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第65話 逸れた牙は、魔に染まる《前編》

 朝靄の残る庭先に、静かな緊張が漂っていた。


 今日――リリアたちは、初めての正式な依頼に出る。


 ギルド認可のFランク任務。訓練でも模擬戦でもない、本物の“冒険”。


「うぅ……なんか、お腹の中が落ち着きません……」


 門の前で、リリアが胸を押さえながらそわそわと足を交互に踏みしめる。


「緊張してるのは、リリアだけじゃないと思うけど?」


 フィリアが軽く伸びをしながら笑った。


 セラフィナはそのやり取りを横目に見ながら、小さくため息をつく。


「まったく……一週間前まで、まともに魔法も撃てなかった子が、今日は自分から構文の調整を申し出てくるなんて。呆れるやら、感心するやらですわ」

「えへへ……頑張って練習しましたから!」


 リリアは少しだけ照れながらも、しっかりと胸を張ってみせる。


 テルメリア村に来てから、まだ七日しか経っていない。


 その間にリリアは、魔力循環の基礎を身につけ、基本攻撃魔法フレア・バレットを安定して発動できるようになった。

 さらに昨日には、射程制御型の《スパーク・ニードル》も五発連続で命中させている。


 もともと魔法に関しては才能があると言われていたが、それ以上に驚かされるのは、彼女の努力と集中力だった。


「リリアさん、昨日の訓練では連続詠唱も成功していましたわね。フレア・バレットとスパーク・ニードルの組み合わせも、かなり実戦向きですわよ」

「はい。魔力の流れも、ようやく体で感じられるようになってきました。今日こそ、自分の魔法で皆さんの役に立ちたいです!」


 その言葉には、迷いのない意志が込められていた。


 たどたどしくしか詠唱できなかった初日。

 撃てば吹き飛ぶ方向がわからなかった二日目。

 自分の至らなさに泣きそうになっていた三日目。


 そんな毎日を越えて、リリアは確かに“前へ”進んできた。


 セラフィナはそんな彼女を見ながら、ふっと目を細める。


「ふふ……頼りにしてますわ」


 その声は、皮肉混じりのものではなかった。


 心からの信頼と、少しの期待。

 そして、ほんの少しだけ、悔しさの混じった呆れ。


 それほどに、リリアの成長は、誰の目にも明らかだった。


「でも、今日は本番です。皆さんの足を引っ張らないように頑張ります!」

「引っ張るなんてとんでもない。むしろ、わたくしたちの切り込み隊長ですわね」

「えっ、それはちょっと荷が重いですっ」


 わたわたするリリアに、フィリアがクスクスと笑った。


 そして、その様子を少し離れたところから見ていたエドガーが、黙って木の枝を握りしめる。


 無言だが、その手には力が入りすぎていて、指先がわずかに白くなっていた。


(――くそ、なんでこんなに緊張してんだ俺は……)


 剣は握ってきた。何年も。

 実戦の訓練だってしてきた。怪我もしてきた。

 それなのに、“今日”だけは、胸の奥が静かにざわついていた。


 その理由は――闘気ブレイズの習得。


 つい昨日、ようやく“初級段階”とされる《ヴェール》を体に纏わせることに成功した。

 身体能力をほんのわずか底上げする程度の強化。だが、それは確かに彼自身の“中の力”を動かした証だった。


 けれど、制御はまだ不安定で、長くは保てない。

 タイミングを間違えれば、ただの空振りで終わる。


(本番で、使いこなせるかどうか――正直、まだ自信がねぇ)


