第63話 海老男の苦い思い出、折れぬ剣に託されたもの
風が、訓練場の草を揺らした。
朝の陽光が差し込む木立の奥、広く整備された土の広場に、乾いた木の音が響いた。
「せいッ!」
エドガーの叫びとともに、木剣が唸りを上げて振り下ろされる。
狙うは、黒衣の男――ロブ。
だが、その一撃が届くことはなかった。
ロブは微動だにせず、ただ片手で木剣を受け止める。
音すら立てず、まるでそこに“壁”があったかのような完全な停止だった。
「……っ!ぐっ、うおおおっ!」
怒りに近い声を上げながら、エドガーは渾身の力で剣を振るい続ける。
一太刀、また一太刀。
しかしロブはそれをただ、静かに、最小限の動きで受け流し、時に指先一つで弾き返す。
十合、二十合と続いたその攻防に、明確な“勝負”は存在しなかった。
それはあまりに一方的な“差”だった。
最後の一撃が空を切り、地面に膝をついたエドガーの肩が、わずかに震えていた。
「……ぜんっぜん、届かねえ……」
ロブは黙ってその様子を見下ろす。
口元には皮肉でも侮りでもない、ただ一つの表情も浮かんでいなかった。
それが、逆にエドガーの胸を締めつける。
「闘気も……ろくに使えねぇ……」
その声は、自嘲にも似ていた。
訓練場の奥では、三人の少女が別の訓練に取り組んでいた。
「はい、じゃあリリアさん。対象指定、現象操作、影響範囲――三要素を言ってみてください?」
セラフィナが教科書のように丁寧な口調で問いかける。
「えっと、対象は木の人形、操作は加熱、範囲は……胸だけ!」
「胸だけ!?」
フィリアが盛大に噴き出した。
「あっ、違う! ち、ちがくて! 加熱するのは胸じゃなくて……ああもう!」
「リリアさん、言葉の選び方が悪すぎますわ……!」
少女たちの軽口が飛び交うなか、少し離れた木陰に、カイの姿があった。
膝を組み、目を閉じ、呼吸を静かに整えている。
その指先が微かに震え、淡い光が皮膚の下を走った。
『……ナノマシン、制御率43%』
クォリスの冷静な声が脳内に響く。
「まだ足りない。もっと深く、もっと正確に……」
カイは小さく呟きながら、再び意識を沈めていった。
一方そのころ、膝をついたままのエドガーは、ぎり、と木剣を握りしめた。
(何やってんだよ、俺……)
剣士としての誇りは、かろうじて折れていない。
だが、それも時間の問題だった。
仲間たちがそれぞれの道を進んでいく中、自分だけが取り残されているような――そんな焦りが、胸の奥でくすぶっていた。
そんな彼の肩越しに、ロブが低く呟いた。
「立て、エドガー。お前の剣は、まだ折れてない」
その言葉は、冷たくも優しくもなかった。
ただ、事実を告げるように、まっすぐだった。
夕暮れの訓練場。
空が朱に染まり、木々が長い影を伸ばす頃。
誰もいなくなった広場の隅で、エドガーは剣を握ったまま、ひとり地面に座り込んでいた。
結局、あれからもロブから一本も取ることは出来なかった。
額には汗。呼吸は浅く、腕は重い。
けれど、それ以上に、胸の奥に澱のように積もる感情があった。
「……向いてないのかな」
その呟きに、背後からふわりと気配が差し込む。
エドガーが振り返るより早く、ロブが無言で隣に腰を下ろした。
「師匠……」
声が、少し震えた。
「いや……剣も魔法も、できるようになりたくて、がむしゃらにやってきたつもりだったんですけど……」
目を伏せたまま、エドガーはぽつりと続ける。
「魔法の才能もない。ブレイズも満足に扱えない。剣しかないのに……その剣すら、師匠に届かない」
拳が、小さく震える。
「リリアは魔法を見ただけで再現して、カイはナノマシンを制御し始めて……。フィリアはエルフで、母親は伝説の冒険者。セラフィナは……両親が魔導士で小さい頃から英才教育を受けてきた。なのにあいつ、そんなこと鼻にもかけないであんなに努力してて……」
