第17話 海老男、誰にも知られず奇跡を遺す
ロブが静かに、小さく息を吐いた。
それはまるで、長く続いた悪夢の終わりを告げる合図のようだった。
――終わった。
――これで、本当にすべてが。
リリアはロブの隣に並び、まだ崩れたままの村の中央広場へと戻った。焦げた建物、砕けた石畳、そして無数の血痕と倒れた人々。
あまりにも変わり果てた故郷の姿に、彼女の心は深く沈んでいった。
だがそこに集まっていた生き残りの村人たちは、彼女の姿を見て目を見開き、そして彼女の一言に、ほっと安堵の息を漏らした。
「終わりました。盗賊のボスも……死にました」
その言葉は、一瞬だけ人々の心を解放した。けれど、すぐに代わりに広がったのは、止めどなく湧き上がる悲しみだった。
「お父さん、お母さん………戻ってこないの……?」
「うちの子も……あの子も……」
あちこちからすすり泣く声が聞こえ、嗚咽が重なっていく。その悲痛な声の波に、リリアはただ立ち尽くすことしかできなかった。
何もできなかった。守れなかった。失われた命は、戻ってこない。
肩を落とし、リリアは天を仰いだ。
そんな彼女の背中に、静かな声が届いた。
「悲しんでる暇はないぞ」
リリアが振り返ると、ロブはすでに広場の中央へと歩を進めていた。
彼はそっと目を閉じると、深く、静かに呼吸を整えた。
すると彼の足元に、青白い光を帯びた魔法陣が浮かび上がった。幾重にも重なる幾何学模様が地に刻まれ、空気がびりびりと震え始める。
その中心で、ロブが低く呟いた。
「Et ex morte, vita. Corpus, spiritus, anima…」
異国のものともつかぬ古の言葉が、夜に響く。まるで時の底から引き上げられたようなその詠唱に、村人たちは言葉を失った。
その瞬間――魔法陣が眩い光を放った。
夜の闇が押し返され、広場に柔らかな輝きが広がっていく。まるで月明かりが何倍にも濃くなったような、優しく、包み込むような光だった。
あちこちに倒れていた村人たちの亡骸が、その光に照らされるたび、静かに脈動を始める。
切り離されていた腕が、ゆっくりと繋がっていく。血で染まった胸が、わずかに上下し、鼓動が戻る。
死に閉ざされていたその身体が、まるで時を巻き戻すように、生を取り戻していった。
深い沈黙を破るように、誰かのかすかな吐息が漏れる。
「……ぁ……」
その声に、すぐそばにいた者が目を見開いた。
「生き返った!おい!」
「母さんっ!!」
泣き叫ぶような歓喜が、次々と上がる。
蘇る命。
奇跡の連鎖。
夢にすら見なかった再会の瞬間が、いま目の前に広がっていく。
それはまるで――絶望の闇の中に差し込んだ、ひとすじの希望の光だった。
誰もが涙し、誰もがその奇跡に手を伸ばした。
この瞬間だけは、確かに皆が救われたのだと、誰もが信じることができた。
そしてその中に―――リリアの両親の姿もあった。
光が降り注ぐ中、リリアは倒れていた父と母の元へ駆け寄った。
肉が、骨が、静かに動き出した。
父の顔が、砕けた部位からゆっくりと再構築されていく。潰れていた頬骨に曲線が戻り、破れた皮膚が滑らかに再生され、あの穏やかな面影が少しずつ現れていく。
腹を貫いていた傷口も塞がり、呼吸とともに、彼の胸が上下し始めた。
続いて母の身体も光に包まれる。ねじ切られてい両腕が繋がり、裂けた肌が癒えていく。
目を開けた父と母が、呆然と娘を見つめた。
「リリア?」
「あなた……無事だったの……?」
「お母さん、お父さん!」
リリアは涙をこらえる暇もなく、両親に飛びついた。
「……生きてる……? な、なんで……」
エリザは呆然と自分の身体を見下ろした。貫かれたはずの腹部は癒え、痛みもない。
ただ、なぜ自分が蘇ったのか、その理由がわからず、戸惑いだけが胸に残った。
「お前からは、まだ聞きたいことがある。お前が使ってた魔法のこととかな」
ロブの低い声に、エリザは小さく息を呑んだ。
生かされた理由が、ただそれだけだと悟ったような気がして―――彼女は黙ってうつむいた。
その様子を、リリアは涙に濡れた瞳で見つめていた。
彼女も許される者ではない。だが、最期のあの姿にはリリアも僅かなりとも同情していた。
しかし、それよりもリリアにはもっと大事なことがあった。
リリアの視線は、すぐに広場の隅に転がる“彼女”へと戻る。
――エレナ。
火傷だらけの裸体。両目が抉られた頭部。
あまりにも痛ましい姿だった。
―――そんなエレナの体と首に、静かに光が降り注ぐ。
リリアは思わず、駆け寄って膝をついた。焼け爛れた肌が、煙のように剥がれ落ち、その下から透き通るような肌が現れていく。