「……エドガーさん?」


 リリアが不安そうに声をかける。


「あ、ああ……大丈夫だ。ちょっと気が昂っててな」


 いつもの調子でごまかすが、その笑みは少しだけぎこちなかった。


 セラフィナが彼をちらりと見て、ひと言。


「緊張しすぎて、頭が一段と固そうですわね。もう少し肩の力、抜いてもいいのでは?」


「………実戦で失敗は命取りなんだよ」


「分かっておりますわ………。エドガー、あなたが必死に努力してきたことも」


 セラフィナが労るように目を細める。


 エドガーは少しだけ強張っていた眉を緩め、口を僅かに歪めて笑みを作った。


 その時屋敷から物音が聞こえた。


 ロブが扉を押し開け、静かに歩み出てくる。


 その瞬間、場の空気がぴたりと引き締まった。


 一同は自然と姿勢を正し、誰からともなく列を整える。

 まるでそれが“儀式”であるかのように、誰一人、言葉を発さない。


 ロブの手には、巻かれた一枚の地図と、古びた紙の束。


 それはギルドからの正式な依頼書――そして、今日の“答え合わせ”となる紙束だ。


「行くぞ。目的地は南西の丘陵地帯、“ラクタの谷”だ」


 その短い一言に、全員の背筋が伸びた。


「……あの、“迷い獣”っていうけど、本当に危険なんですか?」


 緊張のなか、リリアがそっと問いかける。


 その声は怯えではなく、“理解したい”という真っ直ぐな気持ちからだった。


 ロブはしばし無言で彼女を見つめ、それから地図を巻きながら口を開いた。


「ああ。元は人に飼われていた。魔法使いの使い魔だったらしい」


 その語り口には、どこか――哀しみが滲んでいた。


「魔法使いが自らの魔力を共有し、心と意志を通わせて生きた獣。賢く、従順で、主の命令に忠実だった。それこそ、家族同然のように暮らしていた者もいる」


 弟子たちの表情が、一斉に強張る。


「本人達は知る由もないが、魔力の共有とはナノマシンの共有だ。主が死ねば、宿主を失ったナノマシンは使い魔の身体を新たな住処とする。その器にそぐわないナノマシンの数に、訓練を受けていない獣は制御を失い暴走する」

「それって……もともとは、優しい存在だったってことですよね?」


 リリアの問いは、どこか苦しげだった。


 ロブはうなずく。


「そうだ。人の声を理解し、命令に従い、ときには心を慰めることもあっただろう。だが、そういう個体こそ、人がいなくなったときに最も脆い」


 その言葉に、リリアの顔が曇る。


「可哀想………」


 その呟きをロブは無表情で受け止め、ただ、ゆっくりと前を向き、足を進める。

 

 一歩、また一歩。


 その背中越しに、静かに語り始めた。


「ナノマシンが制御を失えば、記憶も意思も、ゆっくりと壊れていく。最初は微かな違和感だけだ。主の名前が思い出せなくなる。命令が曖昧になる。――そして、従うという本能そのものが崩れていく」


 セラフィナが、小さくローブの袖を握る。


「それでも、獣は……魔力を使い続けるのですわね?」

「ああ。ナノマシンの増殖に耐えられなかった獣は自我をなくして、野生の本能のままに暴れまわる。厄介なのはその破壊衝動をナノマシンは命令と受け止め、放出する。敵と見れば攻撃を繰り返す殺戮マシーンの誕生だ」

「制御不能な魔獣……ですのね」


 その響きに、誰もが息をのんだ。


「術も構文も、何一つ理解せずに。ただ、無差別に発動し、暴走し続ける。時に人間を害し、時に自分の命すら削っていく――それが、ブレイク個体だ」

「戦いたくなんて……ないですけど……」


 リリアがぽつりとつぶやく。


 その声はか細いが、背筋はまっすぐに伸びていた。


「でも、やらなきゃ……ですよね」


 その言葉に、ロブは静かに一言だけ返した。


「行くぞ。ここからが――お前たちの本当の冒険だ」



――ラクタの谷。


 かつて草花の咲き誇る牧場だったその地は、今や白と黒の斑のように濁った空気に包まれていた。


 木々は色を失い、風が吹いても葉がひとつも揺れない。

 地面の一部はひび割れ、獣の通った痕跡すら“焦げ跡”のように焼き付いている。


「空気が……ぬるぬるする感じ……」


 リリアが頬をしかめた、そのとき。


『観測補助を開始します。現在、局所的な魔力汚染を確認。濃度レベルはレッドゾーン下限に相当』


 静かで機械的な女性の声が、弟子たちの脳内に直接響いた。


 セラフィナが反応する。


「……クォリス?」

『はい、セラフィナ様。空気中のナノマシンが過剰反応を起こし、制御を失った状態です。周囲の動植物に異常な作用を及ぼすため、長時間の滞在は推奨されません』


 その説明に重ねるように、ロブが口を開いた。


「この瘴気は、“ナノマシンの自己複製反応”の副産物だ」


 弟子たちがロブに目を向ける。


「ナノマシンは、元々“宿主の意思”と“構文命令”によって活動する。だがな、一定以上の密度に達すると、周囲のナノ粒子に干渉して、自己の構造を模倣し始める」

「つまり……仲間を増やすみたいな?」とリリアが首を傾げると、ロブは頷く。

「そうだ。問題は、それが無秩序に起こるってことだ」


 ロブは瘴気にかすむ空を見上げながら続ける。


「このラクタの谷は、かつて魔法使いの研究所があった。魔力実験の過程で、制御を外れたナノマシンが環境中に流出したんだ。今ここに漂っている“瘴気”は、そのナノマシンが、他のナノマシンを模倣し続けて生まれた“コピーの残骸”――要するに、廃棄された命令のゴミだ」


