壺中の天 4
「西山くん」
西山圭介陸軍軍医少佐は陸軍医務局の廊下で軍医監に呼び止められた。
「はい、閣下。なんでありましょうか」
「私の部屋で」
部屋で軍医監は人払いし、自分の椅子に座った。
「西山くん。これは上官として聞くのではない。個人的な興味だ。いいね」
もったいぶって、いったいなんだろう。
もちろん、胸の奥にちりっと感じるものはある。それでなければいいのだが。
「君が鶴形只三郎中佐の検死をしたのだったね」
ちくしょう、それだった。
おれはどこでヘマをしてしまったのだろう。
「はい、閣下。警官二名立ち会いのもと自分が検死しました」
「君と鶴形くんは同郷で同期だったそうだね。うかつだった。医務局に歩兵と兵科が違うので気づかなかった。君に鶴形くんの検死をまかせたのはよくなかったと今は思っている」
胸が高鳴る。
「自分が発見者のひとりでしたし、おっしゃるとおり友人でありましたので検死を志願いたしました」
「それで」
口の前で手を合わせ、軍医監が言った。
「おかしなところはなかったのかな」
「医務局のほか、警視庁にも検死報告書を提出しております。なんの問題もなく受理されたと承知しております」
軍医監は雑誌を机の上に置いた。
ゴシップ誌だ。こんな低俗なものを軍医監が読むのか。
「栞が挟んである」
「はい」
西山はパラパラと雑誌をめくり、栞のページで止めた。
『死人は夜歩く』
なんだこれは?
しかしざっと読み進めていた西山ははっと顔を上げた。
軍医監が自分の表情を伺っている。しまった、激しく反応しすぎただろうか。
「鶴形只三郎陸軍中佐」
「去ル九月十四日明治大帝ニ殉死セシ鶴形中佐ハ生キテイタノカ」
「目撃情報相次グ」
「実はな、西山くん」
軍医感は西山を睨み上げる。
「彼の郷里。つまり君の郷里から問い合わせがあるのだ。鶴形只三郎中佐はほんとうに死んだのかと」
「……」
「そもそも。私も彼と何度か会ったことがある。彼は――」
「……」
「殉死を選ぶほどの熱狂をもつ男だったろうか」
物事は、と西山は思った。
思わぬところから綻ぶものなのかもしれない。
ぼくが質問者に選ばれたのは、ただぼくが成績優秀者だったからだ。
質問したいわけでも、なにか聞きたいことがあったわけでもない。その人だって子供の頃から歌で知っているだけの人だった。
夏が近く、窓がすべて開け放たれた小学校の講堂。
士官学校でのこと。日清戦争の行軍。奉天会戦での激しい戦い。全校生徒の前で彼は語り、そして彼が言った。
「なにか質問はありますか」
「はい」
ぼくは手を上げた。
先生方は満足そうにうなずいている。
質問の内容もあらかじめ幾つかの案の提出を求められ、そこから先生方によって添削修正されたものだ。講演内容と著しくずれていたらどうするつもりなのだ。そう思ったが口に出して言える雰囲気ではなかった。
「ぼくは軍人になりたいのですが、どうすれば鶴形中佐のような立派な軍人になれますか」
結局決まったのは、たったこれだけの短い質問。
その人はぼくの質問に苦笑を浮かべたようだ。優等生が言わされている。それを見透かされてしまったのだろう。だいたい、ぼくはこんな小柄でひ弱なのに。
「君は陸軍と海軍のどちらに入りたい?」
これは想定外だった。
質問を返されるのも、質問の内容も。校長先生たちがさっと緊張しているのがわかった。彼らはただ中佐からの訓辞の言葉を予想していたのだ。おまえはわかりましたと元気に答えよとだけ言われていたのだ。
ただ、ぼくはその時に思った。
この先は言わされる言葉じゃない。ぼくの言葉だ。
「海軍がいいです」
ぼくは言った。
ざわめきが起きた。
生徒の間でも。先生方の間でも。
校長先生は顔を真っ赤にさせている。彼もまたちらりと校長先生に視線を飛ばし、そしてクスクスと笑った。それがぼくには無性に嬉しかった。
