壺中の天 15
壺中庵さま、一緒に遊びましょう。
美彌子と一緒に遊びましょう。
だれか壺中庵さまにいのちを差しあげて。
竹よ、お空よ、あなたのいのちをちょうだい。
美彌子がひとりぼっちじゃなくなるように、壺中庵さまにいのちを差しあげて。
「美彌子ちゃんは、生まれたときから松岡家の姫さまとして育てられたそうだ」
西山が言った。
それはかつての主筋の娘を嫁に貰った父親のコンプレックス。
そして世が世なら自分は姫さまだという母親の気位。
だが、それでいてこの二人は二人して娘を育てることには無頓着だった。
父親は軍務と付き合いで、母親は友達と遊び回り、二人とも屋敷に寄りつかずに子育ては通いの女中に任せっきり。女中も生意気な娘をことさらかわいがることはなかった。
だれ。あなたはだれ。
私は美彌子。
お話ししましょう。いっぱいいっぱいお話ししましょう。
そんな孤独の中で。
美彌子ちゃんのただひとりの友達は、この屋敷を作り上げた松岡壺中庵になってしまったのだろう。
呼べば必ず姿を現し、居て欲しいだけ一緒に居てくれる。
祖父母に懐く孫娘のように、美彌子ちゃんは松岡壺中庵と過ごしたんだ。
君の言葉を借りるなら、美彌子ちゃんが作り上げたボトルの中の世界には彼女と松岡壺中庵、そしてこの竹屋敷しか存在しないのだろう。
「そして、それを脅かすものは排除する。自分の意志としてではなく、あくまでも壺中庵からの命令、指示として。その対象は当然のように家族――両親になってしまった」
もしかしたら、それは復讐だったのかもしれない。
竹屋敷や客間は言い訳で、ただの復讐だったのかもしれない。自分を愛してくれなかった両親への復讐――西山は、しかしこれを口にすることはなかった。
「そして、別のボトルの世界を持つ美甘さんに出会ってしまった」
ハナちゃんが言った。
西山は沈痛にうなずいた。
「美彌子ちゃんはまだ完全に現実を失っているわけじゃない。その美彌子ちゃんの前に父親が生きているように振る舞う少年が現れた。美彌子ちゃんは混乱しただろう。もしかしたら父親がまだ生きている世界があるのかもしれないとも思ったのだろう」
壺中庵さまに言われて殺したけれど。
壺中庵さまが言うから殺したけれど。
もしかしたら父は生きているのかもしれない。もしかしたら私はだれも殺していないのかもしれない。もしかしたら――。
それは甘美な願望でもあったはずだ。
「美甘くんは自殺だ。ほんとうに自分で腹を斬ったんだ。そして頸動脈を斬ったのも美甘くん本人だ。私が検死をした。間違いない。ほんとうは疑った。美甘くんも美彌子ちゃんが殺してしまったのではないか。松岡壺中庵が彼を殺せと命じたのではないか。だから上官の意向に逆らって私が検死した」
どうするね、と西山が言った。
「これが事実だ。私を警察に突き出すかね。だが頼む。美彌子ちゃんは見逃してくれ」
「警察に突き出すにも、証拠がありません」
「我が日本では自供で事足りる。鶴形の切腹はどうしたのかわかるかね。私があいつの死体に脇差しを持たせ、私があいつの腹を衝いたんだ。そして十字に裂いたんだ。公文書偽造だけじゃない。私は死体損壊すらしたのだ。私はただの犯罪者だ。あの夫婦の頸動脈を斬ったのが私であっても不自然ではないだろう。だが頼む、美彌子ちゃんはそっとしておいてくれ。できれば入院させてやってほしい。鶴形家には美彌子ちゃんひとり暮らすのに不自由しないだけの蓄えがあるという。美彌子ちゃんを救ってやってほしい。夢想のなかでとはいえ、美彌子ちゃんは自分がしたことをわかっていないわけじゃない。彼女は苦しんでいる。どうか、頼む」
西山は土下座して頭を下げている。
ハナちゃんは御前へと振り返った。御前はうなずいた。
君が考えたようにしなさい。
そのようにうなずいた。
「私は事実が知りたかっただけです」
ハナちゃんが言った。
「それ以上は、私の手に余ります。私、思います。西山圭介さん、もしあなたが今いなくなってしまったら、誰が美彌子さんを救うというのですか」
弾かれたように西山が顔を上げた。
その顔に涙があふれた。
もう一度、ハナちゃんは御前を見た。
御前はにっこりと微笑んでいる。ハナちゃんも微笑んだ。
竹屋敷に大工が入り、改装が進められている。
奥方が洋風にしたところは元の和室に。中佐がほったらかしにして荒れていたところは修繕され、畳が入れ替えられ襖も張り替えられ、やがてかつての美しい壺中庵の姿に戻るのだろう。
美彌子は庭に立ち、その姿を見上げている。
ただひたすら見つめている。
西山はその美彌子の姿を見つめている。
連れていくな。
西山は祈った。
お願いだ。松岡壺中庵、美彌子ちゃんを連れて行くな。
もうその娘を解放してやってくれ。
西山医師は竹屋敷の近くにちいさな家を借り、診療所を開きました。
毎日美彌子さんに声をかけ、美彌子さんも穏やかになり、まるで本当の親子のようだったといいます。
美彌子さんは二十歳をまたずに亡くなりました。
病死ではなく、自殺などでもなく、静かに眠ったまま死んでいたのだそうです。
壺中庵さま、一緒に遊びましょう。
美彌子と一緒に遊びましょう。
だれか壺中庵さまにいのちを差しあげて。
竹よ、お空よ、あなたのいのちをちょうだい。
美彌子がひとりぼっちじゃなくなるように、壺中庵さまにいのちを差しあげて。それともやっぱり私のいのちを差しあげましょう。
ボトルの中から外に出て生きるには、大人になるには、美彌子さんの魂は繊細すぎたのかもしれません。
西山医師のその後は私も知りません。
好奇心はいつでも私を走らせます。でも知らなくてもいいことまでのぞき見ろとは言わないのです。
ふたたび主を失った竹屋敷は、やがて大震災で焼失してしまうことになります。
すべての夢と悲しみと思いをその中に秘めたまま。
永遠に失われてしまうことになるのです。
♪都の西北 早稲田の杜に
♪聳ゆる甍は われらが母校
♪都の西北 ミョウガの畑に
♪聳ゆる甍は われらが黒猫亭
「いらっしゃいませ!」
今日も大学近くのミルクホール黒猫亭では、素敵な看板娘平井華子さんが元気に働いている。
和服に白いエプロン。
前掛けと肩に大きなフリル。
胸当てにはレース。
そして短めに切りそろえられたおしゃれな髪。
「あっ、相馬さん。小川さん、いらっしゃい!」
黒猫亭自慢のケーキは古武士を思わせる店主さん手作りだ。
だけど彼女の大好物は。
「ワクワクする話はありませんかっ!」
時は大正元年。
ロマンは終わらない。
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。




