壺中の天 9
竹屋敷の竹林の中を歩いているのは西山軍医だ。
昨日、確かになにものかが立っていたあたり。
やがて探していたものをみつけ、西山軍医はしゃがみ込んだ。紙巻きタバコの吸い殻だ。閉じられた正門の向こうから記者達が争う声が聞こえてくる。
跳ねっ返りが出し抜き、私邸だというのに特ダネを得ようと忍び込んだ。
美彌子ちゃんはその人影に父親の幻を見て悲鳴をあげた。
美甘少年の変装だと思ったおれも、美甘少年が女中部屋にいたことに驚き本当に只三郎なのかととっさに思ってしまった。タバコを挟んだ二本指まであいつの癖だと思い込んでしまった。
「……」
わかっちゃいたが無能にもほどがあるぜ、圭介。
西山軍医は吸い殻を踏み潰そうとして思いとどまり、拾い上げた。明日また吸い殻があれば日常的に住居侵入している者がいるということだ。同一人物かもしれないし違う記者かもしれない。こいつはここから取り除き、確認のために残しておこう。
「西山のおじさま」
西山軍医は吸い殻をハンカチに包んでポケットに入れ、振り返った。
「あの中を」
と、美彌子は騒がしい正門へと視線を送った。
「入ってらしたの」
「近くの派出所に寄ってこの状況を話してきた。このまま彼らを放置していてはなにが起きてもおかしくない。私は通用門から入ったんだ」
西山軍医は話しながら眼を細めた。
なんとこの竹屋敷にとけ込む少女だろう。このところ黒が強い振り袖ばかりなのはそれなりに喪に服しているためか。しかし、この少女が実際に喪服を着たのは葬式の日だけだった。
松岡のお姫さまにとって。
西山軍医は思った。
臣のために喪に服す必要などないのだ。それが父親であっても。
「冗談社の冗談倶楽部さんですか」
その名を聞いて、美甘森太郎の顔が不審から柔和なものへと変わった。
「あの冗談倶楽部さんなら、興味本位だったり憶測記事なんて書かないですよね?」
「もちろんです! ふざけているのは名前だけです!」
平井ハナと美甘少年の間で話がまとまり掛けているようだ。しかしそれを見ている昌治と健作の眼は据わっている。
「それで、どっちがほんとうのハナちゃんなんだ」
美甘少年が通用門の鍵を開けるために背を向けた時、すっとハナちゃんに寄って囁いたのは昌治だ。
「もちろん、黒猫亭の好奇心いっぱい平井ハナが私ですよ」
「……ほんとうに?」
「……ほんとうに?」
昌治も健作も納得いかない。
そもそも黒猫亭の看板娘は自分たちより年下だった。でも目の前にいる美女は職業婦人そのままじゃないか。
「女は化粧でどうにでもなるんです」
「……そう?」
「……そう?」
「あとは観察力と演技力です」
ていうか。
「君がほんとうに黒猫亭の平井ハナさんなら、ここでなにをしているの? 冗談倶楽部ってなんの話?」
ハナちゃんは必死に目を逸らしている。
通用門を開け、美甘少年が振り返った。
「そちらの背の高い方もぼくたちと同郷の方ですか。ええと小川――」
「小川健作。いや、おれは越後高田の出身だ。相馬とは高校でいっしょだった」
「そうですか。高田ならぼくらの町よりむしろ雪深いそうですね。それならば冬の絶望もおわかりになるでしょう」
「絶望?」
健作が言った。
「絶望?」
昌治も言った。
「絶望?」
ハナちゃんまで言った。
「雪雲に覆われ、雪に閉ざされ、どこにも行けない。なにもできない。ただ薄暗い家の中で過ごすだけ」
「そうかい?」
昌治が言った。
「スキーやったり雪合戦したり、けっこう楽しいぜ。だいたい、雪がいっぱい降っていっぱい積もればなんだかワクワクするしな」
「相馬さんはお元気だ」
美甘少年は苦笑いを浮かべた。
「小川さんも、それだけ大きな体なら仲間はずれって事はなかったでしょう」
「体のでかさが関係あるのか?」
健作の言葉に、ちょん、と昌治が肘をつついてきた。
昌治はちらりと健作に視線を送り、すぐに切った。なんだよ。言ってくれないとわからない。
「ぼくは引っ込み思案でいつも仲間はずれだったんですよ」
美甘少年が言った。