言葉が、喉で詰まる。
「弟子の中で、一番できが悪いのって……俺なんじゃないかって、そう思うんです」
そのまま、静かに笑った。
「なのに、セラフィナにだけは、情けないとこ見せたくなくて……格好つけたがって……でも、それが一番情けないんすよ。何やってんだ、俺って……」
ロブはしばらく黙っていた。
その沈黙が、エドガーを否定しないということを、彼は感じ取った。
だが、それはロブの次の言葉ですぐに覆される。
「……お前が一番、昔の俺に似てるかもな」
その言葉に、エドガーは顔を上げる。
「え……?」
「魔法も剣も、何一つまともにできなかった頃の、俺だよ。その頃の俺より百倍マシだけど」
ロブは、どこか懐かしむように空を仰いだ。
「師匠が……? 嘘でしょう?」
「本当さ。誰よりも不器用だったよ」
エドガーは戸惑いながら、ぽつりと問う。
「……それじゃ俺も、師匠みたいになれますか?」
「なれるさ。俺ぐらい長生きすれば」
「無理です」
即答する。
ロブは苦笑を浮かべたが、エドガーに半眼を向けられると、誤魔化すように話を続けた。
「前に、聖騎士ファルズの話をしたよな」
「ああ、師匠の師匠だったんですよね」
「――あれは、嘘だ」
「……は?」
どういうことかと覗き込む師匠の顔は少し恥ずかしげに笑っていた。
「本当は、ファルズは俺の弟子だったんだ」
「え?」
「ファルズには闘気を教えた。そのあとあいつは自分で技を磨いてアークとドライヴを生み出したんだ。俺は弟子に抜かれた挙げ句、その弟子に技を教わった情けない師匠なんだよ」
ロブは自嘲するように、ふっと笑った。
「俺が最強なんじゃない。最強だった奴らが、俺に託して、死んでいっただけだよ」
エドガーは息を呑んだ。
ロブの声は淡々としているのに、どこか痛みを含んでいた。
「俺が数百年かけて積み上げたものを、ファルズや他の弟子達は十年そこそこで超えていった。戦い方も、生き様も、覚悟も……全部、俺より上だった」
ふっと、目を細めて空を見上げる。
「でも、そいつらは皆……先に死んじまった。俺に、世界の“未来”を預けてな」
空気が、少しだけ重くなる。
「俺があいつらに追いつけたのは、死んでから何十年、何百年も経ってからなんだぜ?」
しばしの沈黙。
エドガーは、小さな声で問いかけた。
「……じゃあ、師匠は。今でも……追いかけてるんすか?もう誰もいなくても?」
ロブはその口元笑みを浮かべる。
「当たり前だろ。男は常に、自分の成長を目指すもんだ。――特に、守りたいものがある奴はな」
立ち上がったロブが、背を向けたまま続ける。
「……焦ることはない。比べる必要もない。他人の才能は関係ない。自分がどこに行きたいのか、どこまで歩きたいのかを考えろ」
その背中は、穏やかで、どこまでも強かった。
「目的と目標がお前の明日を、1年後を、十年語を、一生を決める。それを肝に命じて毎日を生きろ」
エドガーは、動けなかった。
何も言葉を発することが出来なかった。
「お前なら出来る。いや、やると信じてる」
ロブは振り返らずそのまま歩き出す。
「今日の食事当番はセラフィナだ。遅れたら不機嫌になるぞ」
口調は軽いが、その言葉にはエドガーへの遠回しな労りが見て取れた。
風が、また一つ、夏の匂いを運んでいった。
エドガーはしばらくして、自分の両頬をぱちん!と叩いて立ち上がる。
その顔にはさっきまでの迷いはなかった。
夕食の時間。
テーブルの上には、見たことのない色合いと質感の料理が並んでいた。
「……これ、なんのスープだ?」
「たぶん……鶏肉とじゃがいも……ですよね?」
「なんか、ずごい歪な形なんだけが………」
「色が紫なのはなんで?」
ロブとカイが思いを言葉にする。
