第55話 整いすぎた村と、海老男の帰る場所
馬車はゆっくりと草原の中を進んでいた。
春の風は柔らかく、揺れる野花の香りが車内にふんわりと入り込んできた。広がる大地には小さな丘が連なり、遠くには木立や水車小屋のような村の影がちらほらと見える。
「ふふっ……空が広いですわねぇ。あちらの雲、羽のような形をしていて可愛らしいですわ」
窓辺に頬を寄せて外を見つめるセラフィナは、どこか浮き足立った様子だった。王都から一歩も出たことがなかった彼女にとって、こうして自然の中を旅するのは、まさに未知の冒険だった。
その様子にリリアがくすっと笑いながら口を開く。
「セラフィナさん、ほんとに楽しそうですね。そんなに田舎に行くの、嬉しいですか?」
「ええ、とっても。王都には確かに何でもありますけれど、緑がこれほど豊かな場所なんて、行ったことがございませんもの」
「うーん……私はどっちかというと、王都のほうが快適だったなぁ。お風呂もいつでも入れるし、水道だってあるし」
そう言ったリリアに、カイがうなずいた。
「同感。水道があるってのは、やっぱデカい。井戸を引いて、毎日水くみに行く生活に戻れって言われたら、正直ちょっときつい」
「ふふ。おふたりとも、都会の水に慣れてしまったのですわね」
セラフィナが肩をすくめて笑う。
「でも、王都の水道って便利ですよね。魔石で水を作って出してるって知ったときは、びっくりしました。あんなの、田舎には絶対ない」
「本当に。あれは魔導技術の粋ですわ。“蒸留魔法陣”を通して水分子を構成するシステム……たしか、都市ごとに設計が違うと聞きましたわ」
リリアは感心したようにセラフィナを見て、小さく頷いた。
「さすが、物知りですね」
「魔導学舎で学びましたわ。何度か資料を拝見したことがありますの」
「へぇ……」
そんな会話を聞いていたカイが、ふっと笑った。
「まあ、便利すぎるってのも考えもんだよな。なんでも揃ってると、逆に退屈になるっていうか」
その言葉に、御者台のロブが思い出したように口を開く。
「……そういえばカイ、お前の前世って、住んでたのは東京だったな?」
「ああ。渋谷に住んでた」
「シブヤ……ですか?」
セラフィナが、聞き慣れない響きをゆっくりと繰り返した。
「えっと、それって、どんなところなんですか?」
リリアも首をかしげる。
カイは少しだけ目線を上に向け、懐かしそうに息を吐いた。
「んー、そうだな……人が多くて、ビルが空に届きそうなくらい高くて。電車っていう箱が地下を走ってて、夜でも街が明るい。スマホって道具で、世界中の人とすぐ連絡が取れる。食べ物や服も、全部指一本で買える」
「すごいですわね……本当に、そんな世界が……」
セラフィナは目を丸くする。
「でも、あまり楽しそうには聞こえないです」
リリアが、静かに口を挟む。
「うん、正直……息苦しいって感じることも多かった。なんでもあるけど、何も残らないような場所だった」
カイは言葉を選びながら、遠い過去を思い返しているようだった。
「けど、そういう環境で育ったからこそ、今の暮らしがありがたく思えるのかもな。水を汲むのが面倒だって思ってたけど、だからこそ水がもっと美味しく感じる」
「……懐かしいな。俺も、東京に住んでたことがある」
ロブの呟きに、カイがわずかに眉を上げた。
「ロブ師匠も?」
「ああ。最初の仕事を辞めて、ヘリオスの研究室に入ったんだ。それから数年して、本社勤務でアメリカに行くまでは、ずっと東京暮らしだった」
「……なんか、カッコいいっすね。研究所で働いて、海外勤務って」
カイの感嘆に、ロブは苦笑まじりに肩をすくめた。
「そんな大層なもんじゃないさ。最初の会社をクビになって、途方に暮れてたところに不知火が声をかけてくれた。あいつには恨みもあるが恩もある」
「……なんでクビになったんですか?」
「……初めて“脱皮”が始まったときのことだ。全身が焼けるように熱くなって、皮膚が再構築されて、一週間……ベッドから起き上がることすらできなかった。もちろん、連絡なんて取れやしない。無断欠勤ってことで、あっさり解雇通知が来たよ」
ロブの語りに、一瞬、馬車の中が静まり返る。
「……ああ……」
カイの相槌だけが、妙に馬車の空気に沁みた。
その空気を断ち切るように、エドガーが口を開いた。
「……師匠。テルメリア村には、あとどれくらいで着きますか?」
ロブはちらりと視線を前へやり、草原に続く一本道と、遠くに見え始めた木立の影を見ながら答えた。
「そうだな。休まず進めば……あと二時間ほどってところか」
「けっこう走りましたね」
エドガーが頷き、馬車の揺れに体を預ける。
そのやり取りをきっかけに、リリアがずっと胸に抱えていた疑問を、そっと口にした。
「あの、ロブさん。……前から聞きたかったことがあるんです」
ロブはリリアに目を向ける。
「ん?」
「……私の村、セイランって、テルメリア村からすごく遠いですよね。でも、あの日……私が紅竜団に襲われたとき、どうしてロブさんはあんな場所にいたんですか?」
ロブは少しだけ目を細め、それから小さく息をついた。
「……墓参りの帰りだった。昔の友人のな。バルハルトの近くにあるんだ」
その時、それまで窓の外ばかり見ていたフィリアが、ぽつりと呟いた。
「それって……」
ロブは頷いた。
「ああ。お前の父親の墓だ」
風の音だけが、馬車の中を通り抜けていく。
「毎年行ってた。命日には必ず、何があっても、花を手向けに」
フィリアは顔を背けたまま、しばらく黙っていた。やがて、ぽつんと、ぶっきらぼうな声で言った。
「……ありがと」