焦げついた指先が元の白さを取り戻し、肩、腕、胸、腹、脚と、全身が少しずつ生気を取り戻す。
そして―――転がっていた頭部が、音もなく浮かび上がる。
リリアの目の前で、首がゆっくりと身体へ繋がっていく。
骨が組み合わさり、筋肉が伸び、皮膚がぴたりと合わさる。抉られていた眼球が再生され、瞳に光が差し込み、赤毛がふわりと風になびいた。
やがて、姉のまぶたが震え、そして、開いた。
「……リリア……?」
その声を聞いた瞬間、リリアは叫び声とともに、姉にしがみついた。
「お姉ちゃんっ……お姉ちゃん……っ!!」
胸の中で、エレナの心臓がしっかりと鼓動を刻んでいる。その温もりが、現実であることを証明していた。
死の淵から戻った姉の命が、確かにそこにあった。
涙が止まらなかった。言葉にならない思いが、溢れたまま頬を濡らした。
そして、リリアはもう一度、強く姉を抱きしめた。
「本当に、お姉ちゃん……よかった……!」
抱きつき、涙を流すリリアに、エレナは優しく腕を回した。
周囲の村人たちも次々に声を上げる。あちこちで抱き合い、膝をついて天を仰ぎ、泣きながら笑い合う声が広がっていく。
涙、歓喜、奇跡のざわめきが夜の静けさを打ち破り、温かく広がっていく。
―――だが、その中心で。
ロブは、ひとり静かに目を閉じていた。
胸の奥から、深く息を吸い、ゆっくりと吐く。その呼吸は、どこか寂しげで、決意に満ちていた。
そして―――呟いた。
「……Oblivio. Silere. Somnus memoriarum.」
古の言葉が、彼の口から洩れた瞬間。
地面に刻まれた魔法陣が、淡い青白い光を放ち始める。その光は、火でも雷でもない。まるで“夢”のように柔らかく、記憶の奥深くに届く光だった。
次の瞬間、空気が震えた。
風が吹くわけでもなく、音が響いたわけでもない。
―――それなのに、世界がひとつ、静かに書き換わった。
歓喜の声を上げていた村人たちの動きが、ふと止まる。
誰かが首をかしげ、誰かが辺りを見回す。
「……あれ? なんで、私……泣いてたんだろう……?」
「俺も……? いや、でも……よかったんだよな。うん、なんか、よかったって……」
奇跡が起きたという事実だけが、ぼんやりとした幸せな感情として心に残る。だが、肝心のその「奇跡」が、何だったのかは、もう誰の記憶にも存在しなかった。
命が戻った理由も、ロブが何をしたかも―――まるで霧が晴れるように、やさしく、でも確実に、心から消えていく。
リリアだけが、その様子を目の当たりにしていた。
ロブがどれだけの力を使い、どれほどの代償を背負って、その全てを無かったことにしたのか。
そして、彼が最後にぽつりとつぶやいた言葉が、心に残った。
「……このことは、誰にも言うなよ」
ロブの言葉は、風に溶けて消えそうなほど小さな声だった。
けれど、それはリリアの胸に深く、はっきりと刻まれた。
まるで―――ひとつの世界を終わらせ、そして誰にも気づかれずにその続きを創り出した男の、最後の願いのようだった。
周囲を見渡せば、村人たちはそれぞれの再会に喜び、もう奇跡の記憶を持たないまま、穏やかに笑っていた。
けれど、リリアだけはすべてを知っている。
誰よりもその重さを、痛みを、ロブの背負った覚悟を、感じていた。
それは、英雄として讃えられることもなく、奇跡を語られることもなく、ただひとつの命のために全てを背負う者の―――静かな覚悟だった。
その瞬間だった。
ロブの身体が、ふらり、と傾いた。
「っ……ロブさん!」
慌てて手を伸ばしたリリアが、彼の身体をしっかりと受け止める。
その腕の中に収まったロブは、わずかに顔をしかめながらも、静かに息を吐いた。
「……っと。悪い、魔力が切れただけだ。心配するな」
苦笑まじりにそう言った彼の顔は、ほんのりと青白く、いつもよりずっと頼りなく見えた。けれど――それでも、彼は笑っていた。自分を安心させるように。
リリアは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じながら、そっと手を伸ばし、彼の腕を引いた。
そして、静かに、自分の膝の上へと彼の頭を預ける。
「……ん?」
ロブが微かに目を開けた。寝ぼけ眼でこちらを見上げるその顔には、かすかな戸惑いと――少しの照れが浮かんでいた。
「……約束、でしたよね。膝枕、してあげるって」
リリアがふんわりと微笑むと、ロブの目が驚いたように見開かれ、それから安心したように細くなった。
「……ああ、そうだったな」
