第98話 神竜、ハグる。~リリアとライゼと三千年~
昼間の村の広場。
冬の陽射しが照り返す白雪の中心に、それは立っていた。
アトラ・ザルヴァ。
その佇まいは静謐で、なのに理屈を超えた圧が空間を圧縮するように広がっていた。空気が震えているのか、時空が拒んでいるのか、理解が追いつかないまま、リリアの背筋にぞわりと冷たいものが走った。
思わず息を呑む。だが、肺が受け付けない。呼吸が苦しい。
隣に立つセラフィナも、表情を変えずに気丈を装っていたが――その手が、小刻みに震えていた。
エドガーは、剣に手をかけ、すぐに外した。どう考えても目の前の存在に剣が通じるわけもない。「剣抜いてどうすんだよ」と自分でもツッコみたくなったのだろう、眉間を押さえて項垂れている。
カイはと言えば、静かに目を見開いていた。無言で、だがその瞳には明確な“理解”と“警戒”の色があった。まるで獣が、本物の王に出くわした時のように。
フィリアは完全に座り込んでいた。地面にへたりこみ、足を引きずるように後退りしては、氷の上で滑ってズルッと倒れる。小声で
「これが…これが頂点……?ちょっともう……限界……」
と、もはや限界を宣言していた。
ゼランはといえば――彼なりに勇気を出していたのだろう。背筋を伸ばし、顎を引き、胸を張って直立していた。
しかし、身体は硬直し顔だけは笑っていたが、頬の痙攣が「無理してるのバレてるぞ」と教えてくれる親切設計だ。
誰もが言葉を吐き出せずにいる中、
その重圧をまるで感じていないかのように、ロブが口を開いた。
「よお、久しぶりだな。アトラ」
その一言が放たれた瞬間。
ぎんっ!!
ライゼが凄まじい勢いでロブを振り返る。
その顔は真っ青なのに、目は充血し、口はパクパク、完全に酸素が足りてない金魚状態。頬には一筋の冷や汗。こめかみがピクピクしている。
まるで今、禁忌を口にしたとでも言わんばかりの顔だった。
その視線を真正面から受け止めたロブは、なんというか、「いや、そんな睨むなよ」って顔で肩をすくめる。
そのやりとりの先。
漆黒の長髪を靡かせ、アトラ・ザルヴァが、ようやく口を開いた。
「うむ!元気そうだな! 海老男!」
その笑顔は、あまりにも朗らかだった。
彫像の様な美しい造形もあって笑顔が眩しい。神々しい。
全てのドラゴンの頂点であり、世界最強と恐れられる存在が――まさかの、どこかの陽気な叔母さんみたいなテンションだった。
――だが、誰も笑えなかった。
その“朗らかさ”が逆に怖い。
空気が一瞬だけ和んだかと思えば、次の瞬間には、肺の奥をつかまれるような圧が押し寄せてくる。
温度が、耳鳴りが、時間の流れさえ、すべてが“おかしい”。
(なに、この人……いや、ドラゴンだけど……)
リリアは理解できなかった。
確かに、外見は美しい女性に見える。
けれど、“存在そのもの”が異質すぎる。
見つめているだけで、思考がかき乱される。
脳のどこかが、ずっと警報を鳴らしている。
なのに――視線を逸らせない。
怖いのに、目が離せない。
「二百年ぶりだったかのう。連れないやつじゃ。わしの住処を知っているのはお主だけなのじゃから、せっせと遊びにこんか」
アトラ・ザルヴァが、口を尖らせた。
その口調が、なんとも気さくだった。まるで近所のお婆ちゃんのような――いや、見た目は少女めいてすらあるのに、語り口と眼差しは“三千年の重み”そのものだった。
ロブは、少しだけ肩をすくめた。
「悪いな。忙しくてついな」
「わしと同じ年月を生きておるというのに、まったく、相変わらずの言い訳男じゃ」
ふん、と鼻を鳴らす。
口調は軽やか。けれどその足元では、一面の雪が音もなく蒸発していた。
そこにいるだけで、世界が削れていく。
(ロブさん、どうして平気で喋ってるの……?)
リリアは、息をひそめてロブの背中を見つめた。
彼女の脳裏に、雷のような直感が走った。
――この人が、本当にロブさんと並ぶ存在なの?
そう思った瞬間。
リリアの肩が、ぴくりと跳ねた。
そうして――
アトラが、ふわりと宙に浮かんだかと思うと、何の前触れもなく、すとんとロブの胸へ飛び込んだ。
ロブの身体が一瞬たじろぐ。
そのまま、アトラは両腕をしっかりとロブの背中に回し、全力の密着態勢。
しかも、やわらかそうな胸の感触が、あまりにも自然に、あまりにも堂々と、ロブの胸板に押し当てられていた。
(う、嘘でしょ……?)
リリアはその場で石になった。
頭が真っ白になる。目の前の現実を、理解するより先に怒りと嫉妬が突き上げてくる。
ロブはというと、顔を引きつらせながら、半歩ほど身体を引こうとしつつ――
「おい、離れろよ……」
かすれたような、照れの混じった声で言った。
しかし、アトラはその腕を緩めることなく、明るく言い放つ。
「ん? 人間同士の親愛表現じゃ。ハグと言うのじゃろう?」
ドヤ顔だった。まさかの。
(な、何よそれ……!?)
