第105話 湯煙に溶ける決意、夕餉に宿る絆
「……死ぬかと思った」
温泉の湯面が、ぼこぼこと気の抜けた泡を立てる。
白く立ち込めた湯気の中、三人の少女がぐったりと肩まで湯に沈んでいた。
「ていうか……これ、一週間も続くのよね?」
フィリアが絞り出すような声で言った。
いつものクールな光は完全に消えて、顔もどこかやつれていた。
「まさか、アレが準備運動だなんて……魔法が何一つ通じませんでしたわ…………プライドがズタズタです」
セラフィナは濡れた金髪を指ですくいながら、遠い目をしていた。
丁寧な言葉遣いも、すでに気力が尽きかけている。
リリアはというと、ぼんやりと空を見上げて、ぽつりと呟いた。
「……誰かに、慰めてもらいたいです……」
その言葉に、二人は即座に反応する。
「誰に? ねえ誰に~?」
「お師匠様ぁ?」
ニヤニヤとした顔で、セラフィナとフィリアが両側からリリアを挟みにじり寄る。
悪ノリ全開である。
「なっ……ち、ちが、そういうんじゃっ……!」
リリアが湯の中でばしゃばしゃと慌てて身を縮める。
耳まで真っ赤にして、湯気に紛れて顔を隠そうとする姿は、ゴブリンスタンピードを止め、ドラゴンと戦った冒険者ではなく、ただの恥ずかしがりな女の子だった。
それでも、三人の目は――不思議と、輝いていた。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、骨がきしんでも。
心の奥で灯った炎は、逆に勢いを増して燃えていた。
「でも……ちょっとわかるかも。強くなるって、こういうことなんですね」
リリアがぽつりと言った。
セラフィナもうなずき、フィリアも唇を引き結ぶ。
それはただの肯定ではない。
自分たちが進むべき道の先が、どれほど過酷であろうと、もう目を背けない――そんな覚悟のしるしだった。
……彼女たちは知っている。
自分たちが、これから過去に跳び、世界の歪みを正す役目を担っていることを。
過去を変えるという行為が、どれだけの困難と責任、そして痛みを伴うかを。
けれど、それでも進むと、心のどこかでもう決めていた。
沈黙の中。フィリアが湯の表面を見つめながら、不意に声を上げた。
「ねえ……わたしたち、結局、いつの時代に跳ぶのかしら?」
その問いに、セラフィナが金のまつげを伏せて静かに答える。
「そうですわね。お師匠様、“助けに来てくれた”とは仰いましたけれど……どの時代で、どこで、何をするかまでは、教えてくださいませんでしたわ」
「なんか……わざと、ぼかしてる感じでしたね」
リリアが、静かに息を吐く。
「聞いたら教えてくれるのかしら?」
「さあ……でも、知っておいた方が、備えられるかもしれませんね」
リリアの言葉に、フィリアとセラフィナが顔を見合わせる。
湯気がふわりと流れ、どこか神聖な空気が漂っていた。
「……あとで、聞いてみましょうか」
それは、三人だけの小さな作戦会議だった。
――少女たちが見据えるのは、ロブの過去。そして未来。
歴史という巨大な流れの中で、ほんの一粒の光になろうとする自分たちの使命だった。
「美味い!」
ロブの家の食堂に、がつがつという音が響き渡る。
金と翠の瞳を輝かせながら夢中でスプーンを振るっていたのは、かの竜の女王――アトラ・ザルヴァだった。
「なんじゃこの食い物……! 辛い! 熱い! うまいッ!! おかわりじゃ!!」
戦勝の女王は今、ただの胃袋モンスターである。
その横で、ゼランが苦笑しながら頬張っていた。
「やっぱ、久しぶりに食ったが……変わらずうまいな」
香辛料の刺激が、胃袋だけでなく記憶まで刺激しているらしい。
食後の煙草でも欲しそうな顔で、彼はしみじみとスプーンを動かしていた。
「本当、スパイスって偉大ですね。汗かいてるのに止まりません……!」
ミルディアは目を細めて微笑み、ひと匙ごとに肩の力を抜いていく。
「……わたしには、少し辛すぎるかも」
そう呟いたのは、ライゼ。額に汗をにじませながら、少しだけ息をつく。
その声にすぐ反応したのは、調理場で腕を振るっていた姉御肌の三十代の女性――シンシアだった。
バンダナを頭に巻いてエプロンを着た、とても気の付く一児の母だ。
「甘口もあるよ! ちょっと待っててね、今盛ってくるから!」
軽やかに笑って、バンダナをきゅっと締め直すと、シンシアは奥へ駆けていった。
「助かるわ……舌が焼けそうだったもの」
「このカレー、うちのギルドでも出しましょう」
ミルディアが早速の営業目線で呟く。
「あ、甘口もメニューに入れてね?」
ライゼが涼しい顔で付け加えると、ミルディアが肩をすくめて笑った。
一方、弟子たちもまた、カレーと格闘していた。
「……疲れた体に染みるな」
エドガーがしみじみと一言。満面の笑みで実に美味そうに口に運ぶ。
「筋肉痛で……スプーンが重い……」
カイはほとんど呪詛のような声を漏らしていたが、スプーンは止まっていなかった。
