壺中の天 3
「そういうわけで」
ぬうっと暖簾から顔を出して店主が言った。
「お客さんがいないとき、少ないときにハナは空いたテーブルで勉強することになると思いますが、それは許してやってください」
「は、はい!」
古武士の店主の前だ。
学生たちは椅子から立ち上がり直立不動で返事をしてしまう。
「はい!」
「はい!」
「はい!」
ミルクホール黒猫亭にとつぜん現れた素敵な女給さん平井華子さんは、大正の時代に大学を目指すハイカラ少女だった。
「それなら、おれたちが勉強をみてあげられるな!」
タイムズを前に議論していた上級生が得意そうに言った。学力では太刀打ちできない健作や昌治たち一年生は「ちっ」と舌を鳴らすしかない。
「ああ」
ぼそりと健作が言った。
「さっき注文を取りに来なかったのも勉強してたせいか」
健作の言葉に、ぴょんとハナちゃんが軽く飛び上がった。
学生たちも、はっと息を呑んでいる。
ハナちゃんが恐る恐る見上げるのは後ろに立つ長身の店主の顔だ。店主の表情は変わらない。ただ、じっとハナちゃんを見下ろしている。
つん、と昌治が健作を肘でつついた。
「おまえ、軽いよ」
昌治に言われたくない……!
激しくそう思うが、彼女がサボっていたのを店主の前で口走ってしまったのは確かに自分なのだ。
「実は……」
と、縮こまりながらハナちゃんが言った。
「店長さんの作ったケーキの生地が綺麗で」
「生地?」
店主が言った。
「どうすれば店長さんみたいなケーキが焼けるのですかと聞いたら、『生地の声を聞け』とおっしゃったじゃないですか。それでじっと……」
「眺めていたのかね、私の生地を」
「ごめんなさい。それで私、お客さまの注文を伺うのを忘れてしまいました!」
ハナちゃんが頭を下げた。
「あの」
と、健作が一歩前に出た。
まて、なにをはじめる気だ、健作!
昌治はパニックを起こしかけている。
「おれが口出すことじゃありませんが、言わせてください。ハナさんはおれたちの注文を聞くのが遅れたことを謝罪するだけで言い訳をしませんでした。おれは彼女が生地を見てたことを今知りました」
わきまえろ、健作!
自分のせいだとはいえ、同じくらい背があるからって、あっちは剣客だぞ!たぶん! 人を斬り慣れているじいさんだぞ!たぶん!
じろり、と店主は健作を見た。
さすがに健作も怯んでしまう。
「ハナさんは」
しかし、勇気を振り絞って健作は言った。
「気持ちのいい人だとおれは思いました」
店主は表情を変えない。でも眼が柔らかくなった。
健作はそう感じた。
「そうですか」
店主が言った。
「お客さんがそうおっしゃるなら、私もハナを叱れませんな」
店主の言葉に、驚くべき事が黒猫亭で起きた。
客である学生たちが一斉に頭を下げたのだ。
「ありがとうごうざいます!」
ハナちゃんは面食らった。
「ありがとうごうざいます!」
「ありがとうごうざいます!」
「ありがとうごうざいます!」
店主は今度もなんの表情も浮かべなかった。ただ大きな手でハナちゃんの頭をぽんぽんと叩いて暖簾の向こうに消えた。ハナちゃんの目には涙がたまっている。
♪都の西北 ミョウガの畑に
♪聳ゆる甍は われらが黒猫亭
「じゃあ、とりあえず黒猫亭か?」
「ああ、そうだな」
講義が終わると教室のどこかからそんな声が聞こえてくる。健作と昌治は顔を見合わせて笑った。
「ああ、そういや健作。相談があるんだ」
「なんだ」
「まあ、とりあえず黒猫亭に行こう」
「いらっしゃいませ!」
黒猫亭に入れば響くのはハナちゃんの元気な声だ。
健作と昌治はにへらと笑ってしまう。自分は硬派だったはずだ。健作にはそんな忸怩たる思いもあるが仕方がない。男としてあたりまえのことなのだ。
「ハナちゃん、今日のケーキは?」
「ケークサレです。甘くないケーキですよ」
「おお、もうわけがわからない。じゃ、カヒーとそれ」
「おれもこいつと同じで」
まあ、さすがに。
大きなフリルのエプロンをヒラヒラさせているハナちゃんの後ろ姿を幸せそうに眺めている昌治の横顔を見て思う。おれは昌治ほどにはデレデレしてない。はずだ。
「だらしない顔してるぜ、健作」