「本当に……ありがとうございます。あんなこと、できるなんて」
「運が良かっただけだ。あと少し遅れていたら、間に合わなかったかもしれない」
「え?」
リリアの目がわずかに見開かれる。
「蘇生魔法は、万能じゃない。死んでから時間が経てば経つほど、蘇る可能性は下がっていく。俺の知る限り、五時間が限界だ。それを過ぎると、成功率は激減する」
「だから、あんなに急いでたんですね……」
リリアの脳裏に、村に向かう途中の彼の姿がよみがえる。迷いのない足取り。焦るような空気。
まるで、すべてを最初から見通していたかのように―――本当に、この人は。
ふと、リリアは気づいた。ロブの手がかすかに震えている。
呼吸も浅く、額には薄く汗が浮かんでいた。
「……ロブさん。もしかして、まだ……どこか、痛いんですか?」
「……ああ。さっきの戦いの前、毒を受けてな」
ロブは、軽く目を閉じて答える。
「魔法で解毒はしたが、神経にまで回ってた。痺れが残ってて、視界もぼやけてたよ。正直、ヴォルフとやり合うには最悪の状態だった」
「え……そんな……!」
リリアは思わず、膝の上の彼を見つめた。
―――そんな異常な状態であんな圧倒的な戦いをしていたなんて。
痺れた身体で、視界すら曇る中で、それでも全員を救うために戦っていたのだ。
自分の命を削ってまで―――。
そして、リリアの脳裏にある記憶がよみがえる。
―――戦いの序盤、ロブは確かにヴォルフに押されていた。
動きが鈍く、反応が遅れていた場面もあった。
でも、終盤になるにつれて、それが消えていった。
まるで、自力で毒を押さえ込みながら、少しずつ修正していたかのように。
「……あれも、毒のせいだったんですね……」
リリアがぽつりと呟くと、ロブは目を閉じたまま、微かに苦笑した。
「気づいてたか。……鈍くなってたのは事実だ。あれで押されてたなんて、情けない話だが」
「そんなこと……ありません」
リリアは首を振った。涙が滲む。
むしろ、あんな状態であそこまで戦えたことの方が、よほど信じられない。
その時、不意にリリアの視線がロブの胸元に落ちた。
―――ない。
さっきまであったはずの、ヴォルフに受けた爪傷が、綺麗になくなっていた。
裂けた鎧の下に覗いていたあの生々しい傷口も、血の跡も、すでに痕跡すら見えない。
まるで最初から、何もなかったかのように。
「……傷、消えてる……」
リリアが思わず呟くと、ロブが目を閉じたまま口元をわずかに緩めた。
「再生した。……俺の身体は、少し変わってるからな」
その言葉の裏に、何か大きな秘密があることを、リリアも察していた。
だが今は、それを深く追求する気にはなれなかった。
ただ、この人はどこまでも遠くて、どこまでも優しい。
自分たちのために、限界の中で戦い、誰よりも傷つき、そして黙って立ち続けてくれる人。
「無理しないでください……。もう、誰にも文句言われませんよ。十分すぎるくらい、戦いましたから」
そっと囁くように言うと、ロブはわずかに微笑んだ。
「じゃあ、少しだけ甘えさせてもらおう」
ロブはそう呟くと、そっと目を閉じた。
その寝顔は、いつになく穏やかで、優しくて―――まるで重たい鎧を脱ぎ捨てた戦士のようだった。
リリアはその横顔をじっと見つめながら、心の奥がふわりと温かくなるのを感じた。
救われたのは、自分だけじゃない。
きっと、この人自身も―――少しだけ、救われたのかもしれない。
―――きっと、彼も誰かに救われたかったのだ。
「……ありがとう、ロブさん」
小さな呟きが、夜風に乗って溶けていく。
静けさに包まれた村には、癒しと祝福の気配が満ちていた。
【あとがき】
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
今回は、第一章のクライマックスにふさわしい、魂の揺さぶられる回となりました。
ロブの力、リリアの涙、そしてエレナとの再会――全ての感情が重なった、まさに"奇跡"の夜です。
ですが、彼が背負ったものは決して軽くはありません。
命を救い、記憶を消し、誰にも知られずに去ろうとするその姿に、胸が締めつけられた方も多いのではないでしょうか。
第1章はこの瞬間にひとつの節目を迎えました。
しかし、ここからが本当のはじまりです。
明日4月6日まで、一日複数回更新を予定しております。
次回、第18話は本日23:30に公開予定!
この夜が明けた先に、どんな運命が待っているのか――
ぜひ、最後までリリアたちの旅を見届けてください。
ではまた、23:30にお会いしましょう。