セラフィナが腕組みをして胸を張る。その背後では、フィリアがこっそり鼻をつまみ、リリアがスプーンを構えたまま動けずにいた。
二人はセラフィナのフォローに回っていたはずだが、その結果はテーブルの上の料理が物語っている。
「これは“魔力循環促進料理”ですわ!脳の働きを高める特殊配合を……その、独自に再構築いたしまして……」
「セラフィナさん、それって味は保証されてるの?」
カイが恐る恐る聞くがセラフィナは豪語する。
「理論上は完璧ですわ!」
理論と実践の結果がかけ離れていることはロブに弟子入してから皆が痛感していることだった。
誰も、セラフィナの"理論"に手を伸ばせずにいると、静かに食堂の扉が開いた。
「……エドガー?」
姿を現したのは、少し汗の残るシャツ姿のエドガーだった。
彼は無言で椅子を引き、ロブの隣に腰を下ろすと、ためらいなくスプーンを手に取った。
リリアが慌てて止めようとするより早く、
エドガーはスープを一口、口に運んでいた。
「エ、エドガー、それ――」
だが、彼は顔ひとつ歪めずに、黙って咀嚼し、もう一口をすくった。
そして――淡々と、しかし確かに言った。
「……うまい」
部屋の空気が、止まった。
セラフィナがぱちぱちと瞬きをし、ほんの少し口を開いたまま固まる。
「と、当然ですわ!」
顔を赤らめながらも、彼女はぷいと横を向き、誇らしげに胸を張った。
その姿を見て、ロブはふっと口元を緩める。
席につきスープを一匙すくい口へ運ぶ。
「……まあ、元気が出る味だな」
「で、でしょう? 脳の活性も促進されて……その、エドガーさんの役に立てたなら、わたくし――」
言葉が尻すぼみになり、セラフィナは小さく咳払いをした。
もしかするとセラフィナは落ち込むエドガーを元気づけたかったのかもしれないとロブは考えた。
そんなことは付き合いの長いエドガーの方が察しているはずだ。
エドガーは、そんな彼女の姿を一瞬だけ見て、再びスプーンを口へ運んだ。
その背中からは、どこか張りつめたものが、ほんの少しだけ、ほどけているように見えた。
フィリアが微笑みを浮かべ、リリアもそっとスプーンを手に取る。
「じゃあ……いただきます」
「ふふ、私も試してみるわ」
食卓に、ゆっくりと温かな空気が広がっていく。
ロブは静かに、二人を見守りながら椅子にもたれた。
焦りも、不安も、劣等感も。
それでも誰かと食卓を囲み、笑える時間があるなら――
それだけで、今日という一日は、十分に意味がある。
窓の外では、星がひとつ、またひとつと瞬き始めていた。
【リリアの妄想ノート】
今日のエドガーさん、すごくカッコよかった。
ううん、剣の技がどうとか、そういうことじゃなくて。
ロブさんにどれだけ剣をはじかれても、ぜったいに立ち止まらなかった。倒れても、膝をついても、目だけはずっと諦めてなかった。
……あの背中、見てたら、ちょっと泣きそうになった。
セラフィナさんのスープを最初に食べたのも、たぶん、勇気を出したくて(ちょっと失礼)、誰かの想いを受け止めたかったからだと思う。
うぅぅ、私だったら絶対ひるんじゃうのに! でも、私も負けてられないよね!
だから決めたんだ。明日は私が食事当番! 絶対変な味にならないように、頑張るんだから!
……ロブさんの分だけ、ちょっとだけ味変しちゃおうかな? ふふふ、毒じゃないよ?
【あとがき】
六十三話、お読みいただきありがとうございます!
今回はエドガーにスポットを当てたお話でした。彼の葛藤、焦燥、そして少しずつ前に進もうとする勇気。強さって、何も特別な才能があることじゃなくて、「立ち上がること」そのものなんだと、改めて感じる回でした。
そして地味に……セラフィナの料理、ある意味で最強でしたね(笑)
次回からはまた、弟子たちの「限界突破」に向けて、それぞれの道が加速していきます!
今後とも、応援よろしくお願いします!




