第99話 人にあらざる理
村長ハルベルトの家。囲炉裏の火がまだわずかに残る室内に、静かな時間が流れていた。
アトラ・ザルヴァは、木彫りの椅子に悠々と腰を下ろし、両手で湯呑みを包むように持っていた。
その姿は、さっきまであの凍てついた広場で“存在するだけで空気を震わせていた”威容とはかけ離れていて、どこか人懐こい旅人のようにすら見えた。
だが、リリアの肌には、未だかすかにその圧が残っている。
ごくり、とお茶を一口。
「なるほどのう。アウロが帰ってこんと思っとったら、操られて素材にされかかっておったとはな」
低く、落ち着いた声。どこか哀れみを含んだような響きがあったが、すぐにその湯呑みを音を立てて卓に戻す。
「──間抜けじゃの!」
心底愉快そうに笑うその顔には、憎しみや苛立ちは微塵もない。ただ、率直な“感想”だった。
おそらく彼――いや、彼女にとって、“怒り”よりも先に来るのは“事実”に対する率直な評価なのだろう。
敵でも味方でもない、ただの真実を前にした反応。それだけに、リリアの背筋にはほんの少し寒気が走った。
そのときだった。扉の外から、はっきりとした声が届いてきた。
『まったく不甲斐ない。精進しますわい』
アウロ・ラグナの声だった。
前もそうだったが、彼の声は不思議とよく響く。
クォリスのように頭に直接響くのではなく、空気を震わせる音波のはずなのに、障害物や風、大気の影響を受けない。まるで物理法則を無視したような奇妙な声だった。
恐らくは魔法なのだろうが、どんな仕組みなのか、リリアには全く見当もつかなかった。
ただ――その声に、かつて操られた者にありがちな、怒りや憎しみの気配は微塵もなかった。
ただ淡々と、自らの不始末を受け止め、静かに語っている。それが、むしろリリアの胸に何かを残す。
「……あの。ひとつ、お聞きしても?」
セラフィナが恐る恐る手を上げる。
アトラはちらりと視線を向けると、無言で頷く。
セラフィナはほんの少し身を震わせながらも、勇気を振り絞って言葉を続けた。
「「アウロ様が操られた件で、怒りとか、憤りのようなものは……感じておられないのですか?」
セラフィナの問いは、極めて真っ当なものだった。
自分の仲間が、他者の手によって意志を奪われる――それは人間にとって、怒りの引き金であり、侮辱と等しい暴挙だ。ましてや、アトラにとってアウロは同胞であり、かつて共に戦場を歩いた友でもある。
だが。
「うん? 別に?」
アトラ・ザルヴァは、首をかしげるようにして軽く笑った。
その反応は、あまりにも淡泊だった。まるで朝の天気を尋ねられたかのように、気楽で、肩の力が抜けていた。
「まあ、もし被害が出ておったら、それはそれで考えものじゃったが……実際には何も起こらんかった。あやつは無事じゃし、民も死んどらん。なら、それで良かろう?」
その声音に、恨みも怒りもなかった。ただ、揺るぎない確信だけがあった。
「コマンドワードに関しても、あれは“そう作られた”というだけの話。誰が悪いでもない。ただ、仕掛けを起動させた者がいた――それだけのことじゃ」
その口ぶりは、まるで感情の線をすり抜けた機械のようだった。
だが、続けてセラフィナが問いかけた。
「では……もし、その“起動させた者”を見つけたら?」
セラフィナの声がかすかに震えたのは、自覚があるのかないのか。
その問いは、単なる確認だった。
だが――
「もちろん、殺すが?」
アトラ・ザルヴァは、当たり前のことを口にするように、あっさりと答えた。
リリアは瞬時に息を呑み、エドガーがわずかに身を強ばらせる。カイとフィリアも、視線を交わすことなくじっとアトラを見つめていた。
その一言には、怒りも恨みも、感情らしきものが何一つ乗っていない。
あくまで――事実の提示。冷静な、判断。
アトラは微笑を絶やさぬまま、静かに続けた。
