壺中の天 5
東京の外れのミョウガ畑の中に建つ西洋風の木造総二階建てがミルクホール黒猫亭だ。その二階部分は店主と女給さんの寝室となっている。
まだ薄暗いうちにむくりと起き上がったのは店主さんだ。
階段を降り、庭に出て日課にしている木刀の千回素振り。初老に見えて元気だ。腕も逞しい。いや、初老に見えるがほんとうは老齢なのだともいう。
この頃、女給さんの平井華子さんはぐっすりとベッドの中だ。
彼女の机の上には本が積み重ねられている。大学生になるために猛勉強――していたのではないようだ。重ねられた本の中には先だって西山圭介軍医少佐が上官に読まされたゴシップ雑誌まである。なにやら深夜までランプの明かりを頼りに好奇心を満たしていたようだ。
「好奇心は自由です……」
ほら、寝言まで。
さて、店主は素振りを終えて手ぬぐいで体を拭き、そして黒猫亭の名物であるケーキの仕込みを始めた。
今日はザルツブルガーノッケルンを焼いてみようと思う。
ザルツブルグの山々という意味で、その名の通り急峻な山脈のような姿に焼き上がる。うまく焼ければだが。警視庁を退官してすることがなくはじめたケーキ焼き。未だに挑戦心がくすぐられる。
ふと店主は作業の手を止めた。
気配がある。
店主は脇に置いた木刀を手にした。そして音もなく近づくのはまだ暗い店内だ。
「ぼくだよ」
声がした。
「やめてくれ。まだあんたの木刀を避けられる気がしない。ぼくはもう少し長生きするつもりなんだ」
「御前」
店主は振りかぶっていた木刀を降ろした。黒猫亭は天井が高い。長身の店主でも充分に振りかぶれるのだ。店主はひょいと手を伸ばし、その高い天井に吊されたオイルランプを降ろして火を点けた。浮かび上がったのは長い足を組んで座っている青年だ。
「お戻りでしたか」
「急に思いついて、君のケーキが食べたくなってね」
「倫敦から?」
「倫敦からさ」
「本場欧羅巴から、この老人の独学の手遊びを?」
「そうだよ。それで今日のケーキはなんだい。いい匂いがしている」
店主は青年のテーブルの上を眺めた。
火のついていないランプに雑誌。天井を見上げると、ランプがひとつ足りない。
「夜からずっといらしたんですか」
「そうだよ。ぼくは黒猫亭のケーキを食べに来たのだからね。横浜に着いてすぐに車を飛ばしてきた。知っているかい、人の眠りが一番深いのは眠ってから一時間後なんだそうだ。だから君の部屋の灯りが消えてから一時間後に合鍵を使って中に入った。ここが残念なところなんだが、まあ、合鍵があるのにわざわざ別の手段で侵入するのも逆に興ざめというものさ。そして君の驚いた顔を楽しみに夜を過ごした。君は見事に驚いてくれた。満足だ」
「ここはあなたの店なのだから、素直に入ってくればいいんです」
「やだよ。せっかくの日本で、せっかくのあんたなんだぜ。少しくらい楽しませてくれよ。むこうでこんなイタズラをしたら投獄されてしまう」
「日本でも投獄されますよ」
「ぼくをここまで仕込んだのはあんただぜ、藤田先生」
「まあ」
と、表情が変わらない店主にはめずらしく苦笑いが浮かんだ。
「あなたならしょうがない。正直、侵入に気づかなかったのかとゾッとしましたよ、さっきはね。自分はそこまで老いてしまったのかと」
「なにを言っているんだ。ここに来るまでに面白い話を聞いたよ。君、ついこの間も捕り物の助っ人を引き受けたんだってね」
「動けなくなるまでは」
「そういえば、もうひとつ灯りがついていた。素人に気づかれるぼくじゃないから無視したが、黒猫亭は順調らしい。かわいい女給さんを雇ったんだね。平井華子、くるくると表情が変わる」
おや。
夜にここについたようなことを言っていたが、昼から観察されていたらしい。
「いい子ですよ。ケーキをうまく焼きたいというので、生地の声を聞けといってやったらほんとうに聞こうと頑張ったそうです。この頃、なかなかあんな素直な子はいません」
にっこり、と青年は魅力的に笑った。
