第61話 海老男の治療 命の制御、そして覚悟の言葉
朝の光が、食堂の窓からやわらかく差し込んでいた。
セラフィナとフィリア、そしてエドガーが、順にリビングから姿を現す。三人ともまだ眠気の残る表情で、ゆっくりと食堂へと入ってきた。
コトコトと煮える鍋の音。トントンと軽快に刻まれるまな板のリズム。
「リリア、味見してみろ。塩、足りてるか?」
「ん……ふむふむ、うん。もうちょっとだけ、お味噌えてもいいかもです」
「了解。3グラムでいいな」
鍋の隣で、ロブが寸分違わぬ手さばきで味噌を溶き入れる。
その動きに合わせて、リリアは次の具材を湯通ししておき、盛り付け用の皿を順に並べていく。
言葉にしなくても、二人の動きはぴたりと噛み合っていた。
「………ええと」
「…………なにこれ、朝から息合いすぎじゃない……?」
セラフィナとフィリアが二人を呆然と眺める。
ロブとリリアのコンビネーションは、もはや長年連れ添った夫婦の域だった。
あまりの阿吽の呼吸に、ぽつりとフィリアが呟き、セラフィナがそれを継ぐ。
「……ねえ、これって」
「夫婦?」
二人同時にそう言って、顔を見合わせた。
その瞬間、リリアの顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。
「ち、ちがいますっ!ロブさんと私は、そんなんじゃなくて……っ!」
隣で具材を炒めていたロブも、手を止めて眉をひそめた。
「弟子に手は出さん」
リリアが顔を真っ赤にしてぷるぷると手を振る。
「そ、そうです! そ、そりゃあ一緒にいて落ち着きますし、頼りになるし、やさしくて……って、ちがう!ちがうんです!」
「……やっぱり否定の仕方が怪しいですわね」
セラフィナがくすくすと笑い、フィリアが「これは近いうちに何かあるわね」とニヤリと目を細める。
「やめてくださいぃ……!」
耳まで真っ赤にして俯いたリリアの背後で、ロブは何事もなかったかのようにフライパンを振っていた。
そして、リリアの焦りがようやく落ち着いた頃を見計らって、ふいに口を開いた。
「……それはともかく、今日からはお前たちにも順番に“食事当番”をやってもらう」
「え?」
キッチンにいた全員が、ピタリと動きを止める。
「まさか……この私に、料理をしろと?」
セラフィナが、驚きと困惑の混じった表情で身を引いた。
「無理ですわ。わたくし、お嬢様育ちですのよ? 魔法以外で火を使ったことなんて一度もありませんもの」
「それは理由にならん。集団生活は持ち回りと役割分担、そして助け合いだ。生き残るために必要な技術は、身につけろ」
ロブがぴしゃりと言い放つと、セラフィナはむくれて顔をそむけた。
「うぅ……お鍋に水を入れるところから始めればよいのでしょうか……」
「俺もやったことねえな……」
エドガーも頭をかきながらボソリと呟いた。
「包丁、持ったことあるか?」
「……刃物は剣と鋏しか持ったことない……」
「お前も一からだな」
ロブがため息をつく。
一方、フィリアは少し考えた後、首を傾げて言った。
「わたし、できることはできるんだけど……エルフの味付けって、人間のとはちょっと違うかも。素材の味を活かす方向だから、塩も油もすごく少ないのよ」
「なら、それも学べ。いろんな文化の料理を覚えるのは悪くない」
「はいはい、わかりましたよ、先生」
フィリアは肩をすくめながら頷いた。
そしてリリアは、そっとセラフィナの肩に手を置き、微笑む。
「一緒に練習しましょう、セラフィナさん。大丈夫です。私がちゃんと教えますから」
「……リリアさん。できる女って、時々怖いですわ」
「えっ?」