「命令の……ゴミ、ですの?」


 セラフィナが息を呑む。


「ああ。命令を失ったナノマシンは、構文の断片だけを持ったまま漂い、時に生物に干渉し、異常な反応を起こす。視界を濁らせ、皮膚を焼き、記憶にすら影響する。これが“魔瘴”の正体だ」


「じゃあ……この瘴気に長くいると……」


 リリアの声がわずかに震える。


「暴走状態になる。自分が何者かも理解できず狂っていき、最悪、目に映るもの全てを敵とみなす」


 張り詰めた沈黙の中、クォリスが冷静に言葉を継ぐ。


『魔法使いに飼われていた獣は本来、ナノマシンへの適応性が高く、魔力操作にも長けています。しかし、主の喪失と環境変化により自己制御を失い、“野生化”と“魔力暴走”を同時に起こした可能性が高いと推測されます』


 カイが腕を組みながらうなずいた。


「俺と同じオーバーマナシンドロームに近い状態なら常に魔素を発散しなきゃならない。本能はナノマシンに支配されているなら通常よりも反応速度が高く、こちらの魔法を逆利用する危険もある」


『補足します。過去の同系個体の記録によれば、攻撃に対して瞬間的な魔力障壁を生成するケースも確認されています。遠距離からの観測と分析を優先してください』


「……厄介ですわね」


 セラフィナが息を整え、構文記憶領域に手を当てる。


 その瞬間だった。


 ……カツ、カツ、と。


 音もなく、草のない地面に、小さな足音が落ちた。


 リリアが顔を上げる。


「なにかがいる……?」


 だが、返事はなかった。


 ただ――丘の影から、じっとこちらを見つめる金の瞳が一対。


 その目には、獣としての凶光が灯っていた。

 だが同時に、どこか――人を探すような、迷子の子どものような――そんな寂しさも宿していた。


 毛並みはかつては美しかったのだろう。だが今は、黒い霧のような魔瘴をまとい、皮膚の一部はただれ、目の下には深くくぼんだ影がある。

 歩き方もふらつき、足元は定まっていないのに、それでもこちらに向けられる視線は、確かに“誰か”を探していた。


「……あの子……誰かを、呼んでるみたい……」


 リリアがぽつりと呟いた。


 その言葉に、周囲の空気が静かに震える。


「あれが、“ハウルキャット”……ですの……」


 セラフィナが息を呑んだ。


 ロブが一歩前に出て、手を上げる。


「全員、構えろ」


 静かに、けれどはっきりとした声。


 それは、教え子たちを現実へと引き戻す合図だった。


「――来るぞ」


 風が、枯れ草を撫でて吹き抜ける。


 そして、金の瞳の中に宿るものが、哀しみから本能の凶光へと変わる瞬間――


 リリアは、ただ、まっすぐにその姿を見つめていた。


(……この子は、本当は……)


 その続きを、彼女はまだ言葉にできなかった。


 けれど確かに、その目は――ただ“敵”を見る目ではなかった。


 物語は静かに、戦いの幕を上げる。


【リリアの妄想ノート】


 ついに、ギルドからの正式依頼――!

 だけど、ドキドキして足がふわふわして……お腹もふわふわで……これ、魔力浮遊じゃないですよね?


 でも、頑張った。訓練した。スパーク・ニードルもちゃんと飛んだし、セラフィナさんにも褒めてもらえた。えへへ……ちょっと嬉しい。


 それに、あの獣……あの目。

 怒ってるっていうより、誰かを探してるような、寂しそうな……。


 私、あの子を“敵”だって、思いたくないんです。

 でも、それでもやらなきゃいけないときがあるなら――

 ちゃんと、向き合えるようになりたい。


【あとがき】


 第六五話をご覧いただきありがとうございます!


 今回のテーマは「初依頼、そして“戦う理由”の種まき」。

 リリアの成長、エドガーの焦り、セラフィナとの距離感。キャラたちの表情が少しずつ変わっていく一話に仕上がったと思います。


 ハウルキャットはただの魔物ではありません。

 次回、後編では“どう戦うか”だけでなく、“どう向き合うか”が描かれます。

 いわば、《心を試される戦闘回》。


 次話《後編》、どうぞご期待ください!


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