店主や小川健作ほどではないが、この青年も当時の日本人としては長身の部類だろう。ボタンダウンのシャツにプレーンノットのネクタイ。チェックのスーツ。軽快なファッションを軽快に着こなしている。
「久々に戻った帝都東京を騒がせているのは――」
青年はテーブルの上の雑誌に手をかけ、ぱらぱらとページをめくった。
「夜ごと町を歩く、殉死せし陸軍中佐か」
青年が言った。
「私も見たよ。夜中にこの道をひとり歩く兵隊さん。近所だってだけでよく知っているわけじゃないが、あの背格好や軍服は……」
「鶴形中佐かい」
「シッ」
通行人の話す声が聞こえてきた。
自分もかなり敏感になっているようだ。
竹屋敷が近づいている。彼らもそれでこの話題をはじめたのだろう。
「ほら、このごろ噂になっているだろう。ぞっとしてしまってね、声をかけようと思ったがやめたよ」
「なぜ」
「別の兵隊さんだったら怖いじゃないか」
「兵隊さんだって取って食やしないだろうさ。それより」
「それより?」
「ほんとうに鶴形中佐だったらもっと怖い」
紳士の二人組は肩をすくめて周囲を伺い、そして別の話題へと移ったようだ。遠ざかり、もう声も聞こえない。西山圭介陸軍軍医少佐は軽く溜息をついた。
竹屋敷の門の前でも盛んに覗き込もうと試みる人影がある。
寺の山門のような大きな門は閉ざされ、覗けるものではないのだが。
近づく西山に気づいたその男はぱっと姿勢を正してステッキをつきながら歩きはじめた。マスコミではなくただの野次馬だったようだ。しばらく歩き、そうっと振り返ったその男は、西山がまだ睨んでいるのに驚いて向き直り足を早めた。
西山は門の横の潜り戸を開けて鶴形屋敷の中に入った。
そこで立ち止まり、腕を組んで待つ。
やはり懲りない男だったようだ。先ほどの男が潜り戸から顔を覗かせ、仁王立ちの西山にぱかっと目と口を開けた。軍医とはいえ軍人だ。これくらいの威圧はできる。
「私は西山圭介陸軍軍医少佐だ」
西山が言った。
「たしかにこの屋敷の門は大きいが私邸である。君はそれを知って立ち入ろうというのか」
男はなにも言わずに顔を引っ込め、そして駆けていく音が門の向こうから聞こえてきた。
「やれやれだ」
美彌子ちゃんは大丈夫だろうか。
こんな好奇な視線の中で、あの子はちゃんと暮らしているのだろうか。
「やれやれです」
その声に西山は振り返った。
屋敷の玄関から出てきたのは、白のスタンダードカラーシャツに着物を羽織り袴を着けた少年だ。
「無礼者を追い払ってくださったのですね。マスコミに騙されて、おかしな噂を振りまいたり覗きに来る失礼な者がいるのです。困ったものですよ。失礼ですが鶴形先生のお知り合いの方でしょうか」
「君は誰だ」
「ぼくは美甘森太郎。鶴形先生に呼んでいただき、十月からこの家に住み込んで書生をしています」
「私は聞いていないぞ。この家に書生がいたことはない。私は西山圭介陸軍軍医少佐。鶴形中佐とは家族ぐるみの付き合いだ。この家に住んでいるというのか。だれの許可を得たというのだ。そもそもこの十月からだと――」
「ですから」
と、森太郎は微笑んだ。
いや、この少年の顔にはずうっと笑顔が張り付いている。
「鶴形先生に」
西山は目を剥いた。
「西山のおじさま」
玄関の衝立の向こうに美彌子がいる。
「美彌子ちゃん、これはいったいどういうことだ」
「大きな声をあげないでくださる?」
美彌子は背を向けて歩きはじめた。ついて来い、そういうことだ。西山は玄関をあがった。
「美甘さん」
背を向けたまま美彌子が言った。
「はい、お嬢さん」
「客間に私と西山のおじさまのお茶を持ってきてくださる?」
「はい、お嬢さん」
西山は二人の間で視線を泳がせ、美彌子のあとを追った。
にたり。
森太郎の顔に張り付いていた微笑は毒々しいものに変化している。
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。




