばかり頭をかいた。
「……俺も一応、科学者の端くれだからな。こういうことは言いたくないんだが、科学ってのは、解明されてなくても必要なことなら使う」
「どういうこと?」
フィリアが眉をひそめると、ロブは肩をすくめて答える。
「たとえば、全身麻酔。使われ始めた当初は、その仕組みなんて誰も説明できなかった。効果があるから使ってただけだ。飛行機もそうだ。揚力があるから飛ぶ。だがなぜ揚力が生じるのか、そのすべてを完璧に説明できる人間は今もいない」
「え……マジ!?」
カイが目を見開く。
だが、他の弟子たちはポカンとしたまま、まるで別言語でも聞いたような顔をしていた。
フィリアが腰に手を当て、冷ややかな視線をロブとカイに向ける。
「……あんたたちにしかわからない話題、今はやめてくれる? こっちは真剣なんだけど」
「……悪い」
「ごめん」
二人で揃って謝ると、フィリアはため息を一つ吐いて静かに一歩を踏み出した。
「私が、近づいてみるわ」
そう言ってハウル・キャットの方へ歩みかけると、背後からエドガーが即座に声を上げた。
「待て。俺も行く」
フィリアが振り返ると、エドガーは剣を手にしていた。どこか張り詰めた気配が漂っていた。
「危険かもしれないだろ。万が一ってことがある。護衛は……俺の仕事だ」
「……エドガー」
フィリアが呟くと、少し離れたところで様子を見ていたセラフィナも、心配そうに視線を向けた。
気負いすぎている――彼女の目には、そんな風に映っていたのだろう。
けれど、彼女は口を出さなかった。
この場で言葉を投げかければ、エドガーの意地や誇りを傷つけてしまうかもしれない。そう思って、そっと口を結ぶ。
そのかわりに、セラフィナは手のひらを胸元に添えて、祈るように小さく呟いた。
「……お気をつけて。フィリアさん、エドガーさん」
二人の背中が、風に揺れる草を踏みしめて、ゆっくりとハウル・キャットへと近づいていく。
ハウル・キャットは、まだ動かない。
だがその瞳は、先ほどよりも明らかにこちらを“見て”いた。
フィリアは慎重に歩を進めながら、柔らかな声で語りかける。
「……あなたの心に、届くかは分からない。でも、私は戦うために来たんじゃないの。……話をしたいだけ」
その隣で歩を合わせるエドガーは、手を剣の柄からわずかに離していた。
表情に強張りはない。だが、全身の筋肉はいつでも動けるよう、研ぎ澄まされている。
ハウル・キャットの尻尾が、わずかに揺れた。
フィリアはそっと手を胸に当て、目を閉じる。
「……あなたの悲しみが、少しでも私に届くなら……“心”がまだあるなら……」
ハウル・キャットの耳が、ぴくりと動いた。
その瞬間。
エドガーの瞳が鋭く光る。
「来るか……!」
だが、ハウル・キャットは動かなかった。
ただ、静かに――咆哮ではなく、かすれたような、低いうなり声を上げる。
それは、威嚇でも憤怒でもない。
――どこか、哀しみを孕んだ、泣き声のようだった。
フィリアの喉が、かすかに震える。
「やっぱり……まだ、“あなた”はいるのね」
エドガーは横目でフィリアを見た。
その横顔は静かで、まっすぐで、どこまでも優しい。
彼は、そっと手を柄から離した。
「なら……助けてやるよ。絶対にな」
その瞬間だった。
谷に、異音が走った。
甲高い、笛の音のような音が風に乗り耳に届いた。
と、感じたその時、ハウル・キャットの身体が震えた。背の毛が逆立ち、瞳が光を失う。
「様子が――」
フィリアが反応するより早く、ハウル・キャットが咆哮を上げた。
次の瞬間には、黒い影が跳ねていた。
「フィリア、さがれ!」
エドガーが叫ぶ。
その声と同時に、ハウル・キャットが襲いかかる。
鋭い牙がフィリアの喉に食らいつく直前ーーー
エドガーが咄嗟に右腕の篭手で受け止める。
ガギン!
骨を打つような音が谷に響く。
「ぐっ……!」
エドガーはフィリアを背後にかばったまま、踏みとどまっている。
「エドガー!」
「来るな!こいつ、もう理性が残ってない――!」
地面が鳴った。
ハウル・キャットの足元から、硬質化した土が槍となり二人を襲う。
フィリアが風の魔法で衝撃を削ぐが、完全には防ぎきれず、エドガーと共に後方へ弾き飛ばされる。
その直後。
崖の上――谷の縁に、無数の黒い影が姿を現した。
ゴブリンだ。
鋭く甲高い笛の音が谷全体に鳴り響く。
ゴブリンたちはその音に呼応するように、棍棒を振り上げ、次々に斜面を滑り降りてくる。
「魔物!?囲まれてる!」
リリアの叫びに、ロブが剣を抜き、怒鳴る。
「背中を合わせろ!死角を作るな!」
リリアとセラフィナ、カイは互いに背中を預け、迫る敵へ武器を構える。
魔物の群れに気を取られるフィリアにハウル・キャットが唸り声を上げて跳びかかる。
「くっ!」
フィリアがよろめく。
「危ない!」
エドガーが飛び込み、フィリアを抱きとめるが、その勢いのまま、二人の体は崖の縁を越えた。
「エドガー!」
セラフィナの悲鳴が響いた。
崩れた足場――割れた岩盤の縁で、エドガーとフィリア、そしてハウル・キャットが土砂と共に足を滑らせ、谷底へ落ちていく。
「くそっ……!」
ロブが駆け出す。
だが、崖からさらに飛び降りてきたゴブリンが、彼の前に立ち塞がった。
魔物たちの目には、ハウル・キャットと同じく理性の光が消えていた。
ロブは敵の動きに目を光らせながら低く呟く。
「操られてやがる……」
笛の音は止まらない。
そしてラクタの谷に、殺気の奔流が渦を巻き始めていた。




