第12話 毒を超えて、海老男は立つ ――ナノマシン、起動
燃え盛る闇の炎をかき消し、男は一歩も動かずに立っていた。
皮膚も衣も焦げず、ただ静かにこちらを見ている――まるで怪物だ。
「ロブさん……すごい……」
リリアの安堵と驚嘆の声が聞こえる。
ロブは真っ直ぐにこちらを見つめ、口を開く。
「この術式、魔導公会のものじゃないな。お前さん、この魔法をどこで覚えた?」
魔導公会は、人間領で唯一の正式な魔法組織である。
魔法の研究・管理・教育・認可を一手に担い、他組織の魔法使用を禁じている。
外部の魔法使いは異端と見なされ、監視・拘束の対象となる。
その括りではエリザは間違いなく異端である。
それを訝しんでの発言だった。
ロブがエリザに向かって歩み寄る。
その眼は、まるで罪を問う審判者のように、冷え切っていた。
―――だが。
「やっと隙を見せたな」
低く響く声が、背後から迫る死を告げる鐘のように響いた。
ロブが振り返るよりも速く、気配が忍び寄る。
しかし―――彼は即座に反応した。
驚異的な速度で身体を捻り、そのまま剣を腰の位置から薙ぎ払う。
シュバッ!
鋭い金属音と共に、紅蓮の軌跡が宙を裂いた。
刃がカインの脇腹を正確に捉え、上半身と下半身を無慈悲に切断する。
「カインっ!!」
エリザの悲鳴が、広場に響いた。
だがその声を無視するかのように―――
血を吐きそうな激痛を抱えながらも、カインは顔を覆っていた布を指で裂き、口をすぼめた。
「……っ!」
ごく小さな風切り音が耳をかすめた、その刹那。
―――チクリ。
細く、鋭い何かが、ロブの左肩に突き立った。
カインが最期の一矢を放っていた。
毒針だ。
半身を失い、地に落ちながらも、執念だけで放った一撃。
ロブの身体が、わずかにぐらりと揺らぐ。
片膝をつき、肩口から黒く濁った血がとろりと滴る。
―――それは、常人なら即死する劇毒の証だった。
「その毒は“白蛇の涙”と呼ばれている。神経系に作用する極小の魔毒でな……たった一滴で、全身へ広がる」
上半身だけの暗殺者が地の上で、掠れた声で呟くのが聞こえる。
「最初にくるのは筋肉の収縮異常、次に末端の感覚麻痺、呼吸が浅くなり、目の焦点が合わなくなる。だが意識だけは残る。死ぬまで、自分の体が動かなくなる感覚を、ゆっくりと味わえるようにな」
エリザはその言葉を聞きながら、炎の余熱を帯びた杖を肩に立てかけた。
視線は、ロブのほうへ。
男の動きに、確かな“異変”があった。
まず右肩が沈んだ。
剣を握っていたはずの腕が力を失い、指先からツゥ……と黒ずんだ血が垂れ、身体が小刻みに震え始める。
(……効いてる。間違いなく)
エリザは胸中で断じた。
カインの毒は、彼女も一度だけ見たことがある。
強靭な獣人兵が、悶絶しながら泡を吹いて倒れた、あの時だ。
「これは……俺の手札の中でも、最も強力な代物だ。だが―――お前には、それを使う価値があると判断した……誇れよ、海老男。これは選ばれし者への“敬意”だ」
カインは、そこまで告げると、静かに―――息絶えた。
「……フン。案外、使える奴だったがな」
ヴォルフは死体に一瞥もくれず、肩をすくめて言い捨てた。
「ま、時間稼ぎって役目は果たしたんだ。それで十分だろ。さて、どんな死に様を見せてもらえるのか楽しみにしてるぜ?海老男」
冷笑を浮かべながら、血に濡れた爪を舐める。
その声を背に、ロブは肩で息をしていた。
口をきつく結び、額にじっとりと汗を滲ませる。
黒炎を消したときの無敵感は、そこにはない。
ただ、崩れ落ちかけている人間がひとり。
体の中で何かが確実に壊れていると、誰の目にもわかる状態だった。
紅い髪の少女が叫ぶ声が響いた。
「ロブさん……! 立って……お願い、負けないで……!」
エリザは眉根をわずかに寄せる。
あれだけの化け物がここまで追い込まれたことに、どこか得体の知れない違和感が残っていた。
それでも、勝ちは勝ちだ。
毒は確かに回っている。これだけの症状が出ていれば―――
……だが、その時だった。
ロブの肩が僅かに揺れた。
そして、笑った。
「まったく、俺もまだまだ未熟だな……」
その顔にあったのは、苦悶ではない。
むしろ愉しむような笑みだった。
その笑みに、ヴォルフも眉を顰める。
勝ったも同然のこの状況で、警戒を少しも解かない。
いや、解けないのだ。
この男の得体の知れなさがそうさせる。
この場にいる全員に正体不明な緊張が走る。
「どれだけ生きても、未だに若手に出し抜かれる………嫌になるぜ。自分の不甲斐なさに」
(……おかしい。この状況で、どうして笑える……?)
疑問が浮かぶ。
いや、それ以前に
(何故喋れる?呼吸不全に陥っても不思議じゃないのに)
ロブの左手が、ゆっくりと上がる。
―――魔素の高まりを感じる!?
この男が魔法を使う時はマナの変動もなく呪文も使わなかった。
エリザでさえ知覚できないほどに巧みなマナの隠蔽を行えるこの男が、今は明確に何らかの魔法を使おうとしている。
もはや風前の灯のはずの命を使って。
エリザの脳裏に、嫌な予感が走る。
それは、エリザが知る魔法とは異なる異質な気配―――。
そして男は静かに口を開き、こう呟いた。
「”Machinae Nano, Incipite.”《ナノマシン、起動》」
【あとがき】
「“Machinae Nano, Incipite.”(ナノマシン、起動)」
この呪文は、ロブにとって“最後の切り札”でありながら、同時に“忌み嫌う言葉”でもあります。
それは、己の意思ではなく――過去に、強制的に植え付けられた力の証明。
不老不死となった原因であり、文明を壊した元凶でもある。
本来なら決して口にしたくなかった。
それでも今、リリアのために、その言葉を選んだ。
彼が背負ったものの重さと、それでもなお守りたいものが、この一言に込められています。
物語は、ここから大きく動き始めます。
ロブが“忌避しながらも力を使う”という矛盾に、今後も注目していただければと思います。
4月6日まで、毎日複数回投稿予定です。
次回の更新は 本日18:00 です。
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