壺中の天 6
竹屋敷――壺中庵は江戸時代末期に改修されたままの姿を残す純和風の屋敷だ。しかしこの玄関からすぐの客間だけは違う。次の間付きの十畳間の客間だったのが、鶴形中佐の奥方が洋風に改装してしまった。柱などはそのままだから、多分に不格好であるかもしれない。
畳の上に絨毯が敷かれ、テーブルにソファ。
障子を外した窓にはきらきらと光る色ガラス。
モダンガールで知られた奥方の趣味であったらしい。
「イライラする」
美彌子が言った。
「君は以前からこの部屋が嫌いだったね」
「軽薄!軽佻! なにもかもが堕落! 武家としての心構えがないわ!」
奥方の死でこのように中途半端で止まった客間の洋風化。美彌子は父親に元通りにするようにねだったが、興味、そもそもこの屋敷そのものへの興味がなかった父親は放置していたようだ。
「これで」
と、西山が言った。
「君の望み通り、この部屋を元通りに戻せるのだね」
美彌子の顔から表情が消えた。
少し攻めすぎただろうか。
だが、彼女に必要なのは満足と自信なのだ。
「この部屋は壺中庵さまが――」
美彌子が言った。
壺中庵、この竹屋敷を作り上げた松岡壺中庵のことだ。
「趣味の合う人々を――中にはただの町人もいたというわ。趣味の合う人々を集め語り合った部屋なの。それを、粋もわからない馬鹿な女が――」
話がずれてしまったようだ。
焦ってはいけない。
「それで、なんと言ったかな、あの子は誰なんだ?」
西山はさきほどの書生が持ってきたお茶を取った。
この部屋だから紅茶だったりするのだろうかと思えば、普通の緑茶だ。不思議な感じでもある。美彌子ちゃんにあわせているのだろうか。
「美甘森太郎。さあ? 西山のおじさまや父と同じ町の出身だそうよ。書生として招いてやると書かれた父の手紙を持っていたのだからしょうがないじゃない」
「なあ、美彌子ちゃん。この家にはもう君ひとりなんだぞ」
「違います」
美彌子が言った。
西山は茶に目を落とした
「ねえ、西山のおじさま。あの子が持っていた父の手紙ね、消印が今月のものだったのよ」
「鶴形の手紙じゃなかったのか?」
「父の手紙よ。父の筆跡だったわ」
「――?」
「ねえ、西山のおじさま。あなたは父が死んだと言いましたね。それは本当に本当のことなのですか。私はこの部屋を私の思うように、壺中庵さまのお望みの通りに改装できるのですか? ねえ――」
「西山が?」
美甘森太郎が机の端に置いた茶を持ち上げ、鶴形只三郎氏が言った。
「家族ぐるみで付き合いがあるとおっしゃってました」
「間違いじゃない。間違いがあるとしたら、西山は独身で彼には家族がいないということだ」
「会わなくてもよろしいのですか」
「なぜ」
「ご友人でしょう。客間にいらっしゃいます」
「彼は私に会いに来たのではない。私に会いたいなら自分でここまで来るだろう。彼は美彌子に会いに来たのだ」
「鶴形先生。伺ってもよろしいでしょうか」
「なんだね」
「先生はなぜ、殉死なさったのですか」
鶴形氏は森太郎に視線を向けた。
森太郎はじっと鶴形氏を見つめている。
「私はここにいるように思うが」
森太郎は視線を外さない。
鶴形氏は苦笑し、お茶を机に置いた。
「たぶん、浪漫かな」
鶴形氏が言った。
「御一新以来、日本はめざましく発展した。御一新後に生まれた私ですらついて行けないと思うことがある。しょうがない。日本はまだよちよち歩きの国なのだ。それでいて赤子扱いされることをよしとせず、自分の足で立ち、列強と対等にやり合おうとしている。軍人であれば余計にそれを痛感する。背伸びをして、背伸びをして、清に勝ち薄氷とはいえ露西亜にも勝った。しかしそれで終わりではない。日本はさらに背伸びをして背伸びをして、背伸びを続けるしかないだろう。しかしな」
鶴形氏は遠い目で笑った。
「あまりに急激に古いものが忘れられていく。時には侍の時代を考える。二五〇年の眠りを貪ったといわれようが、その間に育んだ私たちの精神世界を忘れ去っていいのだろうか」