「儂らは“兵器”じゃ。そう作られた。ならば、それを操る手段もまた、設計として当然あったということじゃろ。責めるべきは、そういう仕様を組んだ者たちであって、今さら怒る気もない」
「では、なぜ殺すのですか?」
セラフィナの問いは、もう一歩踏み込む。
アトラは一瞬、何かを計算するように視線を泳がせ――そして、諭すように言った。
「簡単な話じゃよ。――次があるかもしれんからじゃ」
静寂が落ちる。
アトラは、柔らかい声で、それでいて一切の温度を持たずに語り続けた。
「もしまた、誰かがコマンドワードを使って、儂らの一体を操ったとしよう。運が悪ければ都市が一つ吹き飛ぶかもしれん。数千、数万の人間が死ぬかもしれん。人類の未来が一つ途絶えるかもしれん」
ぱち、と指を鳴らす仕草。
「じゃから――そのリスクを、最初の段階で絶っておく。それだけのことじゃ」
それは、まるで毒蛇の頭を潰すような判断。
情も慈悲もない。だが、論理は完璧だった。
「怨みではない。怒りでもない。ただ、必要だから殺す。それだけのことじゃよ」
誰かが、息を呑んだ音がした。
感情があるから殺すのではない。
感情がないから、殺すことを躊躇わない――。
リリアは、はっきりと理解した。
この存在は、やはり人間ではない。
見た目も言葉も似せている。歩幅を合わせて共に食卓を囲むこともできる。
けれどその本質は、あまりに遠く、あまりに異質だ。
セラフィナもまた、わずかに眉をひそめ、沈黙した。
言葉では説明できない、深い距離感が、そこにあった。
――ドラゴンという種は、選択の重みに“迷い”がない。
人間の葛藤を理解しないのではなく、“必要なこと”を迷わず実行するだけ。
だからこそ、恐ろしい。
リリアは、アトラの横顔を見つめながら小さく震える自分の指先に気づいた。
アトラ・ザルヴァは「さて」と小さく呟き、膝の上に組んだ手を解いた。
「気になるのは――そこの村長殿の処遇じゃの」
声に棘はない。だが、問われた内容が内容だ。
リリアも思わず背筋を伸ばしていた。
「村長さん……どうなるんですか?」
ずっと、気になっていたことだった。
村の人間が殺され、その真相を隠すために、“ドラゴンの仕業”という偽装に加担した男。
リリアが自分の足で見て、聞いて、怒って、そして悲しんだ出来事だ。
それをこの家の主――ハルベルトは、どんな顔で受け止めているのか。
ふと視線を向ければ、部屋の隅の椅子に腰掛けたまま、彼はずっと窓の外を眺めていた。
こちらの声は聞こえているはずだった。
距離も近い。会話の内容も重い。
それでも彼は、まるで「関係のない他人の話を聞いている」とでも言わんばかりに、微動だにせず、風に揺れる木の枝をぼんやりと見つめている。
リリアは、なんとも言えない感情を喉元に引っかけた。
怒りなのか、呆れなのか、それとも――哀れみなのか。
アトラ・ザルヴァは、どこか遠くを見るような目で村長を一瞥したあと、静かに言葉を紡いだ。
「命の危険を感じたのじゃろうな。家族もおる。村もある。逆らえば、お主も──あるいは、家族も死ぬと。だから、従った」
肘掛けにかけていたハルベルトの指がピク、と動くのをリリアは見逃さなかった。
「ひょっとすると、魔導公会の連中に──」
アトラはゆっくりとハルベルトに視線を向けた。
「直接、脅されたのではないか? 逆らえば、同じように殺すと」
ハルベルトの喉が、ごくりと鳴った。
「他の村人がドラゴンの仕業だと騒ぐ中……お主は、それを鵜呑みにしなかった」
リリアは思わず村長の顔を見る。うつむいたまま、表情は読めない。
「否。疑ってすらおった。冷静に判断できる人間──奴らにとっては、都合が悪い」
アトラの声はあくまで静かだった。
「だから排除する。わしなら、そうする」
リリアが息を飲んだ。言葉の重みに、空気が揺れる。