「いえ、なんでもありませんわ」
そんな他愛のないやり取りに、ロブは小さく笑みを浮かべるのだった。
和やかな笑いが広がる朝の食堂。
だがその空気は、ふとした違和感で破られた。
「……あれ、そういえばカイは?」
ふと気づいたエドガーが立ち上がる。
「さっきから姿見てないけど、まだ寝てるのか?」
「……珍しいわね。あの子、この村に来る道中もいつも一番に起きて修行してたのに」
フィリアが眉をひそめる。
「ちょっと見てくる」
そう言って部屋の奥へと向かったエドガーは、カイの部屋の扉を軽く叩いた。
「カイー? 朝だぞ、起きろー」
返事はなかった。
「……入るぞ?」
扉を開けると、すぐに異様な気配が襲ってきた。
「っ……!」
部屋の中は、うっすらと蒸気のような気が満ちていた。
その中心で、カイがベッドの上でうずくまっていた。全身に冷や汗を浮かべ、息は荒く、身体が痙攣している。
「おい……カイっ!? しっかりしろ!」
エドガーが駆け寄ると、カイの皮膚の下に魔法陣のような文様が浮かび上がり、カイの鼓動に合わせるかのように光を波立たせていた。
「師匠!カイが……!」
叫び声に、リリアとロブが飛び込んでくる。
一目見るなり、ロブの顔が険しくなった。
「くそ、来たか……」
カイの身体に手をかざすと、その内部から、制御を逸した魔素の渦が押し寄せてくる。
「ナノマシンの異常増殖だ。普段は魔法として放出して、過剰な魔素を外へ逃していた……だが、今回は内部で“ループ”を起こしてる。自己増殖を自己消費で上回れなくなってる……」
「どうすれば……!」
リリアが青ざめる横で、ロブはゆっくりと息を吸った。
「……俺が“吸い取る”。カイの体から、魔素を」
そう言って、ロブはベッドの端に腰を下ろし、カイの胸に手を当てた。
「クォリス。補助しろ」
『了解。カイ様の脳波とナノマシン制御系を一時遮断、補助制御領域へ移行します。ロブ様、魔素の流れに集中を』
「任せろ……!」
次の瞬間、ロブの掌から吸い上げられるように、青白い光が溢れた。
それはカイの体内から引き出された魔素——暴走したナノマシンのエネルギー。
「……こいつ……こんなものを抱えて、平気な顔してやがったのか」
額に汗を滲ませながら、ロブはただ黙々と魔素を引き受け続けた。
数分後、カイの呼吸がようやく落ち着く。
ナノマシンの輝きも、皮膚の下で静まりはじめた。
ロブは手を離し、そっと目を閉じる。
「……もう大丈夫だ。今は眠らせておけ。まだ危険は残ってるが、とりあえず今回は……抑えられた」
リリアがそっと胸をなでおろし、エドガーとフィリアも黙って頷いた。
日が高くなり始めた頃。
カイは、布団の中でゆっくりと目を開けた。
天井が見える。隣には、椅子に座って居眠りをしているリリアの姿。
「……ここは……?」
小さく呟くと、リリアがぱっと目を覚ました。
「カイくんっ!」
リリアはすぐに笑顔になり、そっと手を握る。
「よかった……無事で……」
リリアはベッドに横たわるカイのそばに座り、そっと手を握った。
「俺……暴走を……?」
カイがかすれる声で問うと、リリアはこくんと頷いた。
「でも、ロブさんが助けてくれたの。魔素を直接吸って、ナノマシンの暴走を止めてくれたのよ」
その言葉に、カイは苦い顔をして視線を落とす。
「そうか……ロブ師匠が………」
沈黙。どこか申し訳なさそうに俯いたカイを見て、リリアはそっと問いかけた。
「いつも、あんなに苦しんでたの?」
カイは少し迷うように眉を寄せ、そしてぽつりと口を開いた。
「………最近、この発作が、ひどくなってきてるんだ。オーバーマナシンドロームは成長とともに症状が重くなる。十五歳を迎える頃には、ほとんどが死んでしまう……」
