壺中の天 8
「おい、どきやがれ。そこはうちの社の場所だ」
「なんだとこのやろう。ここはおれたちが昨日から仕切っているんだ」
正門から怒声が聞こえてくる。
美甘森太郎が来てから騒ぎは大きくなるばかりだ。正門前には常に何人かの記者がたむろしている。あまり柄がよろしくないのは、つまりそのような雑誌でそのような記事にされているということなのだろう。
「申し訳ありません」
縁側で庭を向いて正座し、美甘少年が言った。
「その謝罪はなんの謝罪だね、美甘くん」
背後の閉じられた障子の中から声がした。
「ぼくが来たことでこのような騒ぎを起こしてしまいました」
「この家の主は私だ。君が心配することではない。君は勉強をしっかりやればいいのだ。私の家から不合格者を出すことは認めない」
「申し訳――」
美甘少年は両眼を閉じた。
「――ありません」
気配に視線を向けると、曲がり家になっている向こうの縁側に美彌子が立ち、こちらを見ている。
あの人も変な人だ。
美甘少年は思った。
なぜぼくを受け入れてくれるのだろう。いや、受け入れてはくれないようだけれど。だけど出て行けとも言わない。
「そろそろ時間ではないかね」
障子の中から声が聞こえてきた。
「はい」
「同郷の先輩だ。話すことはいくらでもあるだろう。時間は気にせずに楽しんできなさい」
「はい、ありがとうございます、先生。行って参ります」
美甘少年は立ち上がった。
美彌子は顔をそむけて歩いていった。
正門の向こうから聞こえる争いはまだ終わっていないようだ。
「ハナちゃんのほうがかわいいな」
「ああ、そうだな」
だがハナちゃんだけの黒猫亭と違って、このミルクホールには女給さんがふたりもいるようだ。黒猫亭とたいして広さは変わらないのに。
「しかし、ケーキはシベリヤだ」
「ああ、シベリヤだな」
「黒猫亭のほうが進歩的である」
なにやら対抗意識を燃やしている昌治と健作だ。いや、どちらかというとそれは昌治で、健作はコーヒーを飲みながら相づちを打っているだけなのだが。
小生は相馬昌治である。
相馬町議の息子である。
美甘森太郎くん。君はいま士官学校の受験のために東京に出てきているそうだね。議会事務局の美甘参事にはいつもお世話になっているので、気にかけてやりなさいと父に申し付けられた。まずはどこかで会えないであろうか。
そう手紙を出したところ、美甘森太郎が指定してきたのがこのミルクホールだ。
「健作についてきてもらって良かったよ」
昌治が言った。
目の前のコーヒーに手もつけない。
「相手は美甘森太郎くんだぜ。例の鶴形中佐は死んでいないという噂を起こした男なんだ。なにをどう聞きゃあいいんだよ」
「当たり障りのない話題でいいんじゃないか?」
「東京はどうですか、さみしくはないですかとかか? 勉強は進んでますかとかか?」
「そうそう」
「……」
昌治は隣の椅子に載せている風呂敷包みに視線を落とした。
「これ、うちの町の銘菓なんだ。手紙と一緒に親父が送ってきたんだ。おれに食わせたいってわけじゃない。そんな安い菓子じゃない。美甘森太郎くんに会うときの土産にしろって事さ」
「……」
「うちの親父、軽くってさ」
おまえに似ているんだな。
健作はそう思ったが、口には出さなかった。
「東京から雑誌を取り寄せて読んでいるみたいなんだ。このところ毎日のように手紙を寄こしてくるんだが、鶴形中佐の話はおれより詳しいんだよ。最初の手紙のような『鶴形中佐がほんとうに死んだのかどうか確認できないか』って直接的な言葉じゃないけどさ。圧がすごい」
「そしてけっこうな高級菓子か」
「それで『美甘森太郎くんは元気でした』じゃ、仕送りを止められちまう」
「それは困るな」
「まさかな、美甘森太郎くんが返信をよこしてくるとは思わなかったんだよな。あっちだってわかってるだろうから無視するか断りの手紙を返してきてさ、この菓子も、おれとおまえとハナちゃんで食えばいいやとか思ってたんだ」
「黒猫亭に持ち込みするつもりか?」
「だから休みの日にハナちゃんを誘って、ボートに乗ったりしてさ」