「そうして、残った者どもが結局ギルドに討伐依頼をする……」
ハルベルトの肩が微かに揺れた。
「同じことじゃからな」
アトラ・ザルヴァの声には断罪の色はなかった。ただ、事実を静かに並べていく。
「しかし──じゃ」
アトラはひと息置き、目を細める。
「お主は、海老男に言われた時、自ら罪をすべて背負う選択をした」
その言葉に、ハルベルトが初めてアトラを見た。
「それは、逃げではなかった。悔いでもなかった。ただ──」
アトラはそのまなざしで、彼を見据える。
「己の中で出した“けじめ”だったのじゃろう」
リリアは、そっと拳を握りしめた。
アトラの声が、妙にやさしく聞こえた気がした。
アトラ・ザルヴァは、くるりと椅子の背に肘をかけて、ロブ――海老男をじっと見た。
「海老男よ。お主も、本当は気づいておったのじゃろう?」
その声に、ロブは返事をしなかった。ただ、視線を外さずにアトラを見返す。
「──じゃが、お主は事実だけを受け取る。感情や背景ではなく、現実を。だから村長を断罪する道を選んだ。そうじゃろ?」
淡々とした口調。しかしそこには、どこか優しい色が混じっていた。
「お主は、責任を“過ぎるほど”負う癖がある。しかもそれを、他人にも押し付けるところがあるな。まあ、それ自体は悪くはない。ないが──」
そこまで言って、アトラはふっと笑う。
「正しいかと言えば……そうとも限らん。うむ。裁判所のような男じゃ」
唐突な例えに、思わずロブが眉をひそめる。
「それ、どういう意味だ?」
カイが真面目な顔で口を開いた。
「……裁判所?裁判官じゃないんですか?」
アトラはホッホッホと軽やかに笑った。
「いやいや。裁判官というより、“裁判所”そのものじゃ。ほら、裁判官は判決を言うが、裁判所は全体を取り仕切るじゃろう? オヌシはそこまでやってしまう。主張も、証拠も、判断も──全部まとめて背負ってしまうのじゃ。だから重いのう。見ておって飽きん」
まるで天気の話でもしているような調子で、アトラ・ザルヴァは湯呑みに残ったお茶を一口すする。
リリアはその姿を見ながら思う。
──やはりこの存在は、どこまでも人とは違う。
「お主が──そのような人間になった理由も、分からんではない」
アトラはやさしく、しかし迷いのない声で続ける。
「長い間、あまりにも多くの“人の業”を見すぎたのじゃろう」
「感情を捨てるしかなかった。いや──感情を抱えたままでは、己の心が壊れてしまう」
そこでアトラは、リリアの方を一瞥する。
「わしらも、同じじゃ。長く生きるほど、そうなる。だから、理解はできる」
目を細めて、ふっと息を吐く。
「だが──人の身で、それをやるのは、なかなかにつらかろう」
リリアは、思わずロブの後ろ姿を思い出す。
誰にも見せない、静かな背中。
「自分で下した判断を、他人に押し付ける。それは、ときに──」
アトラの言葉に、一瞬、部屋の空気がひやりと凍った。
「“悪人は皆殺し”……そんな結論にも、なりかねん」
その瞬間、リリアははっと息を呑んだ。
──セイラン村で、ロブは紅竜団の盗賊たちを、ほとんど殺していた。
あれも、ロブなりの“けじめ”だったのか。
それとも……。
「まあ、ここではその話はやめようかの。それより、ギルドマスター殿」
アトラ・ザルヴァが視線を移す。その先にいるのは、統括ギルドマスターのゼラン。そして、今回の事件の舞台となったバルハルト支部のギルドマスター、ライゼ。
二人は視線を向けられ、わずかに表情を引き締める。相手が創始の竜であっても、その重圧に負けることなく、毅然としたまなざしで応じた。
「此度のこと、村長殿には寛大な処置を願いたい」
アトラ・ザルヴァの声音は、さほど強くはなかった。しかしその言葉には、押しつけがましさのない重みがあった。