そうでもなかったらしい。
「それでさ、健作」
空いている席について昌治が言った。
「ああ、相談があるって言ってたな。なんだ、昌治」
「おまえ、鶴形中佐って知っているか」
「知らんな」
「即答だな。まあそうだよな。うちの町の英雄でさ」
健作と昌治は同じ雪国出身で同じ高校出身だが、住んでいた町が違う。昌治の町は小さく、当時は高校も少なく、昌治は高校生時代から隣町に下宿していたのだ。
♪こなくそと仲間の体を担ぎあげ
♪鶴形少佐は戦場を走り抜けたり
「おれの町の小学生ならだれでも歌えるんだぜ、これ」
昌治が言った。
「こなくそってのは四国の言葉じゃないか?」
「細かい事はいいんだよ。とにかくその地元の英雄がさ、殉死したんだ」
「殉死」
殉死とは主君の死に殉じて死ぬことを言う。
それは無為に優秀で経験豊富な人物を失うことでもあり、すでに古代においてハニワなどで代用されるようになった。江戸時代初期に殉死が続いた時には武家諸法度で禁止されている。しかし、明治――大正の時代になって殉死した人物がいる。
乃木希典陸軍大将。
日露戦争旅順戦における英雄は敬愛する明治帝の崩御に際し、二ヶ月後の大喪の儀の日に静子夫人とともに自刃した。
「乃木大将のように?」
「うん。しかも乃木大将の次の日に。もともとローカルな英雄だったけど、死んだときまで乃木大将のニュースに埋もれちまったよ」
「で、相談ってのは田舎出身者の悲哀か?」
「親父がさ」
昌治は頭をかいた。
「手紙で妙な事を書いてきたんだ。鶴形中佐がほんとうに死んだのかどうか確認できないかって」
「どういうこと?」
きょとんと昌治は健作を見た。
健作も目を丸めている。今の言葉は健作から発せられた言葉じゃない。健作はこんな澄んだ声じゃない。
「ねえ、どういうことなんです!?」
コーヒーとケーキを載せたトレーを手に、ハナちゃんが目を輝かせている。
美甘森太郎。
鶴形中佐が小学校で講演したとき児童代表として質問する形で会話を交わし、以後その才気を中佐に愛された少年だ。鶴形中佐が後見人になり、来春の陸軍士官学校への入学が決まっていた。もちろん、難関で知られた入学試験を突破したらではあるが。
「それが、中佐の殉死か」
「もちろん中佐という大きな庇護者を失っただけで、入試を突破して堂々と陸士に入りゃあいい。成績はいいらしい」
「それが?」
これはハナちゃんだ。
調子が狂う。昌治はまたガシガシと頭をかいた。
「それがさ」
「うん、うん」
ガシガシ。ガシガシ。
「その子のもとに中佐からの手紙が届いたんだそうだ」
新聞を読んでそんな思い違いをしたのだろうが、余は健在である。それより勉強は進んでいるのか。
「筆跡は、消印は!」
ハナちゃんは目を爛々と輝かせている。
「筆跡のことは書かれてないが、消印は確かに東京で殉死したとされている日の後のものだったそうだ。もっとも親父はその手紙の実物は見てはいない。新米町会議員だしな」
「いたずらなのかしら?」
「そうだろうね。でも、誰かのいたずらにしてもそんなことをする理由がわからない。その美甘森太郎くんが自分でやったのだとしても意味がわからない。確かに鶴形中佐の死亡退職は官報に記載されている事実で、おれも親父の手紙が来てから図書館で確認した。間違いなく鶴形只三郎陸軍中佐は日本の社会にまっとうには存在していない」
「?」
ハナちゃんは小首を傾けた。
横に立つハナちゃんが気になって、フォークでケーキをただ細かく切っていた健作も昌治の言い回しの奇妙さに手を止めた。
「まっとうには?」
ハナちゃんと健作が言った。
「その後も美甘くんと中佐の手紙のやりとりは続き、中佐の誘いで美甘くんは十二月の試験まで鶴形中佐の家に住み込むことになった。鶴形中佐の家では美甘くんの勉強を見る中佐の声が聞こえてくるという話だ」
健作と昌治はそれに気づいた。
ハナちゃんが体を震わせている。
「私……私……」
ハナちゃんが言った。
「好奇心が爆発しちゃいそうです!」
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。