鶴形氏はお茶を持ち上げ、一口飲んだ。
森太郎は視線を外さない。
「そして大喪の儀の日、私は乃木閣下の殉死を知った。痛恨だった。遅れをとってしまったと思った。そして私は腹を斬ったのだ」
ツゥ……っと。
森太郎の目から涙が落ちた。
「さあ、私のことはもういい」
鶴形氏が言った。
「自分の勉強に戻りなさい、美甘森太郎くん。指揮官は数学ができないと勤まらないぞ」
森太郎は深く頭を下げた。
肩が震えている。
嗚咽が聞こえている。
「――美彌子ちゃん、今、なんて?」
聞き間違えたのだろうか。
西山はぞっと寒いものが背中を走るのを感じた。
「ですから」
美彌子が言った。
「父は――鶴形只三郎は本当に殉死したのですか?」
答えられない。
なにも反応できない。うかつに答えると間違ってしまうかもしれない。考えろ、圭介。
「だってあの手紙」
「うん」
「消印も十月のもの。この屋敷の近くの郵便局のもの。そして筆跡も文体も間違いなく父のもの」
「その手紙を確認できるだろうか」
「あの子のところよ。見たいのならおじさまがあの子に頼んでちょうだい。私があの子に頭を下げるだなんて嫌よ」
「わかった。それで驚いた君は、彼を屋敷に上げるしかなかったのだね」
「父がそう言ったのよ」
「うん?」
「あげてやりなさいと。父が言ったのよ」
「それは――いつのこと――なのだね」
じろり、と美彌子は西山を睨み付けた。
「信じてないのね」
いったい何があったんだ。
この竹屋敷でいったい何が起きたんだ。
「父は殉死しました。だけどそれから二週間後に父は美甘森太郎に手紙を書き、美甘森太郎はその手紙を持ってこの家にやって来た。そして父が私に言ったのです。その子の言ってることは本当のことだからあげてやりなさい、と。ねえ、西山のおじさま――西山圭介陸軍軍医少佐!」
西山は答えられない。
「父はほんとうに死んだのですか!」
これは叱責だ。
無能なおれへの、松岡家のお姫さまの叱責だ。
竹屋敷は広い。
庵と呼ばせようというのが無茶だ。
美甘森太郎少年の部屋は小玄関脇の女中の間が使われているようだが、それだって六畳二間に布団部屋、トイレまでついている。かつては数人の女中が生活していたらしい。
「美甘くん」
西山は小玄関の畳の間から襖越しに声をかけた。
「西山だ。君に聞きたいことがある」
返事はない。
「美彌子ちゃんは両親を亡くしている。きょうだいもいない。この家でひとりだ。私は鶴形の友人として彼女を見守っている。わかるだろう。女の子一人で暮らす家に男を上げるわけにはいかないんだ。君を疑うわけではない。しかし、これは彼女の将来に関わることでもある」
西山は溜息をついた。
「君は鶴形からの手紙を持っているという。私にそれを見せてくれないだろうか。もちろん、君も今この家を出されては困るだろう。私も君の同郷だ。県人寮を紹介できるし、いろいろと力になろう――」
悲鳴が聞こえた。
西山は振り返った。
小玄関の隣、大玄関の畳の間に美彌子が来ている。西山と美甘少年のやりとりを観察するつもりだったのかもしれない。その美彌子が眼を見開き、さらに悲鳴をあげた。
西山は美彌子の視線の先を見た。
風に揺れる竹林。ただでさえ暗い竹林は秋の早い夕暮れで更に暗い。その中に人影がある。
まさか――?
馬鹿野郎、おれまで引き摺られてどうする、圭介!
「美甘くんか」
西山はその人影に声をかけた。
「そこにいるのは美甘くんだな。少しいたずらが過ぎないか。美彌子ちゃんは父親を喪ってまだ――」
「ぼくがなにか」
女中部屋の襖を開け、美甘少年が立っている。
「――」
竹林に目を戻すと、もう人影はない。
しかし西山はそれを見たと思った。
小首を傾けるのが癖だ。
そして仲間には小粋に二本指で敬礼をするのだ、彼は。
美彌子の悲鳴は止まない。
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。