「利用されたアウロも、今では村のこどもたちと仲良うやっとる。村長殿に恨みはあるまい。悪行を犯したドラゴンの討伐、などという誤った情報で、同胞を殺されかけた儂じゃが──それでも、これは儂自らの願いじゃ」
語尾をやわらげつつも、瞳にはわずかに光が宿る。理を説く存在のまま、決して感情を見せぬようにしていたアトラ・ザルヴァにしては、珍しくはっきりと“意志”がにじんでいた。
「よもや、無下にはされまいな?」
ゼランは短く息を吸う。しばし黙したのち、静かに口を開いた。
「……確かに、濡れ衣を着せられたドラゴン側からの申し出であれば、一考の余地はあります」
「まどろっこしいのう。そこは『わかった』と言ってくれんかのう?」
アトラ・ザルヴァが肩をすくめ、ため息まじりに呟いた。
それに対し、ゼランはぴしりとした声音で返す。
「正規の手続きが必要です。即答は、できかねます」
その言葉には、僅かながら敬意が込められていた。彼にしては珍しく、丁寧な口調だった。
「私も、免罪の余地は充分にあると考えます」
ライゼも恭しく意見を述べる。
その時、がたんと椅子が鳴った。
リリアがそちらを向くと、ハルベルトが立ち上がっていた。赦免の話が現実味を帯びてきたその瞬間、彼は、思わず体を動かしていたのだろう。重たい眼差しでこちらを見つめている。
「一方向から見れば、お主のしたことは悪事への加担じゃ」
アトラ・ザルヴァが静かに口を開く。
「金も受け取っておるしの。……ただ、それでも。やむにやまれぬ事情があったのなら、それもまた、考慮に値する」
声は静謐だが、強さを孕んでいた。
「こんな時、往々にして第三者の意見がないと、話は既定路線で片付いてしまうものじゃ。――わしは、もっと柔軟であって良いと思うがの」
言葉を置いて、アトラ・ザルヴァはハルベルトを真正面から見据えた。
「まあ……お主は、村長の座を降りて、余生を過ごしたらどうかの」
しばし沈黙。そして、震える声が室内に落ちる。
「あの子達は……わしを許すと思うか?」
ハルベルトの手が小刻みに揺れていた。
「それは知らぬ」
アトラ・ザルヴァは即答した。
「死者の声など、わしにも聞こえぬ。だがな――許していないのは、お主自身じゃろう」
言葉が、真っ直ぐに突き刺さる。
「ならば、許さぬままで、生きればよい。……そのうえで、死者のために、自分に何ができるかを考えるがいい」
それは裁きではなかった。
ただの真実だった。
ハルベルトは一言も発さず、そっと視線を落とした。
その双眸からこぼれた涙が、ぽたり、と床に落ちる音がした。
――静かだった。
冬の冷えた空気のなかで、竜の言葉と、男の涙だけが、確かにそこにあった。
【リリアの妄想ノート】
『それでも、赦しはあっていいと思うのです』
今日は、すこし静かで、でも胸にずっしりくる一日でした。
村長さんが、ちゃんと罪と向き合った。
それを、ロブさんも、アトラさんも、ただ裁くんじゃなくて、ちゃんと見てた。
でも、アトラさんの言葉は、すごく印象的でした。
「許していないのは、自分自身じゃろう」って。
たぶん、それってロブさんにも、当てはまる気がします。
ロブさんは、やっぱりちょっと重たい人です。
アトラさんが言ってました。「裁判所みたい」って。
あれ、すごい例えです。主張も証拠も、判断も、ぜんぶ背負ってしまうロブさん。
でもそれって、ほんとうは、すっごくしんどい生き方じゃないですか……?
わたしは、まだ答えが出せません。
けど、できるなら、誰かを「許す」ってことが、ちゃんと意味を持っていてほしいなって思いました。
ロブさんが選ぶ「正しさ」が、いつか優しさと重なるように。
そんな日が、来てくれたらいいな。
ここまで読んでいただきありがとうございます。この話がお気に入りましたら感想、ブクマよろしくお願いします!