「美甘森太郎に会うことにはこんな怖じ気づいてるのに、そういうことには大胆だな、おまえ」
健作は首を傾け、少し考えてから言った。
「なあ、彼への手紙は例の竹屋敷に送ったのか?」
「そう。親父の手紙にご丁寧に竹屋敷の住所が書いてあった。つまり、美甘森太郎くんは鶴形中佐の家にいる。雑誌に書かれている通りだ」
「変だよな。鶴形中佐がほんとうに死んでいるなら、どうして彼は竹屋敷にいるのだろう」
「親父もそれを知りたがっている。雑誌によると今あの屋敷には鶴形中佐の娘さんしかいないそうだ。それなのになぜ娘さんは美甘森太郎くんを家に上げて住まわせているのか。なあ、健作。おれはどうすればいい。もうすぐやって来る美甘森太郎くんになにを聞けばいい。ホームズならどうするかな。アーサー・コナン・ドイルならどう展開させるのかな。今のおれには想定問答すら作れないんだ」
「いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませー」
店に済んだ声が響き渡り、小柄な少年がミルクホールに入ってきた。
着物の下に白のスタンダードカラーシャツを着込み、そして袴。少年はキョロキョロと店を見渡していたが、やがて昌治と健作のテーブルに近づいてきた。
「その包み、『山のほまれ』ですね」
椅子の上の風呂敷包みに視線を落とし、少年が言った。
「相馬昌治さんですね。美甘森太郎です」
昌治は口をぱくぱくとさせて激しく動揺しているようだ。
「実は」
と、美甘森太郎少年は続けた。
「鶴形先生に相馬さんの事を話したら、同郷の学生さんに自分も会ってみたいから家に来てもらえと。どうでしょうか、よろしければ鶴形先生の家においでくださいませんか。そちらのご友人も」
ごめんなさい。
心の準備が。
さすがの健作も動揺している。
ああ、なるほど竹屋敷だ。
健作は思った。
鬱蒼と茂る竹林。東京の都心で空に伸びる。
しかし竹は繁殖が早い。雑誌で読むと江戸末期の松岡壺中庵が植えたまま手入れされていないというのだが、よく屋敷や隣家に被害がでないものだ。
「松岡壺中庵は焼いて防腐処理した竹で壁を造り、地中に埋めて竹林拡大を防いでいたそうです。さすがに鶴形先生の時代になってトタンに入れ換えたそうですが、その竹の壁、百年近く土中にあったのにきれいに残っていたそうですよ」
健作の思考を読んだように美甘少年が言った。
それにしても塀が長い。
「正門には必ずマスコミの方々が何人かいますので、こちらから」
裏門に案内してくれるらしい。
「こちらの門もいつマスコミに勘付かれてしまうことか。通いの女中には必ず正門の通用口を使うようにしてもらってますが、マスコミにつきまとわれますし、もともと彼女たちは通用門を利用していただけに嫌がられているようです。まあ」
美甘少年は遠い目で溜息をついた。
「そろそろ、ですかね。この騒ぎは。そうじゃないんだ。これはぼくの本意じゃないんだ――あっ!」
美甘少年が声をあげた。
健作と昌治もその姿に気付いた。塀の陰になっている通用門をスカートのスーツ姿の女性が覗き込んでいる。
「君は誰だ!」
美甘少年の声に女性はこちらに顔を向けた。
美人だ。メイクもあざやかな美女だ。しかし。
「あっ」
「あっ」
「あっ」
その女性と健作、昌治の三人は目を丸くして顔を合わせたまま動かない。
「勝手に入るんじゃない。ここは私邸だぞ!」
「申し訳ございません。呼びかけたんですが返事がなくて」
女性は美甘少年に謝罪する一方、健作と昌治に向かって盛んにウィンクし、唇に指を当てて「しー! しー!」とやっている。
「……つまりあれ、ハナちゃんだよな」
昌治が言った。
「……どうやらそうらしいな」
健作が言った。
「わたくし、冗談倶楽部の平井華子と申しますっ! 事前のアポイントメントも取らず押しかけて申し訳ありませんが、お話を伺わせていただきたくっ!」
「やっぱりハナちゃんだった」
「やっぱりハナちゃんだったな」
昌治と健作が言った。
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。




