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第53話 託された未来

 病室は静かだった。


 ヘリオス本社の最上級医療フロア――特別個室に、機械音すら控えめな静寂が流れていた。

 ベッドの上には、かつて“人類の未来を創る男”と呼ばれた男が横たわっていた。

 ヴィクター・H・オズワルド。

 その体は痩せ細り、かつての鋭さを宿した眼差しにも、今は柔らかな陰りが差していた。


「……来てくれて、ありがとう。不知火君。……修一も」


 穏やかな声だった。

 それは、あの講演会場で世界を熱狂させた演説の主とは思えないほど、静かで、優しい声だった。


 修一は一歩近づき、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。

 不知火も口を噤んだまま、窓際に立っている。


「……お元気そうですね」


 そう言った修一に、ヴィクターは少しだけ眉を上げて笑った。


「見かけだけだよ。ナノマシンで肺を少し延命してるが……もう時間の問題だ」

「……」


 ヴィクターはゆっくりと修一を見つめる。


「君と最初に会ったときのことを、今でもよく覚えているよ。

 不知火君に紹介されたのが昨日のことのようだ。周囲の人間は君のことをただの被験モニターの縁故採用と侮っていたね」

「もう20年前のことです。覚えてませんよ」


 修一は少しだけ口元を緩めた。

 

 それを聞き流し、ヴィクターは訥々と語る。


「……だけど私は、あの時すでに確信していたんだ。“この青年は、やがて私たちが到達できなかった場所まで辿り着く”ってね。

 不知火君は確かに、魔法構文理論の基礎を築き、ナノマシンと魔力演算の融合を可能にした天才だ。

 だが彼の技術は、あくまで“彼だけのもの”だった。

 共有も普及も難しく、社会に落とし込むには遠すぎた。けれど君は違った。

 ゼロから専門知識を学び、各国の言語を習得し、国際チームを束ねて研究を進めた。

 誰も扱えなかった構文を改良して、学生でも使える教育用魔法ツールに変え、そして各国政府への提言によって、ナノマシン導入の安全基準さえ制度化した。

 ――君は、“自分の殻”を破っただけじゃない。 “技術と社会を繋ぐ回路”になった。

 それこそが、私たちが超えられなかった限界だったんだよ」

「それは……違います。不知火所長が導いてくれたからです」

「いや、君の努力だよ。脱皮だけじゃ、人は進化しない。自分で殻を破った者だけが“変わる”んだ。」


 そう言ってヴィクターは、視線を不知火に向けた。


「不知火君。君には、厳しく接しすぎたかもしれない。だが私は、君の狂気がなければ魔法は実現しなかったと、今でも思っている」

「……それが、“死に際の言い訳”でないことを願います」


 不知火は視線をヴィクターに向けたまま、小さく吐き出すように言った。


 声は淡々としていたが、その語尾には、かすかな熱が混じっていた。


 まるで、ほんの少しだけ、胸の奥に引っかかっていた棘が抜けたような――そんな表情だった。


「……君たち二人に頼みたいことがある」


 ヴィクターの声が少しだけ強くなった。


「ナノマシンと魔法の研究を、どうか守ってほしい。 今の経営陣は、“制限の解除”を進めようとしている。だが、それは――人類にとって毒だ」


 静かに、だが確かな意思が込められていた。


「力には、必ず制御が必要だ。誰でも魔法を自由に使えるようになれば、秩序は崩壊する。 私はそれを恐れて、あえて制限をかけてきた。非難されても、理解されなくても……構わなかった」


 修一は、小さく頷いた。


「その意思、俺が引き継ぎます。今度は、俺たちの番ですから」


 ヴィクターは満足そうに目を細めた。


「ありがとう、修一。不知火君……どうか、頼んだよ」





 病室を後にした二人は、白く長い通路を並んで歩いていた。


 窓の外に広がる青空が、どこまでも静かに透き通っていた。

 さっきまで交わしていた重い会話の余韻が、まだ肩にのしかかっている。


「これで、残ったのは僕たちだけですね」


 不知火がぼそりと呟く。


「ロブスターの適応者……か」


 修一は静かに頷いた。


「遺伝子を移植されたのは六人。そのうち、脱皮まで至ったのは四人だった」

「でも、二人は脱皮不全で亡くなりました。

 一人は初回の脱皮で心臓に過負荷がかかって停止。もう一人は、皮膚が剥離しきらず感染症を起こして……助けられませんでした」

「三人目は事故死だ。反射速度が上がりすぎて、自動車の動きに反応して……逆に飛び出してしまった」


 不知火が苦く笑う。


「すごい皮肉ですね。“高性能”が、“予測不能”になるとは」

「四人目は、病死。もともと肺がんを患っていた。

 脱皮で細胞が若返ったことで、がん細胞も活性化して、あっという間に体中に広がったらしい」

「再生と破壊は、紙一重ってことですか」


 不知火の口調は淡々としていたが、その声色には冷静な観察者の厳しさが滲んでいた。


「それと……一人、行方不明ですね。ある日突然姿を消した。当時の記録を調べても、転居届けも、出国記録も残っていない」

「生きてると思うか?」


 修一が問うと、不知火は少しだけ間を置いてから答えた。


「さあ……ですが、“死んだ”という証拠もありません。生きていると仮定しておく方が自然です」


 修一は小さく頷いた。


「結局、“ロブスターの遺伝子”があるからといって、何もかも解決するわけじゃない。

 食事も睡眠も、ストレス管理も……全部おろそかにすれば、普通の人間と同じように死ぬ」

「万能ではないってことですね。

 不老になっても、不死にはならない」


 その言葉に、修一はわずかに目を細めた。

 何も言わず、ただ前を見て歩き続ける。


 そして不知火がふと、横目で彼を見やる。


「でもまあ、君みたいにストイックな生活してる人間なら、そりゃ長生きもするでしょう」

「自分を律しないと、中身まで化け物になりそうでな」


 そう冗談めかして返した修一に、不知火は鼻で笑った。


「自覚があるだけマシですね」


 ふたりは無言で歩を進める。

 通路の先、次のゲートが静かに開く音がした。

 