「ずっとひとりで過ごしていたんです。自分の部屋で。特に冬は。だから時間だけはたっぷりあって、成績も良かった。それだけです」
だけど。
「鶴形中佐がぼくを見つけてくれた」
美甘森太郎くん。どうだ、陸軍に来ないか。
「それからぼくは勉強した。する事がないからしていたのを、士官学校を目指すために勉強した。軍人になるための最低限の体力をつけるために運動も真面目にやるようになった。もうだれもぼくをのけ者にしなくなった。生きている感じがした。ぼくは――ああ、ごめんなさい」
美甘少年ははにかんだ笑顔を浮かべた。
「どうぞ。お客さまを通用門から招き入れるなんで失礼ですが、お許しを」
美甘少年が三人を案内したのは玄関ではなく中庭だ。正面に縁側があり、一方は曲屋になっている。
「ただいま戻りました、鶴形先生」
美甘少年が言った。
昌治、健作、そしてハナちゃんに緊張が走る。
「はい、ここにいらっしゃいます」
美甘少年が言った。
えっ。今、なにか返事があっただろうか。
美甘少年は縁側に登った。振り返り少しの驚きを浮かべ、そして微笑んだ。
「お嬢さまに西山さまもいらっしゃいましたか」
三人の後に美しい少女と姿勢のいい男性が立っている。
「これは素晴らしい。役者が揃った。冗談倶楽部の記者さん、よろしいですか。あなたは憶測も脚色もなく、いまここで見たままを記事にしてください」
記者と聞いて美彌子と西山軍医はハナちゃんを見た。
学生服だしやはり少年にしか見えない昌治と健作ではなく、ハナちゃんに自然と目が行く。ハナちゃんの変装は完璧だ。そして記者さんと呼びかけられ、ハナちゃん本人もその仮面と一体化している。遊軍記者平井華子に。なにも見逃さない。なにもごまかされない。
美甘少年は障子に手をかけた。
そして障子が開かれた。
「平井ハナくん!」
その声は突然の稲光のように聞こえてきた。
「小川健作くん、相馬まさはるくんも!」
三人は声のする方向に顔を向けた。それと同時に日曜の午後の賑やかな雑踏が耳に飛び込んできた。
ここはどこだ。
今までなにをしてきたんだ。
銀座だ。華の繁華街だ。どうやってここまで歩いてきたんだろう。
路面電車と人力車が行き交う中、真っ赤な自動車が停まっている。まるで蒸気機関車のような丸いラジエーター。ドゥローニー・ベルビユ・タイプHB6L。最新型のスポーツ自動車である。
「やあ、なにをぼうっと歩いているんだね。乗りたまえ!」
運転席のおしゃれな青年がゴーグルをハンチング帽の鍔の上にあげ、「こいよ」と手を振った。
「おれたちを呼んでいる?」
昌治が言った。
「でもおまえのことは、まさはると呼んだようだぜ」
健作が言った。
「それがおれの名前だよ。しょうじは通称だ」
えっ!と、健作は豆鉄砲にうたれた顔で飛び上がった。
「なんだそれ! 高校でも大学でも、おまえ、しょうじで通してるじゃないか! いったいどういうことなんだよ!?」
「おまえ、鷹揚としているのにいつも突然驚きだすよな、健作」
「そういう問題か!?」
「あの」
ハナちゃんが言った。
「どなたでしょうか」
職業婦人にしか見えなかったハナちゃんは、今は背伸びして化粧した少女に見えてしまう。昌治と健作も元気がない。萎んでいるのではなく、ただ呆然としているのだ。目の前で起きたことの整理がつかない。竹屋敷でのあの光景の整理が。
そして三人はいつの間にか竹屋敷を出て、正体もなく歩いてきたらしい。
ハナちゃんはずっと考えていたのだろう。
「ぼくは薩摩次郎」
青年が言った。
「バロン薩摩とか男爵とか御前とも呼ばれるが、ぼくの家に爵位なんかないし、そもそも薩摩家当主でもない。ただの放蕩息子で寛大な父親は健在だ」
三人の変な人を見る目は変わらない。
ハンサムで明るいルックスではあるのだけれど。
「ミルクホール黒猫亭のオーナーだから、君の雇い主って事になるぞ、平井ハナちゃん」
堂に入ったウインクで御前が言った。
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。




