第96話 祈りは氷の中に
氷室の中は静まり返っていた。
氷の壁に囲まれたその部屋には、四つの影があった。いずれも人間だった。いや――人間だった“もの”だ。
どれも、鋭利な刃物で斬り裂かれ、焼け焦げている。
その前に、ロブがそっとしゃがみ込む。目を伏せ、両手を合わせた。誰よりも冷静で、誰よりもこの死を重く受け止めるように。
その背に続くように、リリアたちも手を合わせた。
誰も言葉を発さなかった。言葉など、要らなかった。
ただ、静かに黙祷を捧げる。
ロブが、片手を翳す。そのまま、一体の遺体に手を伸ばし、焼けただれた胸元の傷をそっとなぞった。
「………明らかにドラゴンのものじゃないな。焼け跡も………アウロラグナの熱線に焼かれれば骨も残らない」
彼の声は低く、冷たく。だが、どこかに怒りと悲しみが混じっていた。
その場にあるのは、死。あまりにも生々しい、暴力の痕跡。
遺体の皮膚は黒く炭化し、眼球は焼き尽くされ、口は何かを叫んだまま硬直していた。
セラフィナが口を押さえる。その顔は真っ青だった。
吐き気に耐えながら、後ずさる。
エドガーも、カイも、強張った表情で眉をひそめ、沈黙を貫いている。見慣れぬ死体ではなかった。だが、慣れることなどあるはずもない。
フィリアが小さく、胸元で十字を切る。
次いで、エルフの古語で祈りの言葉を唱えた。声は震えていたが、その震えもまた、ひとつの祈りだった。
その言葉は、音のひとつひとつがやわらかく、美しかった。
死者を悼むレクイエムのように、響く。
リリアは、その音に耳を傾けながら――涙を堪えていた。
(あの時と……同じだ……)
あの日。お姉ちゃんと、お父さんと、お母さんと。村の人たちが、殺された夜。
焼け焦げた死体。吹き飛んだ肉体。焦げた匂い。聞こえたはずの叫び声――。
あの時、リリアはすべてを見た。
そして、今。
目の前の遺体が、その夜の記憶を呼び戻す。
首のない死体。虚ろな眼窩。壊された命。
フラッシュバックのように、エレナの死体が蘇る。
(どうして……欲望のために……人は、こんなことができるの?)
心が、ぐしゃりと潰されたように苦しい。
涙が、今にも零れそうだった。
人間の愚かさを、どこにもぶつけようのない怒りとともに感じていた。
ただ、ただ――リリアは、哀しかった。
ロブが静かに手を翳し、呪文を紡ぐ。
「“Machinae Nano, Incipite.”《ナノマシン、起動》」
淡い光が掌に宿り、死体の上でふわりと広がる。
「“Vestigia Analyze”《痕跡、解析》」
魔力の残滓が空気中に浮かび上がった。
それは肉体を焼いた術式の断片――炎の奔流、けれど竜のブレスとは違う。
「……熱魔法だが、これはドラゴンの痕跡じゃない。人の手による術式だ。しかも……」
ロブが目を細め、指をひとつ動かす。
「“アルケイン=ゼロ式”。魔導公会の戦闘魔法だな」
重い沈黙が落ちる。
「じゃあ、犯人は……人間なんですか?」
リリアの問いに、ロブは短く頷いた。
「ああ。魔導公会の、誰かだ」
セラフィナの眉がわずかに動いた。
「……魔導公会が、本当にそんなことを……」
リリアは黙って隣に立ち、彼女の声の震えを聞いていた。
セラフィナは静かに目を伏せ、ほんの一瞬だけ沈黙。そして、顔を上げる。
「マイラと話をさせてください」
その視線はまっすぐに、ゼランとライゼに向けられていた。
リリアは息をひそめ、そのやり取りを見守った。
山小屋の扉が、軋む音とともに開かれた。
リリアはロブたちと肩を並べ、その様子をじっと見つめていた。セラフィナが静かに歩を進め、小屋の中へと入っていく。その背を、ロブも、エドガーも、カイも、フィリアも無言で見送った。
部屋の奥。椅子に拘束された女がひとり。マイラ――魔導公会直属の監視部隊、“粛清官”として今回の任務を指揮していた人物である。二十代半ばほど。表情にはまだ冷徹な意志が残っていたが、わずかに疲労と戸惑いの色も見え隠れしていた。
セラフィナは無言でマイラの前に立つ。
「……あなたが、マイラさんですのね?」
マイラはその視線を真っすぐに受け止める。