リリアはもう限界だった。
心臓がうるさくて、呼吸も浅い。目の前で、ロブが、誰かに、笑顔で、やわらかさを――!
がばっ、とロブの反対側の腕にしがみつく。
「……離れてくださいっ!!」
声が裏返った。羞恥も理性もどこかへ飛んでいた。
そして気づく。ロブのもう片方の腕にも、ライゼが真っ赤な顔でしがみついていた。
「ちょ、ちょっと、アンタ! 馴れ馴れしすぎでしょ……っ!」
三人の美女に同時にしがみつかれる海老男。
ロブは肩をすくめるようにしながら、どこか気恥ずかしそうに、ぽつりと呟いた。
「ど、どうしたんだよ、二人とも……」
その声音に余裕はない。いつもはどこか飄々としているロブの、珍しく戸惑いの混じった声だった。
「なんじゃ、海老男。相変わらずモテるのう」
アトラが心底楽しそうに笑う。
――その一言で、リリアとライゼは一斉に我に返った。
「ち、違いますからあああっ!!」
赤面してしゃがみこんだリリアとライゼの絶叫が、ぴしんと場の空気を裂いた。
張りつめていた空気が一気に緩む。弓の弦が切れたように、周囲の緊張がはらりとほどけていく。
セラフィナが、長く張っていた息をゆっくりと吐いた。凍りついていた両肩が、ようやく雪の中で静かに落ちる。
エドガーは「……助かった」とでも言いたげに肩をまわし、額の汗を拭う。
ゼランはふう、と大きく息を吐き、今度こそ安堵の、笑みを作った。
カイは無言で周囲を一瞥し、細く息をつく。
そして、誰よりも遅れてフィリアが、ゆっくりと立ち上がる。
震えた膝を両手で支えながら、ぐらり、と揺れつつも踏ん張った。真っ青だった顔には、まだ怯えの名残があった。
その静けさを破るように、ロブがふと声を上げる。
「……お前からわざわざ来るとはな」
アトラに向けたその声は、穏やかで、どこか懐かしさを含んでいた。
「事が事なのでな。アウロが操られたということは、かつてのラグナロクの再現となるやもしれん。それは避けねばならん。なので、わし自らがその痴れ者をふんづかまえてやろうと思ってな」
堂々と言い放つアトラに、セラフィナが恐る恐る声を挟む。
「それは、逆に操られる危険があるのでは…………?」
「あ、そうじゃった!」
アトラはくるくると笑い、頭をぽんぽんと叩いた。
「短絡的なんだよ。お前は」
ロブが眉をひそめてため息を落とす。呆れと、どこか安心したような声音だった。
だが、すぐに視線を戻し、アトラに向けて続ける。
「……だが、ちょうどよかった。俺もお前に話したいことがあったんだ」
そのやりとりの最中、不意にアトラがリリアをじっと見つめた。
「お主……どこかで見たことがあるのう………。もしかして――」
顔を、ぐいと近づけてくる。距離がゼロに近づくほどに迫られて、リリアは思わず目を見開いた。
――近い。近すぎる。
相手がドラゴンの王であることなど関係なく、リリアはその瞳の奥に、自分の内側を覗かれているような錯覚を覚えた。
ドクン、と心臓が跳ねた。
「っ……!」
思わず一歩引きそうになったとき――
「……ここでは人の目が多すぎる。話は中でしよう」
ロブの低い声が、場を制した。
アトラがそれを感じ取ったのか、ぐっと距離を戻し、からりと笑った。
「うむ! わかったぞ、海老男!」
その明るさの裏に、何かを察したような気配をリリアは感じた。
雪を踏みしめて歩き出すロブの後ろ姿を見つめながら、リリアの胸に小さな棘のような不安が刺さる。
アトラの言葉。そして、ロブの“圧”。
まるで――本当に、自分の何かを知っているかのようで。
ありえないはずの直感が、冷たい風のように心を撫でていった。
【リリアの妄想ノート】
『神竜の胸とロブさんの背中と、私の心臓の鼓動について』
今日は人生で初めて、神様みたいな存在を見た気がします。
しかも、めちゃくちゃ綺麗な女の人(?)で……すごく……スタイルもよくて……。
その人が、いきなりロブさんに――
ハグ!!
(えっ!? いやちょっと待って!?)
こちとら、毎日一緒にいても“肩ポン”すらされてませんけど!?
それを初対面で!? 胸を!? 押しつけて!? ハグ!?!?
もう限界でした。
何かがブチッと切れて、気づいたら叫んでました。
「離れてくださいっ!!」って。
そしたら隣にいたライゼさんも、同じようにロブさんの腕にしがみついてて。
……やっぱりライゼさんも、ロブさんのこと――
……ああもう、うるさい!うるさい私の心臓!黙って!
あのときのロブさんの「ど、どうしたんだよ」って声が、
ちょっと照れてて、ちょっと嬉しそうで、でも――
悔しいくらい、優しくて、かっこよかったんです。