その声は小さかったが、確かに届いた。ロブは何も言わず、ただ静かに頷いた。
リリアは、静かに俯くロブと、そっぽを向いたままのフィリアの姿を見つめながら、胸の奥にひっかかっていた記憶を手繰り寄せていた。
フィリアの母、セレニアはロブに恋心を抱いていたという。
セレニアはエルフで、人よりずっと長く生きる。
ーーーもし、ロブさんと一緒に時を重ねるなら、あの人なら――そう思っていた。
でも、自分は――人間で。
リリアは、そっと自分の胸に手を当てた。ロブの隣で笑える日が来たとしても、その時間はほんのわずかだ。
やがて年老いて、追いつけなくなる。
それを考えただけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。
――ずるいな、って思っちゃうのは、間違ってるのかな。
答えの出ない想いが、静かにリリアの中で渦を巻いていた。
馬車は緩やかな丘を越え、林を抜けていく。
やがて、視界の先に――村の輪郭が見え始めた。
「……あれが、テルメリア村……?」
リリアが思わず声を漏らした。
村の入り口を越えた瞬間、馬車の車輪が軽く跳ねた。砂利ではない、しっかりと固められた黒い道――アスファルトの舗装が足元に広がっていた。
「すごい……! 道が、石じゃない……!?」
思わず身を乗り出したのはエドガーだった。
「この滑らかさ、王都の大通りよりも整ってるじゃありませんの」
セラフィナも驚きに満ちた声を上げる。
左右に目をやれば、道沿いには綺麗な商店が整然と並んでおり、看板や商品棚が丁寧に整備されているのがわかる。花屋、仕立て屋、パン屋、そしてカフェのような建物まで。建材は木と石を組み合わせた堅牢な作りでありながら、どこか温かみがあり、統一感すらあった。
村の中心に差しかかったとき、公園の一角にある噴水が目に入った。中央から勢いよく水が吹き上がり、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。周囲には芝が広がり、子どもたちが笑い声をあげて走り回っていた。
「……村、なんですよね……ここ」
リリアがぽつりと呟く。
「小さいのに、まるで王都の高級区画のようですわ……いえ、それ以上かもしれません」
セラフィナは瞳を輝かせ、まるで童話の世界に迷い込んだかのように村を見渡した。
「どこもかしこも無駄がなくて、清潔で、機能的だ。まるで………21世紀の日本だ」
カイが言葉を探すように呟いた。
「……設計された“理想郷”って感じだな」エドガーが静かに続けた。
ロブは何も言わず、皆の反応を静かに眺め微笑んでいた。
――テルメリア村。ロブが静かに、だが確かな意志をもって育て上げた“平和”の象徴。
その場所に、いま彼らは初めて足を踏み入れたのだった。
馬車が村の広場に差しかかると、作業中だった農夫や通りを歩いていた婦人たちがロブに気づき、次々と笑顔で声をかけてきた。
「おかえりなさい、ロブさん!」
「久しぶりだねぇ、また背ぇ伸びたんじゃないかい?」
「村長!次の集会、また参加してくれるんだろう?」
軽やかな声が飛び交い、誰もが自然体で、そして親しげだった。
「えっ……いま、村長って……?」
リリアがきょとんとした顔で振り返る。
「お師匠様って……ここの村長だったのですか……?」
セラフィナの眉がぴくりと跳ね上がる。
「聞いてないぞ、ロブ師匠」
カイが軽く肩をすくめる。
「マジかよ……」
エドガーも呆れたように息を漏らす。
そんな皆の反応に、ロブは気にも留めず、馬車から降りながらあっさりと告げた。
「村長じゃないよ。この村を作った――それだけだ」
その一言に、全員が思わず目を丸くする。
しかしロブは気にも留めず、晴れた空を仰ぐと、懐かしそうに村の空気を吸い込んだ。
「さて、帰るか」
そう言って、ロブは静かに歩き出した。
彼の背を追うように、リリアたちも、驚きと敬意の入り混じったまなざしで、その歩みに続いた。
――こうして、彼らの新しい生活が始まる。
【リリアの妄想ノート】
テルメリア村って、本当に“村”なの……?
道はピカピカ、建物はおしゃれ、公園には噴水って!ここ、絶対王都より住みやすい!
しかも村の人たち、みんなロブさんのこと大好きなんだよ!?
“村長”って呼ばれてたし、ロブさんがこの村を作ったって……なにそれ、かっこよすぎる……
フィリアさんも、ちょっと照れた感じで「ありがとう」って言ってて、なんか……いいなって思った。
ロブさん、毎年お墓参りしてたなんて、そういうとこ本当にずるい。惚れる。
でも、ふと考えちゃうんだ。私、人間だから……ロブさんと一緒にいられる時間、すごく短いんじゃないかって。
そう思ったら、胸がきゅーってして……うう、だめだ、今は考えすぎない!
とにかく、今日から新しい生活スタート!
修行も始まるし、絶対負けないって決めたからっ!ロブさんの弟子ナンバーワンは、私だよーっ!
【あとがき】
お読みいただき、ありがとうございました!
第55話では、ついにロブの帰還と“伝説の村”テルメリアへの到着が描かれました。
今まで断片的に語られてきたテルメリア村の全貌が明らかになり、リリアたちの驚きや新しい生活の始まりが、ささやかな希望として描けたら嬉しいです。
次回からはいよいよ“修行編”が本格スタート!
ロブによる指導はどんなものなのか?弟子たちはどう成長していくのか?
それぞれの力と向き合う日々が、彼らを少しずつ変えていきます。
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それでは、次回もどうぞよろしくお願いします!