「……そちらは? 名乗ってもらえるかしら」
「セラフィナ・ルクスリエルと申しますわ」
一瞬の静寂。そして、空気が張り詰める。
「ルクスリエル!? まさか、魔導学舎のあの一族……?」
驚いたようにロッシュが声を上げた。
その狼狽を鼻で笑いながら、グレイが言った。
「上層のご令嬢が、下っ端のたまり場に何しに来たんだ?」
「グレイ。言葉を慎め」
ゼリオスが低い声で言う。
彼は静かに腕を組み、セラフィナを値踏みするように見る。
セラフィナは彼らに一瞥もくれず、マイラに視線を戻した。
「お訊ねいたしますわ、マイラ。魔導公会はなぜわたくしたちを排除しようとなさったの? 共存の理念が、それほどまでに不都合なものなのかしら」
マイラはわずかに眉をひそめたが、すぐに短く返した。
「上の意図なんて知らない。ただ、命令に従っただけよ」
そして、静かに続ける。
「でも、伝えておきたいことがあるわ」
彼女の目には、はっきりとした覚悟が宿っていた。
「この結果をどう裁かれても構わない。命も立場も、どうでもいい。でも……妹だけは、巻き込みたくない」
セラフィナはその言葉を黙って受け止めた。
「彼女はただの一般人。何も知らない。公会にも、私の任務にも、何の関係もない。ただ、あの子には何も背負わせたくないの」
マイラの声には、迷いも取り繕いもなかった。ただ、事実だけを語るような平坦な調子。それがかえって、覚悟の深さを際立たせていた。
セラフィナは目を伏せ、そして穏やかに言葉を紡ぐ。
「悔い改めなさい、マイラ。あなたの行いは――決して軽くはありませんわ」
少しの間を置き、やさしく目を開いた。
「でも、それでもあなたが誰かを想い、守ろうとしているのなら……わたくしは、あなたの意志を汲みます」
マイラの口元がわずかに揺れた。
「……ありがとう……ございます」
そのやり取りを、ロブたちは誰ひとり言葉を挟まずに見届けていた。リリアは気づかぬうちに、両手を胸の前で組みしめていた。
セラフィナの背は――ほんの少しだけ、大人びて見えた。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
ゼリオスはしばらく黙っていたが、ふと吐き捨てるように言った。
「……海老男の仲間に、ルクスリエル家の者がいるとはな。なるほど、“介入”の理由が見えてきた」
マイラは笑った。声にはせず、唇の端だけを吊り上げる。
「思ったより早かったわね、反応が」
「一般人、ね。よく言ったものだ」
ゼリオスは冷ややかに言うが、その目に怒りはない。ただ、淡々と現実を観察している目だった。
マイラは椅子に縛られたまま、肩をすくめるように笑う。
「本当のことを言うときほど、人はあっさり信じるのよ。“妹”なんて言葉を出せば、大体の人間は“救い”を演じたくなる」
「お前は本当に救われたがっているようには見えなかった」
「ええ。救われるなんて、まっぴら。あたしが望んでるのは――構築。新しい秩序よ」
声は柔らかかったが、言葉の中身は冷たい鋼のようだった。
「どれだけ奇麗事を並べたところで、最終的に価値を定めるのは論理と力。幻想で世界は変えられないわ。論理を操る者が、未来を決めるの」
ゼリオスは黙ってそれを聞いていた。小屋の中に風が吹き込んで、木材の壁をわずかに鳴らす。
「最後に勝つのは――我が魔導公会よ」
マイラの声が消えたあとも、その余韻だけが長く室内に残った。
【リリアの妄想ノート】
うう……久々に泣きそうでした。
死体なんて、見慣れるわけないのに……。
わたし、平気な顔してようとしたけど、心の中ではずっと「お願い、時間よ止まって……」って。
お姉ちゃんが死んだときと、同じ匂いがして……
あのときみたいに、みんな燃やされて、全部が奪われて……
もう誰にも、あんな思いしてほしくないです。
でも、セラフィナさん……すごかったです。
あんなに強く、静かに、真っ直ぐで。
わたし、あの姿を見て、「あ、この人の背中を追いかけたいな」って思っちゃいました。
いつか、ロブさんの隣に立てるような、そんな存在になれるかな……。
がんばれ、わたしっ!