今回の調理を担当しているのは、シンシアを中心とした村の女性たちだった。
本来ならロブが作っていたはずのこの食事。だが、ドライヴの影響で体がまだ本調子ではない彼は、素直に村人たちに頼んだようだ。
見返りは彼女たちとその家族の夕食だ。
「……悪いな、助かった」
ロブが背後から声をかけると、シンシアは振り返ってにっこり笑った。
「いいっていいって、たまには男の子らしく甘えなさいな」
「男の子扱いされる年でもないけどな……」
そう返して、ロブは少しだけ笑った。
家の周りには、今日も近所の住人たちが列をなして集まっている。
その数は明らかにシンシア達の家族だけではない。
老若男女問わず、誰もが気軽に声をかけ、そして笑顔でこの“食卓”を囲んでいた。
ゲルン達男衆もちゃっかりと酒を飲み交わし豪快に笑い合っている。
「……ロブさんの家には、たくさんの人が集まるんですね」
リリアがぽつりと呟いた。
その声には、驚きと、尊敬と――少しのあこがれが滲んでいた。
「そうですわね。まるで、村の中心みたいですもの」
セラフィナが頷く。湯気の向こうで、その瞳が優しく細められる。
「みんな、ロブのこと……本当に信頼してるんだね」
フィリアの声が、それを裏付けるように響いた。
誰より強くて、誰より優しくて、でも――誰より自然に、日常の中に立っている人。
それが、この村にとっての“ロブ”なのだろう。
少女たちはその背中を、静かに見つめていた。
「ふい〜……食った食った〜〜」
アトラ・ザルヴァがソファに仰向けに寝転び、満足げにお腹をさすっていた。見た目はうら若き絶世の美女だが、色々台無しである。
一方でロブは、空いた皿をまとめながら厨房で手を動かしていた。
「悪いな、シンシア。手間かけた」
「全然。むしろ、ちゃんと頼ってくれて嬉しいよ。前は一人で何でもやろうとしたでしょ?」
シンシアは、笑いながらそう返した。
彼女の他にも数名の女性が、食器をまとめたり、炊事場を拭いたりと手早く動いている。
「体、まだ本調子じゃないんでしょ? こういうのは任せておきな」
「ああ。助かる」
軽く頭を下げたロブの横顔は、どこか申し訳なさそうで、どこか照れくさそうだった。
やがて片付けが終わり、シンシアたちが荷物をまとめて玄関へ向かう。
「それじゃ、また明日ねー!」
にぎやかな女性たちが去っていくのを見送り、ミルディアが一歩前に出た。
「では、私は先に帰還し、執務に当たらせていただきます」
「お願いね、ミルディア」
ライゼが頷くと、ミルディアは転移の魔法陣を展開し、姿を消した。
残ったのは、ロブとその弟子たち――リリア、セラフィナ、エドガー、カイ、フィリア。
そしてゼラン、ライゼ、アトラの三名。
そこへ扉が静かに開く音が響く。
「ママっ!」
フィリアが嬉しそうに声をあげて駆け寄った。
姿を現したのは、穏やかな微笑みを浮かべた女性――セレニアだった。
「皆さん、お集まりのようね」
彼女はゆっくりと一礼し、部屋の中に足を踏み入れる。
セレニアはライゼとアトラに気づくと柔和に微笑んだ。
「アトラ、ライゼ。久しぶりね」
「うむ!」
アトラが寝転がったまま、横着に片手を上げる。
「お久しぶり。変わらず綺麗ね」
「あなたもね」
ライゼが返せば、セレニアもにっこり笑う。
かつてはロブを取り合った仲らしいが今はわだかまりのようなものは感じられない。
仲の良い友人同士の距離感だった。
「これで、期待の新人をしごく指導役が全員そろったわけだな」
ゼランが言う。
そして、ロブのほうへと向き直った。
「……で? 話ってなんなんだ?」
空気が変わる。
冗談交じりだった会話の余韻が、ひんやりとした静けさに切り替わった。
ロブは深く息をつくと、真剣な眼差しで彼らを見渡し――静かに、口を開いた。
「……あらためて、話そう。俺の過去と、お前達の…………世界の未来についてだ」
【リリアの妄想ノート】
『ロブさんの家、すごくあったかいです』
お風呂で癒されて、
ご飯を食べて、
仲間と笑って――
たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに心が満たされるんでしょう。
ロブさんの家って、あったかいです。
もちろん温泉のことじゃなくて、もっとこう……人の心が集まってる感じ。
みんなが自然に集まって、自然に笑ってて。
それを真ん中で支えてるのが、ロブさんなんだなって。
最強の人が、最優しくて、最普通で、最すごいなんて、ちょっとズルいです。
でも……だから、あこがれます。
私も、誰かにとっての“帰る場所”になれるような人になりたい。
そのために、強くなりたい。
――私、ロブさんに聞いてみます。
私たちは、どこの時代に跳ぶんですか?
何をすれば、未来を救えるんですか?
聞くの、ちょっと怖いけど。
でも……ちゃんと向き合いたいです。
ロブさんが“向き合ってきたもの”と。