言葉の一つひとつが、絞り出すように重かった。
「俺に残された時間は……僅かしかない」
リリアは言葉を失った。何も言い返せなかった。
「怖いんだ……リリア」
カイの声が震えた。
「誕生日を迎えるたびに俺はもうすぐ死ぬかもしれないって怖くなる………夜寝る時、このまま目が冷めないんじゃないかってひどく不安になる時があるんだ…………」
その目は、どこか遠くを見ていた。手のひらがじんわりと汗ばんで、震えていた。
「体が壊れていく感覚が強くなるたびに恐怖で体が震える。今度発作が出たらもう持たないかもしれないって。夜も眠れない。ようやく眠れたと思ったら自分が死ぬ夢を見て目が覚める。だから誰よりも早く起きて、誤魔化すように魔法の練習をしてた。怖いんだよ……何もできないまま、死んでいくのが……」
「そんな………」
リリアは絞り出すように言った。あまりに深い絶望が、カイの声には滲んでいた。
自分は何も知らなかった。あんなに元気そうに見えていた彼が、心の奥ではこんなにも——。
「ごめんね……気づいてあげられなくて……」
「いや……それでも……誰にも、言いたくなかったんだ。……どうせ俺は……って、思いたくなくて」
その時——。
コトリ、と木の床を踏む音がして、ロブが静かに部屋へ入ってきた。
カイとリリアが顔を向けると、ロブは黙って歩み寄り、ベッドの脇に腰を下ろした。
「少し、話を聞いてた」
ロブは、あえてカイの視線をまっすぐ受け止めず、天井を見上げたまま言った。
そこに、ロブが静かに入ってくる。
カイは身を起こそうとしたが、ロブが手で制した。
「まだ横になっていろ。無理するな。いいか、カイ。昨日も言ったがお前の体内で起きてる現象は本来想定されていない、異常増殖型のナノマシン暴走だ。放っておけば、確実に命を落とす」
ロブはクォリスを呼び出す。空中に光の輪郭が浮かび、クォリスの声が響いた。
『現在、カイ様の体内ナノマシンは、通常運用基準の321倍にまで達しています。脳波との干渉率も上昇傾向にあり、思考制御を誤ると再び暴走する可能性が高いと推定されます』
カイの顔が険しくなる。
「じゃあ、どうすれば……」
「制御しろ」
ロブが即答した。
「無理に外に放出してごまかすんじゃない。“自分の中にあるもの”として、理解し、扱えるようになれ。それができれば、お前のナノマシンは“力”になる」
「……そんなこと、できるのか……?」
「できる。だが、今のお前ひとりじゃ無理だ」
ロブはクォリスを指し示す。
「こいつが補助する。思考を読み、ナノマシンの動作を翻訳し、暴走の兆候があれば警告してくれる」
『はい。訓練時はリアルタイムで魔素の流れを可視化し、最も安全かつ効率的な制御ルートを提示可能です』
「つまり、ナノマシンという“猛獣”に、首輪と手綱をつけるんだ。お前が主人として、それを飼い慣らせ」
カイは拳を握った。
「それとな」
ロブはカイの瞳を覗き込み続ける。
「これからお前は出来る出来ないを口にするな」
「え?」
「やると言え」
その言葉にリリアは自分が王都に向かう途中でロブに言われたことを思い出した。
彼はあの時と同じ事を言っている。
「やると決めたら出来るようになるまでやり続けろ。どんなことでもな。それがお前の命を繋ぐたった一つの方法ならなおさらだ。お前が生きると決めたなら、死ぬ理由は全部蹴り飛ばせ」
それは強烈な言葉だった。
あらゆる理由を排除して最後まで突き進め。そう、ロブは言っている。
強い遺志を込めた黒い瞳がカイを射抜く。
カイはしばらくその瞳を見つめていたが、やがて意を決して口を開く。