 二人は通路を抜け、エレベーターホールの前で足を止めた。


 沈黙の中、修一が口を開く。


「……あの人の言葉は、ただの遺言じゃないと思う」

「ですね。“未来を守れ”という命令でも、“栄光を継げ”という期待でもなかった。あれは――“責任の共有”でした」

「俺たちは、見てしまったからな。ナノマシンの力も、魔法の危うさも……」

「引き受けるしかないですよ、彼の分まで」


 静かに頷き合うふたりの間に、固い決意が交錯していた。


 


――その翌週、ヴィクター・H・オズワルドは死去した。


 その報せは、世界中の主要メディアによって報道された。

 “魔法時代の父”とまで称されたカリスマ科学者の死は、技術界だけでなく、政財界、宗教界にまで波紋を広げる。


 だが――

 その死からわずか三日後。


 ヘリオス・グループ本社、役員会議。


 議題は一つ。「魔法使用に関する制限の全面解除」。


 議場のモニターには、各国からの経済圧力、軍事応用の進展報告、国民の不満と要望がずらりと並んでいた。


「今後も制限を続ければ、他国に主導権を奪われるだけだ」

「そもそも、今の技術なら暴走も事故も防げる」

「制限を外せば、売上は五倍になる」


 経営陣の大多数が「解除」に賛成票を投じる中、不知火が静かに席を立つ。


「……これは暴挙です」


 誰も応じなかった。


 続いて、修一も口を開いた。


「魔法は、技術じゃありません。“責任”です。それを扱う資格のない者に渡すなら、いずれ――」

「発言は結構です。あなた方には、もはや発言権はありません」


 議長が一言で遮った。


 その日の午後、不知火と修一の解雇が正式に発表された。




 ――そして。


 魔法文明は、急速に発展していった。


 交通、医療、軍事、通信、教育、農業――

 あらゆる分野に魔法が導入され、かつては神話に語られたような奇跡が、日常へと変わっていった。


 そして、それは“人”だけの進化ではなかった。


 遺伝子設計によって生み出された人工種族――


 高い魔素適応性と長寿命を持つELFエルフは、魔力制御と医療・通信分野でその能力を活かされ、

 重労働や精密作業に特化したDWAFドワーフは、建設・工業・輸送インフラの要となり、

 統率力と知能を持つMAGOKマゴークは、軍事や行政補助、管理AIとの仲介役として評価されていた。


 そして、制御に難があるとされたMAUGマウグ――

 破壊衝動を内包しながらも、戦闘訓練や特殊労働に限定配備されることで、管理下での“活用”が進められていた。


 社会は、もはや“人間だけのもの”ではなくなっていた。


 工場ではドワーフがラインを管理し、

 学校ではエルフの教師が魔法演算を教え、

 企業ではマゴークが営業チームを統率し、

 一部地域では、マウグが警備ユニットとして配置されるようになっていた。


 「制限なき力」は、“新人類”をも受け入れながら、人類社会を塗り替えていく。

 そして人々は、それを疑うことなく「進歩」と呼んだ。


 その裏で、かつて制限の意義を唱え、研究に命を捧げた者たちの名は、

 静かに――歴史から薄れていった。



――それから、千年の時が流れた。



 ナノマシンによって繁栄した魔法文明は、かつての技術企業ヘリオスを中心に統一されていった。

 やがて、人々はその名に信仰を重ねるようになり、

 ヘリオス社は「太陽神ヘリオス」として崇められ、その技術体系は教義となっていく。


 エルフは“神の加護を受けた高貴な種族”とされ、

 ドワーフは“聖なる鍛冶師”として各地の工房で重宝された。


 しかし――

 高度な知能と魔力制御能力を持つマゴーク(MAGOK)は、

 “魔族”と呼ばれ、

 やがて人間の支配を脅かす存在として警戒され始める。


 暴走する者、反旗を翻す者が現れ、

 そのたびに“魔族は危険で狡猾な種族”という偏見が強化されていった。


 さらに、純粋な戦闘用兵種であるマウグ(MAUG)は、

 “魔物”と呼ばれ、制御不能な暴力の象徴として語られるようになる。

 街を破壊し、人々を襲ったという伝承が広まり、

 彼らの姿は、次第に“恐怖”そのものへと変わっていった。


 かつて共に暮らし、働き、築いたはずの種族たちは、

 人々の記憶の中で“異形”として再定義されていく。


 


 そして、争いは避けられなかった。


 魔法文明を信奉する者と、自然の理を尊ぶ者。

 神の名を掲げる者と、技術を忌む者。


 戦火は全土に広がり、ついには文明そのものを呑み込んだ。


 空に浮かぶ神殿都市は墜落し、量子魔導炉は封印され、魔法そのものが禁忌と化した。


 ――さらに、千年が過ぎた。


 今や魔法文明は“神話”となり、真実を知る者は誰もいない。

 魔族は災厄の使徒とされ、魔物は討伐すべき脅威とされ、

 人々はそれを“歴史”として信じている。



 かつてロブと呼ばれた男の名も、もう語られることはない。


 だが、その意思は、静かに――時を越えて、生き続けていた。


 そして、さらに千年の時が経ち物語は再び動き出す。


 ただの青年がロブスターの遺伝子を移植されてから、三千年後。

 世界の理を知る少女たちが、の大地に降り立つ時、

 忘れ去られた歴史が、静かに目を覚ます――。


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