「なぜだね」
「敵兵の顔が見えるのは嫌です」
彼は今度は声をあげて笑った。
「君の名前は」
「六年生、美甘森太郎です」
「美甘森太郎くん。君には想像力があり、頭の回転の良さがあり、そして豪胆さまである」
彼が言った。
「海軍にむざむざ渡すのは惜しいな。どうだ、陸軍に来ないか」
「恥ずかしいな、覚えてらしたのですか」
森太郎は机の上にお茶を置いた。
この屋敷に来て一週間。美甘森太郎の書生ぶりはすっかり板についている。食事の用意や掃除は通いの女中たちにさせているが、中佐の身の回りの世話は森太郎がしている。
「もちろんだ」
鶴形只三郎氏が言った。
「君を初めて知った日だからね」
「あの日、鶴形先生がお帰りになったあと、校長室に呼び出されて叱られてしまいました」
「そうかね」
「校長先生は鶴形先生のことも怒っていましたよ」
「そうかね」
「軽い男だと」
鶴形氏は苦笑を浮かべている。
「よく言われるのだ。娘にもね。彼女は母親が松岡の殿さまの子であることが自慢なのだ。私は貧乏藩士の三男坊で、それも御一新後の生まれだ。武士の心得も躾けられず甘やかされて育った私に不満があるのさ」
「でも軍人です。そして清崎の英雄です」
「貧乏藩士の三男坊にはこれくらいしか道がなかったのさ。そして運よく出世できただけだ。その出世だって、娘には藩閥に取り入ったように見えてお気に召さない」
「一二〇石が貧乏ですか?」
「それくらいがね、中途半端で一番貧乏なのだよ。上士としての体面もあって収入相応の慎ましい生活ができない。人目につかない部屋の障子や畳はボロボロのままずっとそのままにしていたそうだ。もちろん、父母や祖父母に聞いた愚痴めいた笑い話だがね」
鶴形氏は森太郎が置いたお茶を飲んだ。
そして言った。
「それでいいのだ。私は私だ。娘には松岡のお殿様の血が流れているかもしれないが私には流れていない。私は鶴形家の人間だ。ただの鶴形只三郎だ」
「鶴形先生は軽いんじゃないと思います。合理的で頭の回転が速いお方なのです」
「ふうん?」
鶴形氏はにやりと笑った。
「君のように?」
「とんでもない。生意気を申し上げてしまいました。お許しください」
「私のことはいい。自分の勉強に戻りなさい。指揮官は数学ができないと勤まらないぞ」
「はい、失礼します」
森太郎が鶴形氏の部屋を出ると、縁側に人影がある。
「お嬢さま、なにか?」
鶴形美彌子は、キッと森太郎を睨み付けた。
「あなたはなぜここにいるのです」
「鶴形先生の手紙はお見せしました。お嬢さまもぼくが書生に入ることに同意してくださったはずです」
「父は殉死しました」
「あなたは間違っている!」
森太郎は声を張り上げ、鶴形氏の部屋の障子越を指差した。
「鶴形先生はここにおられる。ご自分の部屋で本を読んでおられる!」
「美甘くん」
鶴形氏の部屋から声が聞こえてきた。
森太郎は美彌子を睨み付けたま、勝ち誇った笑いを浮かべた。
「なにを騒いでいるのか。自分の勉強をせよと言ったはずだ」
「申し訳ございません、鶴形先生」
森太郎は美彌子に背を向け、縁側を歩いていった。美彌子は鶴形氏の部屋の障子に手をかけようとして、しかしできなかった。
「……」
気配を感じるのだ。
部屋の中に誰かがいる。
美彌子はぞっと体を震わせた。そして障子を開けることもなしに美彌子もまた逃げるように縁側を歩いていった。
鬱蒼と茂る竹屋敷から人影が出てきた。
陸軍将校だ。
「……」
息は白くないが夜は冷え込むようになった。街灯の中、その人影はマントをひるがえして歩いていった。
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。