「……やります。俺、自分の力を、ちゃんと“使えるもの”にします」
その目に宿るのは、かつての迷いや諦めではなかった。
ロブは微笑を浮かべる。
「いい目になったな。明日から、制御訓練を始める。クォリス、お前のサポートも頼む」
『了解しました。カイ様、よろしくお願いいたします』
小さく頷いたカイの頬に、リリアがそっと笑顔を向ける。
新たな訓練の始まり。
それは、彼の“命”を繋ぐ戦いであり、同時に、己の“力”を信じるための第一歩だった。
ロブとリリアはカイを残し部屋を出る。
カイには今日のところは安静にしてもらう手筈だ。
リリアはロブを見上げて笑う。
「どうした?」
「いえ、いい言葉だなって」
ロブは首を傾げて少し考えるが思い当たったのか、ああ、と小さく呟いた。
「言葉は侮れないからな。自分がこうするって決めたらあとはそれに向かって走るのみだ……てこれも前に言ったな」
「はい、ちゃんと覚えてますよ」
ロブは頷く。
「お前も立派な冒険者になるんだよな」
「はい、もちろん。絶対なりますよ。皆で一緒に。カイくんももちろん一緒です」
にっこり笑って宣言する。
ロブはふっと笑って廊下を歩き出す。
リリアはその背中について行きながら思いを馳せる。
『弟子には手は出さん』
朝、ロブが言った言葉だ。
ーーーー弟子じゃなくなったら、その時は。
と、心の中で無意識にそんな考えがよぎる。
(な、何言ってるのわたし!)
顔を真赤にして首を振る。
ーーーいや、でも、ロブさんはやるって言えって………いや、そういう意味じゃない!いや、でも、もしかしたら………
リリアは混乱する頭を抱え、ロブに続いて階段を降りていった。
この時の葛藤にリリアは近いうちに答えを出すことになるのだが、それはまだ知る由もないことだった。
……そして、この朝のぬくもりが、やがて嵐に飲まれていくことを、彼らはまだ知らなかった。
【リリアの妄想ノート】
え? ロブさんとわたしが……夫婦?
あ、ありえませんよそんなのっ! ぜんっぜんそんなことないしっ! わたしはただ、師匠として尊敬してるだけで……料理の呼吸が合うのは、修行の成果で……!
……でも、確かに一緒にキッチンに立つと、すごく自然で。安心できて。
あの味噌の「3グラム」とか、なんかもう、言われなくても分かるっていうか……。
うぅ、あの二人も揃って「夫婦?」って……!
朝から二人で「夫婦!」って言うのおかしいでしょ!? もうぅぅぅ……!
しかもロブさん、「弟子に手は出さん」とか、冷静にバッサリ言うし……。
そ、それって……弟子じゃなくなったら……ってことですか!?
いやいやいやいや! 違うし! なに言ってんの私! そういう意味じゃなくて!
そもそもロブさんがそういうの興味あるわけ——いや、でも、でも……
もしかしたら、誰かに取られる前に弟子卒業したほうがいいかもとか、そんなの考えて——
あーーーーーーもう!!!!
私、頭冷やしてきます!!! あとでちゃんと味噌汁の味見してもらうんだから!
【あとがき】
今回は、朝のちょっとした日常と、カイの苦しみ、ロブの叱咤と支え……と、物語がひとつ大きく前に進む回になりました。
タイトルにもあるように「命の制御」はカイだけの課題ではなく、リリアや他の弟子たちにとっても、それぞれの“未来”への覚悟に繋がっていくテーマになります。
リリアとロブの関係も、少しずつですが距離が近づいていますね。
とはいえ、ロブはあの通りですので……焦らず、じっくり見守ってあげてください。
次回は、いよいよ「カイの訓練」が始まります。どうぞお楽しみに!




